ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

人間は「人の間の距離」と書く...昭和・平成・令和

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今の比べりゃ、の話だけれど...
もう「昭和」って、33〜4年前なのな。

「あの頃は」で始まる話は、若い人間には鬱陶しい話だって分かってて書こうという訳だ。
昭和の時代は、肌をくっ付けることが親しさの証であり、男同士で肩組み騒ぐ事、口角泡を飛ばして喚き・叫び・口論し...挙げ句の果ては取っ組み合いの喧嘩をする事さえ、珍しくもない「付き合い」の形だった。

異性に対しては、何かのきっかけで見初めてからの、いつ終わりになるかわからない命がけの「妄想ストーリー」全開で、泣いたり笑ったり...
運命の糸は、ただ10円玉をたくさん握り締めた公衆電話の向こうに続き、下手な字を書き連ねた葉書や手紙に、例え蜘蛛糸のような細さでも必ずつながっていると信じて...

情報は新聞・夕刊紙やテレビで伝わり、みんな酒やコーヒーを潤滑油として会いたがり、話をしたがった。

その、わずか1mの距離に会いたいが為に、己の価値を上げる努力を怠らず...ほぼ無駄な努力と分かっていても、熱が下がるわけじゃなかった。

遠く100mからでもその姿を探し、1mの距離に近づけばその姿を見る事も出来ず...全てがアナログの世界で、人は熱さを生きていた。

 

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平成という時代になると、人にとっての夢の機械の出現が世の中を変えた。
沢山の十円玉を握りしめなくても、公衆電話の順番を待たなくても、パソコンが個人で使えるものになり、ネットにながり、ポケベルなんてものを経由して世の中に「ケータイ」なるものが登場した。
これで、「いつでも」「どこでも」会いたい相手や、大事な人・仲間とつながれる、という事に世の中の人は喜んだ。

特に「ケータイ」の登場は、それまでの「電話」に対する最大の夢の実現だった...「若者」にこれは普及した。

でも、「ケータイを持っていれば、いつでもすぐそばに友人がいる」「もう寂しくない」なんてのは、とんでもない誤解だった。
電話すればするほどケータイを使えば使うほど、人は一人ぽっちになったのに、「そんなハズがない」と言い聞かせて誤魔化した。

実際に手で触れる媒体の、新聞や雑誌、ハガキや手紙の類は悉く衰退した。
「アナログ」は「デジタル」に敗退した。
アナログの「血と汗と涙」「肌の熱さ」は無意味なもの・古臭いものとして捨てられ、デジタルの「クールさ」と「嘘っぽさ」が盛大に花咲いた。

気持ちが良くなる「フェイク」は受け入れられ、鏡に映る「現実」はダサくてみっともないと拒否された。

実は、「他人にものすごく近づいた」なんて感覚は、薄々自分でも気がついている嘘っぱち。
「ケータイ」の向こうには、実は誰もいないのだ。
近いと感じる「錯覚」は、デジタルが騙す永遠の距離。
現実に触れたい相手は、どこにもいなくなる。

 

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もう一つ時代が変わったら...予期せぬ魔物が現れた。
武漢肺炎...新型コロナって疫病が、辛うじて残っていた嘘っぽい距離感を徹底的に破壊した。
現実もデジタルも、全て一緒くたに「病気の移らない距離を取れ!」って。

それでなくても本当はみんな離れてバラバラなのに、せっかく残っていた数少ない現実でも、「触るな」「触れるな」「近付くな」。

祭りも宴会もパーティーも、結婚式も葬式も、旅行もカラオケも買い物も、人を避けて話を避けて中止だなんて。


いつかこんな時代を、笑って振り返る日々が来ればいい。
俺のような昭和の人間は、例え今より便利じゃ無かったとしても、昭和の時代の熱さがが懐かしい。
例え清潔じゃ無かったとしても、触れ合う肌の熱さが懐かしい。


昔誰かが言っていた
「パソコンやスマホは世界を便利にはするけれど、人を幸せには絶対しない!」
ってのは本当だ。
アンチワクチンは反対だけど、アンチスマホは賛成だ。
人の間の距離のリアルは、きっとスマホを捨てて初めて分かる。


全ては、コロナ騒ぎが収まった後の話だけれど。