ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・16

 

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日本のプロのパイオニア福井覚治が人にゴルフを教えたのは1913年に横屋GAに入会した安部成嘉とプレーをして勝った翌日の事だという。
福井本人は『阪神ゴルフ』誌上の回想記で明治41年(1908)の事としているが、夫人が雑誌『日本ゴルファー』1936年4月号における7回忌特集で話したところでは、大正2年(1913)頃に夫が帰宅した際『今日はアベナリユキさんにゴルフを教えた』と語った事を振り返っている。

これが彼のライフワークと成ったレッスン業の始まりなのだが、本人はゴルフ用語を知らないので何と言っていいかわからず困ってしまったり、ただ『自分が斯うやっている様にしてみて下さい』と実演しながら教える状況で、西村貫一始め洋書を読めるゴルファー達が彼に理論や用語を教えるような時代もあった。

この為、教え方に一貫性が無いと看做されることも有ったが、難しい言葉を使わない即効性のあるレッスン(ボールが上がらない人に『(目の前の)谷底に打ち下ろす様にやって見ましょう』と云ってみたり、スライスに悩む人に『もっとハンドアップして振ってみてください』という具合)に定評があり、当たりが遠のいたゴルファー達は彼のレッスンを重宝したというし、『スウィングも全然判らない我々に全く得心のいくように教えてくれた』という回想も残っている。

その為関西で邦人ゴルファーが増えだしてからは唯一のゴルフ教師として引っ張りだこになるのだが、どれだけ忙しかったかは『阪神ゴルファー』創刊号(1922年4月)巻末掲載の彼の勤務状況を記してみると
月~土曜日朝      横屋GCに勤務
月~金曜日11:00~23:00 阪神ゴルファーズ倶楽部でレッスン及びクラブ修理製作
土曜日午後、日曜祭日  舞子CCに勤務
阪神ゴルファーズ倶楽部とは神戸の有志達に依って造られたゴルファー達の社交倶楽部

文字通り朝から晩までぶっ通しで毎日働いている。

同誌3号から“午前中に横屋で働いている”という部分が消え、教習所も水曜日は休み、土曜日は終日舞子CCとなっているものの多忙であり、加えて風通しのいい横屋の海辺から離れ、通気性の良くない阪神ゴルファーズ倶楽部内のインドア練習場に長時間滞在した事が彼の健康を大いに損なった。と伊藤長蔵が『Golf Dom』1930年4月号掲載の追悼記事で述べ、福井夫人も先の『日本ゴルファー』の七回忌特集で同様の事を語っている。

更に後年アシスタントが増えてからも、福井自身が教えることが好きであったとはいえ出張で飛び回り、クラブの修理製作や研究も行い、せっかくの休日も弟子達を集めて研修会を行っており(これが1928年1月に発足した関西プロ研究会の基となった)身体を休める暇がなかったのは大きいだろう。

 彼がレッスンを熱心に取り組んでいた話として、まだ体が悪くなる前、1925年春のある日。横屋(甲南GC)のコースで福井がビギナーにレッスンをしていた。彼も熱心に取り組んでいるのだが、どうもうまく出来ない。
福井は何とか出来るように熱心に教えるのだけれど、変わらないので困ってしまい『貴方は私が言うとおりにして呉れていませんよ』というも、相手も困り果てて『君の言う通りにしても出来んのじゃ』との事。
『いやそうはいっても!』『だからこうなんだ‼』とお互い堂々巡りの果てカンカンに怒りだしてしまった。
後でクラブハウスに戻ってから福井が『ついあんまり夢中になりましたので』と詫びて笑い話となった。この事を報じた記事では“さりとは、熱心の程はおそろしい”と書かれている

また、最晩年結核で病臥している時でもゴルファーがお見舞いがてら技術を訊ねに来ることがあった。その際お客は『覚さん、教えて呉れるだけでいいから、どうか寝ていてくれ』と悩みの相談や質問をするのだが、福井は話している内に段々熱が入って来るのか、病床から起き上がり身体の動きなどを実演で示し始めたというから、本当に教えることが好きであった且つ身体に沁みついて居たのだろう。

そんな彼でも苦闘しているゴルファーに如何声を掛けるか悩んだ事も在った様だ。
先のビギナー氏と互いにエキサイトした事件の翌年、所属地である舞子CCの会員Mさんが凄いメタメタに成ってしまい、福井に助けを求めた。のだが、いざレッスンを開始すると球の荒れ方は然しもの福井も閉口してしまうような様な状況であった。
Mさんが落ち込まない様にどう言葉を掛けるか。褒め上手と云われた福井でも褒める様な所がこの時は無かったので一計を案じて必死な彼に
『ホンマによう続けて打ってですなぁ。辛抱がえろうおます』とその一生懸命さを褒める事にした。
これにMさんが“馬鹿にするな”と怒ったか、苦笑したか、それとも福井の苦衷に気付かず必死に打ち続けたかは記事には書かれていないが、教えるという事が中々難しいことを示す一コマであろうか。

 

 

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1979
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』及び『19th Hole』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1925年4月号『19Th Hole』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1926年9月号『19Th Hole』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Nippon Golfer』1936年4月号 『七周忌に當り未亡人に聴く 我が國最初のプロ故福井覺次氏 個人とその周辺の人々』ほか
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『ゴルフマネジメント』年月号 井上勝純『ゴルフ倶楽部を考える 第51回 大谷尊由の始球式で京都CC山科コース開場』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)