ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

名手聖人にあらず? (掘っくり返し屋のノート-7)

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ハリー・ヴァードンというと、ゴルフ史に永遠に名の残るプレーヤーであろう。
未だに破られない全英OP六勝に全米OP一勝を始めとする素晴らしい戦績。真円のスウイングから繰り出される正確な球筋は数多くの伝説を作り、彼が採用したオーヴァーラップグリップにはヴァードングリップの名が冠せられ、1937年の没後彼を称え指向されたUSPGAツアーに於ける最小平均スコアに贈られるヴァードントロフィ(英国PGAでは賞金王に贈られていた)等々数々の逸話が残っている。

そんな彼に対して余り良くない話というのが、戦前の日本に伝わっていた。
私がそれに最初に触れたのは、JGA資料室に通うようになってから2回目から4回目の頃であったか。
雑誌「Golf Dom」1925年12月号で、この年英国・アメリカを訪問した大谷光明がK,J,Oのイニシャルで書いた「渡英土産三つ」の、彼が聞いた英国プロの勤務事情と動向についての評伝に、クラブプロとして良いのは大谷達が一緒に廻ったJ・H・テイラー、次にこれも一緒になったエイブ・ミッチェル。そしてテッド・レイ、ジェームズ・ブレード、アーサー・ヘイヴァース等とする一方、「ヴァードンは物が下等で、ジョージ・ダンカンは生意気だ」との評判を聞いた、と書かれているのを目にしたのである。
私は全英OPや英国PGA勝者達の実態と、ヴァードンへの非難といいう事から興味深く思っていたが、それから1~2年後であったか、もう少し後であったか、別の雑誌でヴァードンに関する可也の批判をしている邦文記事を目にする事になる。

それは「Golf(目黒書店)」1934年2月号掲載の「プロフェッショナル諸君へ」という、先の大谷光明が関東ゴルフ連盟の前身である日本ゴルファース倶楽部で、プロ達への身の振り方について講演した内容に加筆した物で、三巨人つまりヴァードン、テイラー、ブレードの現状をを例にして語っているが、それを読んで行くと...

テーラーは所属地ロイヤル・ミッドサリーGCの名誉会員に推薦された事、ブレードは所属地ウォルトンヒースGCのクラブハウスに肖像画が掲げられており(当時彼の他掲げられているのは全英Am二勝のアーネスト・ホルダーネス卿のみ)、両者が受けた事は当時の英国ゴルフ界ではプロ達にとって最大級の名誉であり、これは戦績のみならず彼等の忠実な勤務態度や人格等が鑑みられての事だ。
と紹介するのだが、大谷はこう続ける。
一方ヴァードンには現役時代から渡り歩いた所属倶楽部は三流処で、現在在籍しているサウスハーツGCも(当時は)あまり知られていない。その上前者二人のように厚遇されている訳ではない、と。
戦績等々優れており、知らない人は居ないと言うプレーヤーなのに何故か? と語り、ここで理由・要因として我々日本のゴルフ界と関わる話が出てくる。

1921年、当時皇太子であった昭和天皇が訪英された際に、随行侍従長や在英大使の申請で、高畑誠一を始めとする在英邦人達が英国の名手達のエキシビションをお膳立てして、上覧頂いたのは日本のゴルフ史について読まれている方ならご存知だろう。
大谷によると、当時彼等は三巨人に打診をしたのだが、その際テーラー、ブレードは名誉の至りとして快諾したのに対し、ヴァードンは「高貴な方御なりと見て、不当千万の多額の謝礼を要求し、容れらずんば出席し難し」と返事をした為、委員は憤慨し「かくの如き代物である」彼を外してテーラー・ブレード対ダンカン・ミッチェルのマッチを台欄奉ったと言う。(実際にはテイラーは出場せず、会場のアディントンGCのプロ、ジャック・ロスが加わっている)

この話と共に、邦人ゴルファーがテイラーに殿下に献上するクラブを注文した際に、彼は最高の名誉として費用は要らないので自身で献上させて頂きたいと申し出た話(テイラーの所属地ロイヤル・ミッドサリーGCのクラブ史には殿下がテイラーのレッスンを受けに何度か訪れた話を載せているというが、これはその裏付けとなる事か、或はこれが”その事”に当たるのか)を挙げ、テイラーの謙虚さと「かくの如き代物」ヴァードンの貪欲を比較して品行・人格に於いて雲泥の差があり... 一方が名誉会員、一方は敗残者足らしめた唯一無二の原因である、とした。
時代の寵児であったリンドバーグやボビー・ジョーンズ等が人望を持ち、謙譲で身を持するに慎重であった事や、ナポレオンの凋落と彼がSt,ヘレナ島で虚栄を保とうとした話を挙げ、若い国内プロ達に謙虚に振る舞い、人格の注意を諭す内容で〆ている。
この話についてはおそらく大谷が訪英時にプレー等行動を共にした高畑誠一から聞いたのだろう。

確かにヴァードンについては堅実に生涯を送ったテイラーやブレードと比べて、隠し子が居るなどスキャンダルがあったのは事実である。(彼、ピーター・ハウウェルの妻オードリーがヴァードンの詳細な伝記を書いているが私は未だに購入出来ず)
と言っても、色々と何かあるのは彼だけではなく、かのボビー・ジョーンズからタイガー・ウッズに至るまで、お金にがめつい・不適切な言動・素行問題・スキャンダル等々「名手成聖人にあらず」と言う話は枚挙に暇が無い。

話を戻し私が思うのは、本当にヴァードンが浅ましい態度を取った為に邦人ゴルファー達が酷く失望してこの様に書いたのだろうか。単にビジネスライクであったのを過剰反応したのではなかろうか?と言う疑問である。
というのもヴァードンはプロがアマチュアのサーヴァントと言う見方がされていた当時の英国ゴルフ界で一財産を成した希有な存在であり、価値観の違う国の様子もつぶさに見て来たからである。
彼は1900年に始まり、1913.20年(15年も遠征予定だったが、予約していた客船が撃沈され断念)と、三度のアメリカ遠征をしている。
その際にヴァードンはアメリカの方がプロに対する扱いが優しい・スターのように見ているのに対して、英国は見方を変えればプロ達に冷淡と感じていたのかも知れない。
事実、「プロの地位や賃金の低さが向上心の低下を招き、良いプレーヤーや新技術が出ない悪循環に陥っている」と、30年代前半にも英国ゴルフ界の問題として報告されている。

その中で自分の名を(用品広告以上に)有効活用しようという思いが、当時の英国では異端者扱いされ(特にそう言った存在には容赦がなかった)、邦人ゴルファー達の中にただビジネスとしてのギャラを求めたヴァードンを「たかがプロゴルファー(肉体労働者程度の意味で)風情が自分からギャラを要求するとは」と言う風に見下していた面があったのではなかろうか。

また邦人ゴルファーの殆どが英国でゴルフを覚えた人達で、英国流の考えが身に染み付いていただろうし(日本国内では福井覚治が舞子GCのプロになったばかりで、越道政吉が彼のアシスタントをしていた頃だ)、更に皇室に関わる事でもあった為、ヴァードンの申し出が現代と比べ物にならないくらい皇室への敬意が強かった時代の人間である彼等の逆鱗に触れたのだろう。

また、1925年当時英国で「生意気だ」と言われたジョージ・ダンカンに対しても、彼はヴァードンと同じくアメリカを何度も訪れて自国のと違いを見ており、プロ達の権利を主張する事を覚え実行していたに過ぎないのではないだろうか。(実例として1920年度フレンチOPで、プロ用施設のあまりの劣悪さにウォルター・ヘーゲン、エイブ・ミッチェルと共に待遇改善されねば出場をボイコットする、と抗議をしている)
もう一世代進んでプロの権利主張と地位向上を明確に行っていたヘンリー・コットンでさえも、華々しい生活スタイルが英国のプロとAmの関係に背いていると見なされ、全英OPに初優勝した時でも主張の点から「ワガママ者め」と、プロAm問わず嫌っている者が多く居た、と言う報告が在英邦人の寄稿文に載っている。

こう言った事を鑑みて私は、これは「権利の主張が当時のゴルフ界にそぐわなかったが為に起きた事」.「ヴァードンのやり方がよっぽど嫌らしかった」を、前者6割半・後者3割半で考えている。

かの偉大なゴルファーに対する礼賛ではなく、批判と言う話が珍しかった為にずっと印象に残っている事柄であり、また1920年代の英国に於けるプロゴルファーの地位に対する好サンプルでもあると思うのだが、皆さんはどう感じられるか。

~了~

2014年 2月24日


参考史料

Golf Dom 1925年12月号 「渡英土産三つ、 K,J,O(大谷光明)記」
Golf    1934年 2月号  「プロフェッショナル諸君へ 大谷光明記」
Golf   1934年 2月号   「最近の英国ゴルフ界を語るー日本との比較に於いて 金野豊記」
Golf   1934年 4月号  「英国のホープ ヘンリー・コットンの印象  金野豊記」
新版日本ゴルフ 60年史  1977 ベースボールマガジン
摂津茂和コレクション3 「ゴルフ史話」 1991 ベースボールマガジン
日本ゴルフ全集7人物評伝  井上勝純  1991 三集出版
日本ゴルフ協会七十年史  1994 日本ゴルフ協会
人間グリーン6 大屋政子、小笠原勇八 1978 風光社
The Greatest Game Ever Played   Mark Frost 2002


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