ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・7

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1920年に開場した、関西で最初の日本人によるゴルフ倶楽部である舞子CCは、恐らく当時日本に在ったゴルフ倶楽部の中で一番競技を行っていたであろう。
戦前期は他の倶楽部でも競技は多数行われていたが、大正期は舞子がダントツで多く、『Golf Dom』にも(外の俱楽部が飛び飛びで送っているのに対し)ほぼ毎号競技の詳しいレポートが届いることから、それだけ会員たちのゴルフ熱が伺え、月例のマンスリーカップや開場記念日のオープニングカップ、クラブ選手権(前者の存在の為に1926年から同競技の上位者“後グロス上位者”によるマッチプレーで開催、オープニングカップの形状は日本Amの優勝トロフィーを小さくしたような物であった)は勿論の事、
キャプテンカップ南郷三郎寄贈)、東京カップ(東京GC会員寄贈)、伏見宮(妃)カップニューイヤーカップ紀元節カップ、赤星カップ(赤星鉄馬寄贈)、大谷プライズ(大谷光明寄贈)、梅雨カップ、彼岸カップ、市長カップ等々…
1932年の俱楽部解散の時まで毎月数度何かしらの大きな競技が行われており、会員達は腕を磨き競い合った。

競技記録に出てくる名を見ると南郷三郎、羽山詮吉、久保正助、乙部融、岡崎忠雄、村上伝二等の旧鳴尾GAのプレーヤー(羽山・村上は鳴尾GCに再入会している)や、彼等の勧め等で集ってきた新顔では後の『Golf Dom』創立者伊藤長蔵、九鬼隆輝子爵(広野GCの用地提供者)小寺敬一(関西学院教授、小寺酉二の兄)。英国仕込の平佐徹爾、四本俊二。松本虎吉(松方正義の十一男、国内初のルールブック刊行)、加賀正太郎、広岡久右衛門(両者とも茨木CCに深く関る)らゴルフ史の重要人物らが名を連ねているのだから、熱の入れ方は当然といえば当然か。
『Golf Dom』1923年1月号掲載の『舞子通信』には
『~Putting greenも昨今では全く古れて仕舞って總てが冬景色になりましたが日曜日は相變らず大天狗集まりて身に沁む様な寒い風にもおくせず終日各ホール共満員の盛況です、殊に晝の食事の時は各自の功名談で盛況です、Vardon黨も居ればDuncan崇拜者も居る有様にて各playerの熱の上がる事は夥しくgolferならでは明けぬ世の中です、
近來新しいgolferが追々と增加され其技に於いても意氣に於いても素晴らしい勢にて未來のDuncanやWalter Hagenがこの舞子から出ないとも限りません、(原文ママ)』
とその熱心ぶりが報じられている。

彼等の更なる熱を表す物として、舞子CCは神戸GC・鳴尾GC1921年から年に各2回は対抗戦を行い、さらには遠く東京GCや程ヶ谷CCへも乗り込んで交流戦を行っており、後者については後の東西アマチュア対抗戦の源流に成っているという。

また女性ゴルファーたちの集まりも早かったようで、『Golf Dom』1923年12月号掲載の「関西婦人ゴルフ界」という記事には舞子の会員の夫人や娘達が紹介されており、舞子に来た初期の女性ゴルファーとして西村まさ、九鬼忠子・とみ(とみ子)、野田喜見、小曾根ふき、スマート夫人、山口美代が挙げられ、彼女らは家族会員の形か女性会員であったのかは判別できなかったが、度々競技会を開いており、その1925年1月の競技が『Golf Dom』で報じられ(おそらくそれ以前から競技が行われていた模様)、その翌週のアンダーハンディ競技では野田喜見・吉兵衛夫婦が1位を分けた記録も残っている。
(この頃は国内および欧米でもレディスティ及び女性用パー設定が浸透する前で、女性も男性と同じティでプレーすることが殆どであったためこの様な事ができた)
そして彼女らのプレーの発展のために創立された最初の日本人による女子ゴルフ団体、関西レディスGCの事務所が舞子に設置されている。

こういった事を書いていくと、舞子はガチガチの競技派ゴルファーが集っていたイメージも湧こうが、次の様な話も残っている。
1923年度『エイプリルファースト・カップ』は、その名の通り4月1日に行われた競技(開催は丁度日曜日であった事も関係しているのだろう)で、試合方式は12ホールのアンダーハンディ。
田吉兵衛がネット41という好成績で優勝したのだが、プレー後の授賞式で彼には大きなカップが入って居そうな立派な箱が授与された。
“いつもはカップそのものを直接手渡しするのに、外箱を直接とはどうした物か?”
と受け取った野田がその大きな箱を開けてみると、中にはバカに小さな銀カップが一つちょこなんと鎮座。それを見た野田を含めた一同は『おやまぁ』と大笑い。

記事によるとE.S氏(帝人初代社長の鈴木岩蔵)が発案者で、当日はエイプリルフールでもあるから、洒落っ気を利かす趣向で行ったのだという。
西村貫一がこの年の『Golf Dom』9月号にゴルフの愉しみ方への問題提起の文を寄稿した際“外国人は過程を愉しみ、日本人は結果を求める”点に触れている事を鑑みると、当時のゴルフ界にもスコアにかじりつくゴルファーが一定数居たのは間違いないが、それでも、この頃の人たちは後の世のゴルファー達よりもゴルフ全般を愉しむ事が上手であり、そう在れたのはゴルフ倶楽部が本来の在るべき姿で在った故だ、と筆者は信じている。

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)