ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

「すまほ」なんか捨ててしまえ!

「技術の進歩」ってヤツは、始めは「家庭労働」や「農業」「漁業」などの第一次産業に就く人の負担を軽くして、一般の人達に「幸せになる時間」を増やすことを目的として考えられて来た(少なくとも「うわべ」は)。
だから、技術革新・産業革命とやらが進めば多くの人が幸せになる、と言うのがこの大きな流れの大義名分となった。

しかし、産業革命・技術革新が「省力化」「効率化」の方向に進み始めた時、多くの思索的な先見の明のある人が警鐘を鳴らし始めた。
「この流れは人の生活を便利にはするが、幸せにはしない」と。

自分の近辺で、そうした変化の結果が一般の無名の人たちの間に影響を表し出したのは、今から40年くらい前からだった。
例えばまず、当時俺の入っていた草野球チームのキャプテンは、大手の印刷会社の印刷現場の技術者で「俺は印刷用のペンキでどんな色でもすぐに作り出せる」というのが自慢の、職人肌の男だった。
それまでの腕を持つまでには、10年以上の技術向上の努力があったとも言っていた。
が、ある日彼は「あなたの仕事はコンピューターがやるので、あなたの仕事は無くなりました」と会社から宣告される。
代わりにあてがわれた仕事は、工場周りの清掃と草むしり...当然誇り高い彼に我慢ができる訳もなく、退職...その後、転職を繰り返した後、一家離散から消息不明となった。

同じように、手作業でのレタッチの腕を自慢していた男は、パソコンソフトの発達で誰にでもレタッチができるようになって、自慢の腕を発揮する場所を失った。
親友だった男は、一時写植で成功し、大手からの取引も順調に伸び、大阪で社員10人以上を抱える会社を経営していた。
しかし、これもパソコンの発展とともに「写植」という仕事そのものが消失してしまい、会社を追われた。
その後はやはり一家離散と失意の病死まで流れて行った。

本人に何の責任があったろうか...先見の明が無かったと言われるが、当時どんな風にこの技術革新が伸びていくのかなんて誰にも分からなかった。
パソコンが出てきた当時はまだまだアナログ機器の品質とは勝負にならず、「仕事」としては「当分使えない」が専門家の評価でもあったのに、それからは半年単位で劇的な進化を繰り返し、アナログの作業をプロのレベルで凌駕していった。

半信半疑でイラストをパソコンで描き始めた俺が、新しいパソコンとソフトを入れ替える度に絵の具で紙に描くケースが減って行き、あらゆる絵の具を使わなくなるまでの時間はあっという間だった。
それは確かにイラストを描く上では便利になった...しかし、それまで毎週大量の紙を買い、スクリーントーンロットリングや絵筆やカラーインクやガッシュや製図機器を買っていた、近所の画材屋に買いに行くことはすかり無くなった。
そは俺だけの変化ではなかった為か、その画材屋は間も無く閉店してしまった。
そしてしばらくして俺の街には、もう画材屋はないということを知ることになった。

そして、俺が仕事をしていた雑誌社や新聞社が全て「デジタル入稿」に変わっていって、高齢の社員であろうとデジタル機器で入稿できない人は社員でいられなくなった。

その昔のアナログ時代に、電々公社の社員だった知り合いが「これからの時代に欲しい電話は?」と聞いたところ、圧倒的に「個人用の携帯電話が欲しい」という答えだっとか。
その「夢」だった携帯電話は、最初は馬鹿でかい金持ち用の「持ち歩けるだけ」の電話から、あっという間にポケットに入る電話になって行った。
その値段が一般の人が買えるようになった時、待ち合わせで待っている人が「本を読んで待っている」スタイルが消えた。
ガラケーであっても、メールのやり取りが出来るようになった時、本や夕刊紙の売り上げが落ちて来た。

電車内で夕刊紙を読むのが普通だったサラリーマンたちが、ケータイを覗くのが普通になった。
そして、スマホが登場し「ネット」に繋ぐのが簡単になり、GPSやカード機能やグループ会話の機能などが揃った時に...人は醜く、不幸になって行った。

ガラケーまでは、ケータイの機能の中心は「電話」だった。
これは昔から望まれていた「個人が持てる電話」の実現であり、待ち合わせでの電話ボックス探しの混乱が無くなり、迷子になる人が激減した「便利さ」が一番あった時代だったと思う。

それから「すまほ」という怪物が登場した。
これは多少は便利ではあるものの、むしろネットに簡単に繋がり多機能さがウリな分だけ、簡単に人の「醜さ」「嫉妬」「妬み」「意地悪さ」「卑怯な攻撃性」を表出させてしまう「悪魔の道具」だと俺は思う。
一般的には「知性がある」と見られている職業の人間まで、反射的な恥ずかしい醜悪な感情の揺らぎを世界に公開してしまって「愚か者探しのバカッター」と言われているツイッターと同じ様な魔力を発揮する。

その「隠れて悪いことが出来る」と錯覚させる匿名性と、何も考えずに見ているだけで世界が判った気になる被暗示催眠性と、「みんながやっている」んだからという多勢につく安心感が、知らずその人の大事な人生の時間を浪費させている。

すまほを捨てた時、違う世界が見えるんじゃないか?
ゲームはどんなに面白くても、所詮ゲームを作った人間の頭の中でジタバタしているに過ぎない。
検索機能は便利になり過ぎて、自分の望む情報ばかりが出てくるようになる...意外と公平な意見やニュースを見つける事は難しい。

紙媒体の方が良いとは決して言えないけれど、少なくとも繋ぎっ放しの「すまほ」よりは「時自分で選べる」。

すまほを捨ててみよう。
無理に友達のふりをする必要も無いし、聞きたく無い事は聞かなくていいし、見たく無いものは見なくても良い。


電話さえ使えれば、当座困る事は案外少ないぞ。