ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・9

『9:関西時代のデヴィッド・フードの活動と彼の唱える技術論』

デヴィッド・フードが担当した茨木CCの設計では諸事から造成が不本意な事となり、1925年10月1日に18ホール(2757・3027=5777yd)が開場した少し後にはデヴィッドは二度目の離日をしているが、造成がされてからも倶楽部との契約と設計者の職務としてコースに度々来ており、開場前の1925年4月にローカルルールの決定の為に関係者が廻った際にも同行している。(契約は1925年の夏前後に切れているようだ)

新生グリーン委員であった加賀正太郎は『Golf Dom』1926年4月号『Green Committeの泣言』という題のコース改修にまつわるコラムで、デヴィッドに何とか改修の要点を文字起こししてくれ。と頼んだのだが彼はそれを延び延びにして二度目の離日までの間にバンカーの形状を描いた簡単な図面しか渡さなかったそうで。その為に加賀からズボラ扱いをされてしまっているが、文中デヴィッドの語る各ホールの解説と改修の要望が会員の西村貫一によって書き留められたらしい。と書いたことにより、それを読んだ西村が件の聞き書きを寄稿し、5月号に『IBARAKI GOLFCOURSE』の名で紹介されている。

内容としては各ホールの解説と攻略方法だが
ラフのままにしておくべき(9番グリーン奥、15番グリーン周り)。グリーン奥のフェアウェイ左右の木の下のラフを整備すべき(10番)。だとか、木を切ってはならない(13番フェアウェイ中央、16番グリーン左サイド、18番右サイドの堤と池の堤側)。全長を20yd迄長く出来るがそれ以上になると台無しになる(17番)という指摘や
1・3・4番の距離延長とそれに合わせたスロープの傾斜を緩やかに。とか、グリーンとバンカーの組み合わせの変更や12番ティを11番グリーン右側の先に、18番グリーン傍の池の周りの芝地(18番は加賀曰く、落ちたら溺死するような深田に船を使い粗朶を組んで埋め立てし、フェアウェイを造ったそうだ)をラフにする事などが挙げられている。

所属プロと成る宮本留吉も、造成時から茨木に出入りをしていた関係から(或いは福井覚治の下で研修中に横屋で?)、デヴィッドから教わる事が在ったようで、1975年に国内プロゴルフの流れを取材していたゴルフジャーナリストの柴田敏郎に語った所によると、当時のデヴィッド・フードのレッスンと云うのはバックスウィングが中心で、特にスローバックが教えの軸となっており、そのリズムをバカに喧しく云って居た為、広岡久右衛門などは熱心に取り組んだせいでダウンスウィングのイップスと成ってしまったのだという。
柴田の見解として、『デヴィッド・フードの教えが宮本のバックボーンとなり後に続く“茨木一門”のバックスウィングに於けるリズムの良さへと受け継がれているのでは』と述べている。
宮本本人は最晩年の回想記『ゴルフ一筋』でデヴィッドを大したことが無い。と評しているが、宮本留吉という人物は凄い負けず嫌いな面を持っている事を考慮すればどこまでを信じるべきか。
(何しろ茨木CCに所属する為福井覚治の下でプロ職務の研修をした際も師匠である福井の技量は自分と変わらなかった。と回想しているが、当時を観ていた伊藤長蔵によれば、能く飛ばすけれどもスコアでは先輩アシスタントの村木章(福井の甥)や越道政吉に負けていたというのだから!)

筆者としては他の国内プロ達がデヴィッド・フードというプロをどの様に評価していたかが気に成っている。福井覚治がプロとしての態度を得たのがデヴィッドのレッスンを見てからで、そのショットや教え方を見習い研究してから教え方が上手くなったと伊藤長蔵が追悼記事で書いている。
また、程ヶ谷CCの初代プロであった中上数一(日本プロ勝者)も程ヶ谷の開場イベントの際にデヴィッドの技術を間近に観たというし、慶応大卒でアマチュア出身プロの村上伝二や、同じ鳴尾GC会員で後にプロとなる石角武夫(早稲田及び東亜同文書院出身)などはデヴィッドと意見交換をしていたのでは。と考察をするのだが、そういった事柄が出てこないので想像の範囲にとどめておく。

デヴィッドが最初の来日の際に横屋GCと舞子CCでレッスンをした返礼として有志一同が社交クラブ、阪神ゴルファース倶楽部の晩餐会に彼を招待した際に、デヴィッドが併設の福井ゴルフ教習所で諸事について講演した際の話をまとめた記事が『阪神ゴルフ』1922年9月号に掲載されているが、当時の関西ゴルファーたちが犯していた間違いの指摘が興味深いので、紹介してみると

アドレスでのフェースを飛球線と直角に合わせるべきところをヘッド(の中心?)を直角にしている為フェースが被ってしまう。とかスタンスと体の向きがチグハグに成っている問題(デヴィッドは軽いオープンスタンスを勧めている)
神戸のゴルファー達の共通の癖として、バランスを欠いていてインパクトでジャンプアップをする問題と、ヒッティングの際にしゃくり上げをしてしまう者が多い事と上手なフォロースルーの仕方についての解説がされている。

そして彼の論で注目したいのは。クラブは目的に応じた使い方をし、楽なショットで得る事の出来る距離を念頭に置いて番手ごとの距離設定を組むこと。コントロールショットはマッシーやマッシーニブリック等のアプローチクラブで行い、ほかのクラブでは単純にプレーをすること。向かい風の中ドライバーショットをするならば低いティを使うこと等、一般プレーヤーはゴルフのショットをとにかく単純化簡略化することを述べている点だ。
(西村貫一もドライバーが無くて困っている。とデヴィッドに話した際、無理にドライバーを使うより、ブラッシーの様にロフトによってキャリーの有るボールが打て、ミス補正力のあるクラブで良いではないか。と言われたことを後に記している)

デヴィッドから彼が横屋(甲南GC)でレッスン始めてから離日をするまでの間教わっていたレートビギナーのY.S.生と云うゴルファーが『Golf Dom』1927年1月号に寄稿した『Beginnerとしての二年有半』という記事では
デヴィッドから“こんなに体の固い人は受け持った事が無い”と云われたという彼は、フォワード(ダウン)スウィングでクラブよりも身体が先に出るのでデヴィッドが口癖のように『クラブを先に出せ』と云い、曰く腕力の弱い老年者(と云ってもY.S.生は当時46~47歳だ‼)にはよくある事だと述べていた。
他にも、スローバックは良いとしてもダウンスウィングが早いのでジャークするからせっかくのスローバックが何にもならないのでトップオブスウィングで少しポーズせよ。と教えたとか、あまり滅茶苦茶にプレーをするとフォームが崩れる恐れがある。と述べた話が出てくる。

西村貫一は横屋で洋行帰りのゴルファーのインパクト後の動きが日本のプレーヤー達とチョッと変わっていた事からデヴィッドとアイアンのダウンブロウにおけるスウィングのコツと、ウッドクラブのスウィングとの相違を話している。(内容は今では基本的な話なので省略する)
またデヴィッドが1926年の最後の離日の際に書き残した『Some Remarks on Japanese Golf』内ではコースに中々出かけられないプレーヤーはグリップの感覚と筋肉の柔軟性の保持の為毎日2~3本のクラブを手にして5分間のスウィングを行う事を勧めている。

1924~25年間のデヴィッドのレッスン活動がどのようなモノであったかは、意外と残っていないが横屋の甲南GCでのレッスンの他に、残っている写真から夏に六甲の神戸GCでもレッスンしていたとみられる。
そんな彼の仕事ぶりが如何だったかについて、日本に於けるプロのレッスン代高騰(福井覚治などは1ラウンドで9円を貰い、邸宅への出張レッスンでは10~15円を受け取る者もいた)を招いた要因とされ、『Golf Dom』1925年12月号に中上川勇五郎がN. Y.の署名で書いたこの問題に関する問題提起と提案文の中に
『関西ゴルフの界の進歩発展に就いてはフードに負う所甚だ多く、其の点は深く感謝しなくてはなりませんが、一方関西のプロ仲間がフードのレッスン振り、其の他によって甚だスポイルされた事は又争われぬ事実と考えます。(常用漢字、英語翻訳)』
という記述がある。

これは『Golf Dom』1924年4月号の巻末コラム集に『日本人は日本に来るプロをスポイルすると評判が悪い』という記述や、別の時には『丸々海外の真似をしてプロを卑しい職業の様に云う必要はないのではないか、日本はゴルフが始まって20年そこそこなのだからそれよりも技術向上だ』という趣旨の記述がある事から、恐らく日本人ゴルファーの中にデヴィッドを過度に持て囃した者達が居た事と、デヴィッド本人も日本を離れる為の蓄財(ベアード氏の述べる様に関東大震災で資産を失っている可能性が非常に高い)としてレッスン代金を高くしていたのでは。と筆者は考察しているがはっきりしない。

                              ―続―

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)