ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉜『プロに成らなかった男』

 

北海道のゴルフは古い。
1927年春に小樽の佐藤棟蔵(三菱鉱業)、札幌の佐藤清、函館の君島一郎(日銀支店長)らパイオニアが銘々公園の一角や草原でクラブを振り始めたのが同地のゴルフの始まりとなっている。
(それ以前1910年代末期か、プロの中上数一が海軍除隊後に後援者のH.E・ドーントが日本総支店長をしている石油会社の小樽支店に一時期勤務していたというが、彼は同地でボールを打つ事が在ったのか?)

倶楽部としては1927年11月13日に函館GCが、1928年4月11日に小樽GC(のち銭函CC=現小樽CC)が誕生している。前者は湯の川温泉そばの競馬場のトラック内の6ホールコース、後者は銭函海岸の草地に3ホールのコースで出発した。
※この創立開場時期について、それまで小樽の後とされていた函館側の資料が見つかった際に『小樽・函館論争』として1980~90年代にゴルフ史家の間で話題になった。

 続いて室蘭のイタンキ浜、札幌の月寒、旭川の牧場の敷地、洞爺湖の湖畔にゴルフ倶楽部が誕生し、1934年6月にこれら六つの倶楽部によって北海道ゴルフ連盟が発足。それに合わせて国内外のゴルフ客を対象としたツアーを札幌鉄道局が考え、1937年には英文パンフレットを発行するなど、発展を目指して活動をしていた。

そんな北海道のプロゴルフの流れは1929年夏を皮切りに二度、鳴尾GCのプロ石角武夫がレッスンで北海道を回り、後に第一回日本プロ参加者である関一雄らしい人物(霞ヶ関CCの関新蔵かもしれないが)も来道した話が小樽CCに伝わっており、名手陳清水も1934年にイタンキこと室蘭GCへレッスンに訪れている。

生え抜きの者としては1932年春に小樽CCの井川栄三と佐々木強がプロ見習いになり、シーズンオフには津軽海峡を渡って霞ヶ関CCや藤澤CC(戦争で閉鎖)で研修をしながら競技に出て北海道プロの先鞭をつけ、続いて札幌GCの佐藤敏夫が1935年にプロに成っている。
佐藤がプロに成った頃には北海道の幾つかの倶楽部にプロが所属(本州からの配属者含む)するようになったので、1936年9月10日に札幌GCにおいて北海道プロ選手権(36H競技、当時は全道プロと呼んだ)が行われ、5人の参加者(パイオニアの一人である佐々木は兵役で不参)ではあったが、雨混じりの強風の中、本州のプロ競技と同じレベルの一位のスコアが出て、それを出した小樽の井川と札幌の佐藤によるプレーオフは前者が後者に大差をつけて優勝している。
史料として試合結果を記しておこう
1:井川栄三(銭函) 37・38+36・39=150 プレーオフ 36・40=76
2:佐藤敏夫(札幌) 37・38+39・36=150 プレーオフ 42・44=86
3:川瀬静男(旭川) 42・44+43・42=171
4:福士秀雄(銭函) 47・44+43・38=172
5:岩下利幸(札幌) 47・49+53・53=202

※ここで面白いのが、優勝した井川が後年北海道ゴルフ史本『北海道ゴルフの歩み』でこの大会の事を述べているのだが、彼は自身が優勝したことを含め試合の内容をすっかり忘れ、編纂者の一人小笠原勇八も自身が編集長をしていた『Golf(目黒書店)』の各倶楽部競技記録欄に競技が掲載されていたのを失念してしまっていたのだ⁉
また、その後もプロ競技はアマチュア選手権に付属する形で行われたそうだが、記録が出てこない。

以上が正史なのだが、北海道ゴルフ史の書籍には記されていない井川と佐々木よりも前、1930年頃(1927年説あり)函館でプロゴルフについての動きがあった。
この頃社会人野球チーム『函館太平洋倶楽部』で活動をしていた木村一という21歳の青年が函館GC関係者の勧めでゴルフを始めていた。
彼は結成間もないプロ野球にも誘われるだけの運動の下地が有った為か、連れてこられたインドア練習場でも難なくボールを打つことが出来たことから、段々ゴルフが愉しく成って来ていた。
それを観ていた函館GC創立者君島一郎に『プロを目指したらどうか』と勧められ、木村本人もその気になっていたのだという。
(君島は1927年11月13日に函館GCが開場した翌年の4月には松江支店長として栄転してしまったので、木村がゴルフを始めた時期はやはり1927-28年春の間説が正しいのだろうか?)
木村青年は本州で活躍する赤星兄弟の話や、自身と同じ野球出身の新田恭一が名手として居ること、英国のプロ、エイブ・ミッチェルの長打の話などに触れ知識を吸収していたが、ゴルフを始めて1年程で勤めていた会社が運営する劇団に入った為に遠ざかり、再開は二十年後になってしまった。

 木村は晩年この事を振り返り、もし続けていたら尾崎将司の様に野球出身のプロに成れていたかもしれないし、或いは『未だにゴルフ場で事務やバッグ係として働いていたかもしれない』と書き記している。
 しかし北海道で最初のプロゴルファーの称号を逃した代わりに、ゴルフから遠ざかる要因となった舞台の世界は彼に成功を齎した。
劇団で知り合った友人と共に上京し、芸能の街浅草で新たに出会った仲間たち(養子に出ていたという友人の兄も偶然そこにいたのだ!)と共に昭和10年代に一世を風靡したコミックバンド、『あきれたぼういず』のメンバーとして、そして舞台俳優として永く活躍したのだから。

そう、彼の芸名はかのバスター・キートンから採った益田喜頓。日本の芸能史に名を遺した人物が北海道のゴルフ史、そして日本のプロゴルフ史に薄っすらと関わっていたということは物の話に成るだろう。

                            -了-
                            2023年1月14日筆
                            2023年3月22日補訂

 


主な参考資料
・Golf(目黒書店) 1936年11月号P72  札幌GC競技記録より『プロ・トーナメント』
・Golf in Hokkaido 1937 札幌鉄道局
銭函五拾年 小樽カントリー倶楽部  1979
・北海道ゴルフのあゆみ 小笠原勇八・福島靖 朽木英三 北海道新聞社1986
・日本ゴルフ全集7人物評伝編 井上勝純 三集出版 1991
キートンの浅草ばなし  益田喜頓 読売新聞 1986

資料はJGA旧本部資料室で閲覧および筆者蔵書より

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)