ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート㉒ミステリー4『真相は心の中か意外な処か』(下)

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前章で1926年度日本Amで赤星四郎・六郎兄弟がタイをして後日プレーオフをする予定でありながら、六郎が病気のため棄権した以外の日時等詳細が不明になっている件と、それにまつわる風説を書いた。
そして文末に書いた筆者が推察する要因(あくまでも推察であり、新資料が出れば覆り用を為さなく成るやもしれない事はご留意いただきたい)海外遠征について記してみたい。
それは上海で行われたチャイナ・オープンAmである。

上海は租界があった影響から19世紀の末頃には在留英国人らによってゴルフが盛んに行われており、江湾競馬場内にあった上海GCをはじめ1920年ごろには倶楽部がいくつも存在し競技会やクラブ対抗戦も多く行われ、倶楽部に所属しない者でも新公園(虹口公園=現魯迅公園か)で時間を決めて自由にゴルフができるように解放されているという環境から日本の台頭以前の極東ゴルフの中心地であり、優れたプレーヤーが在籍し、コースの設計改修や日本Am勝者(勝者が同地に渡った例もある)、来訪プロなど日本初期のゴルフに係る者も相当数いた。
また内地よりもはるかに安くゴルフができる事から日本人のゴルフ熱も盛んで、日本人倶楽部が組織されて活動が始まっており。有名な者には“マックアンドー”の名で極東ゴルフ界に知られた安藤博三や、同地でゴルフを覚え帰国後アマチュアそしてプロとして1920~30年代に活躍した石角武夫などがいた。

チャイナ・オープンAmは上海ゴルフ界の充実期である1924年から、筆者の記憶が正しければ第二次大戦後、中華人民共和国設立まで行われており、第一回大会が行われる際には極東圏内の各有力倶楽部にお知らせが配送されており、東京GCにも届いていた。
1924年11月1~2日に行われた第一回大会には日本から大谷光明と赤星四郎が遠征(他に5名参加予定であったが病気はじめ各位都合で断念)し、赤星は6位、大谷12位に入っており(優勝はスコットランド系オーストラリア人のJ.B・フェリア)、26年大会は再びの参加で今回は赤星四郎・六郎兄弟大谷のほかに第一回の際に出場断念をした川崎肇、そして関西の名手室谷藤七が参加している。

大会は10月9~10日に上海の江湾コースで行われ(72H競技)、川崎がドライヴの球筋が高すぎて距離が出ないながらグリーン周りでまとめ、奮戦し優勝戦線に立つも、最終ラウンドでパッティングの際に中国人ギャラリーの話し声に気を取られた数度のミスが取り返せず優勝のW.M・バット(後奉天に移籍し1933年の日本OPでリーディングAmになる)の318に3打差の3位T。他の面々は六郎が第一・第三ラウンドの84・85が響き5打差の5位、大谷8位、室谷17位、四郎二日目発熱で棄権という成績であった。

この大会について、24年大会共々日本のゴルフ史から抜け落ちていた為、その評価を訴えていた小笠原勇八は9月開催であると記してしており、現在JGAの年史ではこれが踏襲されているが、『Golf Dom』10月号の大会記事では『本月9日10日両日に』とあり(当時同誌はほぼひと月遅れの発行で、同号は10月31日印刷と奥付にある)、また同誌6月号P25 掲載の上海からのレポート『上海通信』にも『~次に來る重大なるものは十月にAmateur Championship of China及び香港とのInter-Portとである.(原文ママ)』
また、アサヒスポーツ1927年7月1日号の日本OPの記事でも優勝した六郎の戦評で前年の日本Amについて触れた個所(注=本戦でのプレーについてで、棄権の事は触れていない)で『続いて上海へ遠征した成績も~』とあることから開催が早まっていなければ10月が正しいと考える。

この大会日時の点が日本Amプレーオフの詳細が判らない事に関わっていると筆者は考えているのだ。
それは、赤星兄弟がこの大会に出る事からJGAが二人のプレーオフの日時を当初の10月15乃至16日よりも先にしていたが、一同の帰国後遠征の疲れで六郎が1~2か月程体調を崩してしまい、プレーオフの日時も決められない状況になり、結局うやむやに近い形で六郎棄権四郎不戦勝という結果になってしまった。(あるいは従来の日程で行う予定であったが六郎が疲労で体調を崩した)という仮説である。
※六郎は写真を見ると大柄でよく日焼けをした健康そうな人物に見えるが、少年時代から体が弱く、現役時代も体調を崩して選手権を欠場していることが度々雑誌で記されている。

あくまでもこれは推察である。それもチャイナ・オープンAmの日程が小笠原の唱えた通り9月であれば土台から消し飛んでしまう様な類の物である。
筆者が自身の考察に不安を感じる理由がその点で、『Golf Dom』1926年9月号の『上海通信』では8月までの競技記録しか送られておらず、また同年の10月16日に東京GCで行われた東京対神戸の倶楽部対抗戦で大谷光明が東京GCの代表として参加している為だ。※東京チームにAkahoshiの名があるが兄弟の誰かは確認できなかった。

加えて、当時日本と上海の航路を独占していた日本郵船の日華連絡船(神戸ないし長崎から上海への快速船)のスケジュールでは、時間から考えれば三日目に神戸から上海、上海から神戸に着くので有得なくはないが、4日に一度である運航スケジュールの日程資料にお目に掛かれていない事と、当時付属線となった横浜上海間あるいは神戸上海間の航路、上海メールは神戸発で4日目に上海着というから、横浜からだと途中四日市(復航)乃至名古屋(往航)・門司に停泊するのでもっと時間がかかる(しかも1932年に同社貨物課が出した『我社各航路ノ沿革』によると当時は1923年4月以降の寄港変更で六日に一回の定期便に変更されている)ことも理由の一つだ。

しかし9月開催説も辻褄が合わないのだ。その場合大会記事から考えると9月9~10日の開催になるが、参加者の一人室谷藤七が9月5日から始まった神戸GCの倶楽部選手権や7日に茨木CCのキャプテンズカップに出場している事が(T. Murotani表記)当時の競技記録に残っている為だ。
しかも9月26日に茨木CCで始まった倶楽部選手権では室谷が出場し、予選をトップ通過したが、本戦において『因にMr. Murotaniは上海Open Amateurに參加の爲め棄權した(原文ママ)』事が『Golf Dom』10月号の茨木通信に掲載されている。
※クラブ選手権本戦の項が10月17日になっているが、これは決勝戦の日のようだ。というのも予選が9/26(日)で本戦が上位8人のマッチプレーなのだが、試合を毎週日曜日に行なうと10/17が決勝戦になる為だ。

また、10月10日に東京GCで行われた舞子カップでは上位陣の記録に赤星兄弟のほかの三人(鉄馬・喜介・五郎)の名があるが、四郎・六郎、あるいは大谷や川崎の名がない事も留意したい。

これを考えると、やはり余程の間違いがない限り10月9~10日開催が有力であり、大谷などは大会後ちょうど出航する客船に乗りトンボ帰りの形で帰国し倶楽部対抗戦に出たのであろう。加えて他の面々もその船に乗っていれば、強行軍で六郎が体調を崩し、日本Amプレーオフがうやむやな形で終わった説は成り立つであろうが、もう一押しに辿り着けなかった。

今後調査する際に、当時中国で発行されていた英字新聞や日本国内の新聞(1919年ごろからゴルフに関する記事が意外と存在する)・雑誌(『Golf Dom』にもまだ筆者の見落としが在るやもしれない)、あるいは関係者の手記などから重要な記述が出てくるのを期待していると共に、今後刊行されるであろうJGA100年史の編纂の際に日本Am1917年大会の詳細な記録とともに26年大会プレーオフの腑に落ちない点が解明されることを筆者は願っている。
 
                           -了―
                          2020年9月28~10月10日筆

 

主な参考資料
・『Golf Dom』1924年6月号P14~17 上海 安藤生(安藤博三)『上海通信』
・『Golf Dom』1924年11月号P20~24『上海通信』より『Amateur Championship of China』
・『Golf Dom』1926年6月号P25『上海通信』
・『Golf Dom』1926年9月号P7 『Japan Amateur Championship』、P23 『茨木通信』P27『上海通信』
・『Golf Dom』1926年10月号 P15 『China Amateur Championship』、P26~27『茨木通信』・『駒澤通信』
・『Golf Dom』1926年11月号 P26『六甲通信』
・『Golf Dom』1927年1月号『1926年のGolfを顧て』
・『週刊パーゴルフ』1980年5月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史⑮』
・『週刊パーゴルフ』1982年11月2日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史Part2-24日本アマチュア選手権編』
・はるかなるフェアウェイ―日米ゴルフ物語― 上前淳一郎 角川文庫 1985
・55年の歩み 日本ゴルフ協会 1979 より 大谷光明 『日本アマチュア選手権物語』
※この項は『Golf(目黒書店)』1936年1~3月号連載の同名記事から転載
日本ゴルフ協会70年史 日本ゴルフ協会 1994
・赤星六郎アーカイブス 我孫子ゴルフ倶楽部編集 2009
※同書は赤堀六郎と彼が設計した我孫子GCについての戦前ゴルフ雑誌の記事を年度順に抜粋し、関係者提供の写真を掲載したオムニバス本
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 復刻第二版 1995
・人間グリーンⅥ 大屋政子・小笠原勇八 光風社書店 1978
※同書は夕刊フジ掲載のリレー型エッセイ『人間グリーン』から各人の連載を印刷した書籍
・日本より支那へ 後藤朝太郎 日本郵船営業部船客課 1924
・我社各航路ノ沿革 貨物課 編集 日本郵船株式会社貨物課 1932
日本郵船株式会社五十年史 日本郵船 1935

資料はJGA本部資料室、国立国会図書館(デジタルコレクション)で閲覧・複写および、筆者蔵書より

 

 


(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)。