ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

花粉だ...

f:id:ootataki02:20210222083954j:plain

朝起きると、まぶたが腫れぼったい。
窓を開けるとくしゃみの3連発。

昨日は1日1回就寝前に飲む鼻炎薬を飲み忘れてしまった。
目の方は医者からもらったアレルギーを抑える目薬をさす。
薬はしょうがないので今日1日は飲み忘れとしておこう。

目の感じでは、今日の温かい風の中花粉は大量に飛んでいる。
今日も最低5千歩は歩きたいのだが...鼻炎薬を飲み忘れた上に、昨日も5千歩以上歩いて浴びた花粉の上に今日も飛んでいる花粉を浴びるのは危険と考えて、今日は散歩無しで家籠り。

また腹が出るな...


来週はヒッコリーでショートコースを回って運動がわりにしたいのだが...毎年花粉症の最初の発症の時のゴルフでは、無茶苦茶にしんどい思いをしているので迷いが出る。
単純にマスクとゴーグルで、どのくらい防げるか?
鼻炎薬と目薬で抑えきれるか?

鼻水を垂らしながらスイングする情け無さ、他人が打つ時に急に出そうになるくしゃみを我慢する苦しみ...ラウンド後は数日頭がボーっとして熱さえ出そうな気がする花粉の結構重いアレルギー症状...
他人と密になることは無い一人ゴルフだから大丈夫だとは思うが、こんな花粉症の症状で体力を落として、あの武漢肺炎に感染する隙を作るのも嫌だし...

ああ、悩ましいなあ。

ついに花粉の影響が...

f:id:ootataki02:20210219090439j:plain

朝起きると、目がかなり痒い。
窓を開けた途端にくしゃみが2連発...

ついに今年も花粉症が発症したようだ。
昨日、近所の公園を運動のための散歩で6千歩ほど歩いたのだが...思ったよりも風が強く、ひょっとしたら花粉が多いのではないかと心配していた。
もちろん目には花粉症用のゴーグルやメガネが曇りにくいマスクをつけて、自分なりに防御はしていたのだが...完全には防ぎきれなかったみたい。

ゴルフを一年中やっていた頃は、この時期のこういう天気の日のプレーで必ず劇的に花粉症を発症していた。
ラウンド中からくしゃみが頻発し始め、水のようなサラサラの鼻水が出始めて、持っていたポケットティッシュをあっという間に使い果たし、ついにはトイレのロールトレペを拝借して鼻をかみまくり...ラウンドが終わった頃には目は真っ赤に充血し、鼻の周りは擦り切れて真っ赤っかという状態になっていた。
もちろんそれを見越して、毎年発表される「花粉症対策グッズ」というやつを探し回り、「これなら!」というやつを期待して買い込むのだが...結局どれ一つまともな対策になったものはなく、ボロボロになって駆け込んだ目医者か耳鼻咽喉科でもらった薬が一番効くことを毎年確認することになった。

今年は花粉の飛散量もそれほど多くなく「例年並み」という予報だったので、去年もらった薬の未使用分の薬でとりあえず行くつもり。
(使用年限もまだ大丈夫だし、今年医者に行ってもどうせ貰う薬は同じだし)

マスクは武漢肺炎対策のために十分な量があるけど、花粉症用のメガネをすると困るのがメガネがすぐに曇ること。
そのために、市販のマスクの中から百円ショップで「メガネが曇らない」とか「メガネが曇り難い」という宣伝文句の書いてあるやつを選んで使用したが...普通のやつより曇り難いのは確かだが、効果はいまひとつ。

鼻炎用の薬は1日1錠寝る前に飲むとのことなので、今日の夜寝る前に飲む。
目薬は痒いときに一滴で痒みは治るが、少し立って無意識に目の周りを掻いてしまったりすると...あっという間にかゆみが爆発するのでまた一滴。
...例年5月一杯迄続く俺の花粉症は、今年はいつ頃落ち着くのか...オープンコンペを楽しむのはそれ以降だな。


そして、ついに始まったワクチン接種。
我々に順番が回ってくるのは6〜7月頃だと、ニュースが言う。
やるかやらないかだと、うちの奥さんが感染しない確率が高い方...「接種する」事に決めている。
そして、その前の4月にうちの奥さんの治療終了後の体の状態のチェックがあるので、まずはその結果が良ければ一安心。


俺の「ちょっと遊びに」気分のゴルフ遊びは、近くて安いショートコースで近々始めるつもり。
最長150ヤードくらいのコースで、ヒッコリークラブ5本(ミッドアイアン・マッシー・マッシーニブリック・ニブリック・パター)に糸巻きボールでスコアはつけずに「歩いて」回る...俺にはこんなゴルフが楽しくてしょうがない。

 

今日はバレンタインデーだったんだ...

f:id:ootataki02:20210214230534j:plain

さっき、うちの奥さんと娘からチョコレートを貰って初めて、今日がバレンタインデーだったのに気がついた。
そういえば、ここ10年以上他にチョコレートなんかもらった記憶はないなあ。


昨晩、低い地鳴りの響きとともに久しぶりの地震警報がスマホから鳴り出した。
「来るな!」という身構える姿勢から、実際に大きく揺れ出すまでの地鳴りの時間が長かった。
「これは大きくなるな」と感じて、慌ててストーブの非常停止スイッチを押し、懐中電灯を用意し、テレビのスイッチを入れる。
幸い停電はなかったので、居間の電気とテレビをつけて情報の収集。
その間結構長い時間横揺れが続き、大きな音を立てて家は揺れ続ける。
テレビのニュースでは震源は福島沖で震度7・3、この関東でも震度4以上で各地で停電被害の情報...自分の住む地方での停電が無かったことに感謝。
あの大震災からちょうど10年...いつだってああいう大災害への準備は必要だってことを改めて感じる。
この地震はそんな警鐘だったのかも。

そして、何か大きな流れが医療従事者へのワクチン接種が始まると同時に、一気に始まったように見える。
...東京オリンピックは、元首相の失言から中止に向かう流れが始まったんじゃないか?
この元首相の最後の情熱をかけたオリンピックは、この首相の退場とともに武漢肺炎の影響で歴史から消えて行くような気がする。
この元首相の老政治家のことを、ほぼ全部の日本のメディアは良くは言わない。
しかし、俺は彼があの親日家の台湾の李登輝元総統が人生最後の来日を希望した時に、中国に遠慮して反対する多数の有力政治家たちを抑えて、ほぼ独断で日本に招待した件で、彼を「立派な政治家」だったと認める。
彼は、目先の利害ではなく、人間の真情で動く信用出来る男だ、と。
少なくとも、嬉しそうな顔で白いスーツを着て記念写真に収まる女政治家達よりはずっと信じられる、と。

メディアが取り上げる「差別」というのは決してあってはならない事だが、その「差別問題」に頭の悪い俺には理解できない疑問が沢山ある。
例えば、性転換した元男が、ほぼそのままの肉体で女性の間に入ってスポーツをして、いい結果を残したり女性の代表になったりする事は、おかしくないか?
あーだのこーだの議論はあるらしいが...単純に見れば、極めて異常で滑稽じゃないか?
あれで差別問題は解消なの?
「じゃあ、どーするんだ?」なんて聞かれても、俺が答えなんか知るわけないけど。

ゴルフツアーにも、俺が思っていたことを「メリーのゴルフ奮戦記」のメリーさんが書いてくれた。
アメリカツアーでレンジファインダーの使用が認められた、って記事で。
これに対する俺の反応は、「またプレーが遅くなる」って事と、「毎ショット毎ショットの打つ前のキャディーとの繰り返す確認会話や、それぞれメモを何度も出し入れして確認し過ぎる遅いプレーにイライラする」、って事。
これに対してメリーさんも、「最近のプロは記憶力が無いんじゃないか?」なんて皮肉を書いていたけれど、まさに同意。
あの毎回何度も繰り返される光景は、俺は大っ嫌いだ。
いっそ、試合ではメモも距離計も禁止にして、「自分の打つ番になったら10秒以内に打つ事」「それ以上かかったら一打罰」「2回やったら失格」くらいにしたら、プロたちの感性に任せた小気味いいプレーが見られるんじゃないだろうか、と俺は思う。
まあ、そんな事したらキャディー達の仕事を奪ってしまうから、実現は不可能だろうけど。

最近はそんなものより、自分のドタバタヒッコリーゴルフの方がずっと面白いし。


さてさて、そんな事やあんな事があったとしても、現実の今日明日の問題は、花粉症と武漢肺炎にかからずに、飲みすぎて太らずに日々を過ごすこと。


ああ、気をつけよう、大変だ大変だ。

たったの25メートルで...

f:id:ootataki02:20210213160456j:plain

遂に花粉が飛んでいる事を、目に鼻に感じる季節になっちまった。
他にも武漢肺炎のウィルスが結構近くを飛んでいるのは間違い無くて、明るく晴れた春の空も目に見えない暗い霧に包まれているようで、気分はスッキリとは落ち着かない。

右膝を痛め、ついでに左の足首を捻挫して、「踏んだり蹴ったりすっ転んだり」気分の俺としても、ただ毎晩の晩酌と運動不足でコロナ太りになるのは気に入らない。

どこかの同世代の覆面パトカー好きのオッっちゃんは、連休となるとゴルフに山にまたゴルフに、連チャンに次ぐ連チャンを平気でこなしても元気一杯なんだとか。
それに比べて、昔体力自慢で鳴らした俺は、自粛でメタボですっ転んで「頭が悪けりゃ顔が良いとか、顔が悪けりゃ性格良いとか、性格悪けりゃ体力あるとか、人間誰でも一つくらいは取り柄が欲しいわね〜〜(阿部敏郎「あせるぜ!」参考)」状態。

 

しかし!...やっと左足首のサポーターをつけなくても済むようになったので、思い立って運動しようと近所の散歩に出た。
車でその公園に行って、身体慣らしで標高差25メートルの丘を登り降りしてみようか、と。
そこは家から近い公園の田んぼの間に作られた人工の丘で、冬の草の枯れた状態では丁度良いクロスカントリーのコースのように見える。
実際若いアスリート風の人は走って登り下りしたりしているし。
俺も夏の間は一本歯下駄で歩いて登ったり下りたりして足の筋肉を鍛えていた。
流石に寒い冬は裸足の一本歯下駄はお休みしているので、履いているのは普通のワークブーツ
これなら歩いて一気の登り下りを2往復くらいすれば、それなりに運動になるだろう。

と、思って早足で麓をスタートした...丘を登るにはいろは坂のように曲がりくねった道と、ダンプで土を運ぶために作られたほぼ真っ直ぐの直登ルートがあるが、この日は運動のつもりなので直登ルート。
早足で登り始め...最初は快調で「これなら走ってもいいかも」とまで思っていた。
...ところが、登るに連れ急速に息が苦しくなってくる。
3分の2くらい登った所で、もう「ゼイゼイハーハー」と息が荒くなり、心臓が悲鳴を上げている。
「え?嘘だろ?」「まだ半分だぞ?」「え〜〜?  これで登り切れるのか?」
なんて言葉が頭の中をグールグル...

もうあと数メートルで頂上という頃には、フラフラで地面の上に座り込みたくなった。

やっと死にそうに息を切らしながらたどり着いた頂上では、見晴台の階段に座り込んで、もう立てない。
息は「ゼイゼイ・ハーハー」、心臓は爆発しそうにバクバクとフルスピードで動いている。
「これで不整脈が出たら、心臓止まるかも」
「ああ、水を持ってこなかったなあ」
「これじゃあ2往復なんてとても無理」
「それよりここから下りられるか?」
なんて...
かいた汗が冷たく背中に張り付く頃、やっと体を動かす力が出てきて...登った道の反対側をトボトボと下り始めた。
「いや、こんな丘、普通走って登れるだろ?」
「俺の体が重たすぎるのか?」
「運動不足でこんなに弱ってしまたのか?」
なんて、弱気弱気の言葉で頭がクラクラしてくる。

すっかり体力の自信喪失した俺は、やっと辿り着いた車の中でコンビニコーヒーの残りを飲んで途方に暮れる。
分かってるんだ...「ちゃんと運動しなくちゃなあ」って。

ただ、...最近は「普通の散歩」には正直飽き飽きしている。
でも、膝の痛みも左足首もまだ完調ではないので、気分転換を兼ねて100ヤード前後のホールのあるショートコースでのゴルフもいいか、なんて今考えている。
今はまだウッド類のフルショットを打つと古傷の膝を痛めそうだが、150ヤード未満ならヒッコリーアイアンのコントロールショットで遊べる。
割と近い距離にあって、昼前ごろに車で一人で行って到着順で、密にならずに遊んで、100〜150ヤード未満の9ホールを2回遊んで3000円くらいなら、月2回くらいのヒッコリーゴルフに丁度良い。


奥さんはまだ当分やれないので、一緒に遊ぶ人がいればいいんだけど。

掘っくり返し屋のノート㉓『汝の名は』 後編

f:id:ootataki02:20210208200515j:plain

 

                 3

柏競馬場併設の柏GLでゴルフが面白くなった近藤・行天の仲良しコンビは一度別のコースに遠征をしてみようとどちらが言い出したか、柏GL開場の前年に開かれた伊豆の川奈GL(当時は大島コースのみ)に遠征をしてみようと計画を立てた。

二人が同地へ出掛けるきっかけになったのは、次の二つが要因であろう。
 川奈GLは後年ホテルが併設されてからリゾート地・お金持ちの為のコース。としてのブランドとイメージが付いたが、開場当時は(国際的リゾートを目指してはいたが)キャディ代、宿泊設備のあるバンガローなどの施設利用費以外は無料という経営方針であった為、運営者の大倉男爵は豪気なことをする。とゴルフ界の注目を集め、1929年に4月5~16日間に東京朝日新聞が連載したゴルフ場巡りの記事でも大倉の豪腹と紹介されていた。
(一方大倉組内では広大な土地をそんな遊びに使って、二代目は気が狂った。と先代からの番頭に陰口を叩かれたそうだ…)

そして1928年に『Golf Dom』で慶応大学ゴルフ部の顧問小寺酉二(当時のトップAm、後JGA常務理事)が、東京から始発列車ないし二番列車を使用した川奈への日帰りプレーのスケジュールの組み方を寄稿しており、関東のゴルフ界で注目がなされていた。
これならば交通費と諸経費だけでプレーができるぞ。と近藤・行天の二人が浮足立つのも無理はない。

※二人の回想を纏めると、上記及び前話のようになるのだが、柏GLは1929年9月8日の開場であり(それを伝える新聞記事も在る)、また同地は来場者が少ないので間もなく銀のミニカップの出る月例競技を行うようになり、それに対し
『~毎月欠かさず私と共に出たのが、その頃いっしょにゴルフをはじめた私の記念すべき最初のゴルフ仲間の行天良一君であった。(人間グリーン219摂津茂和③『柏コース』より、原文ママ)』
という近藤の回想を考えると。両人のゴルフの開始はクラブ選び(在庫がなければ船便で取り寄せるので数ヶ月掛かる)や練習等を含めても1929年の初夏~夏頃だろう。
それを加味すれば川奈への遠征も早くて1929末~1930年になる(前話で書いた行天の1929年夏の逗子での特訓は本人の回想だが、柏GLの開場待ちの時でなければ、特訓は翌30年の夏の事やもしれない)
なお1931年時で川奈のプレー代は1日3円(現在の価値で9000~12000円位か)、キャディフィ1円であることが『Golf Dom』7月号の避暑コース特集に掲載されているので、この事と上記の件の整合性を考えると、川奈へは1930年夏前に出かけたと思われる。
 

決行当日、近藤・行天は三食分のおにぎりをキャディバッグと共に用意して5時8分東京発の一番列車に乗り、終点の伊東で降りて下田行きのバスに乗り川奈へ。
と、両人は振り返っているが、当時は伊東線が開通していないので(1935年運行、38年熱海~伊東間全通)、東海道本線熱海駅で降りてバスに乗ったとみられる。
事実『Golf Dom』における小寺の寄稿では、熱海まで汽車で行き、熱海から伊藤まで乗合自動車(バスの事)で1時間1円20銭、伊東からコースまで自動車(タクシー)で30分台片道4円。とある事から、摂津も行天もバスの乗り継ぎをしたことを後年の伊藤線の開通や記憶の混同で忘れてしまったと思われる。
(また、小寺は東京発の一番列車を5時30分としているので、これもブレが生じているやもしれず、鉄道史研究の方のご意見を伺いたい)

話を戻すが、当時はバス停がコースの手前1㎞にあったので、そこから歩いてコースに到着。バンガロー内のロッカールームで着替えをし、食堂で休憩をしている関西から来たと思しき婦人連れの裕福なゴルファー達を眺めつつ、早速ラウンドに取り掛かった。
蓋を開けてみると、いつもプレーしている平坦で開けた柏GLとは違う、崖や林のあるアップダウンの大きなコースに戸惑い、OBやロストボールを出すなど悪戦苦闘をしながら1ラウンドを終えた時には正午を過ぎていた。
そこで二人は海の見えるホールの断崖の上に腰を下ろし(行天は谷越えのショートホール“SOS”のグリーン脇と回想)、海の彼方の大島を眺めながら持参したおにぎりを食べ、2ラウンド目に取り掛かった(彼らの回想では2ラウンドした話と3ラウンドした話が残っている)

プレー後は再びバス停まで歩いて伊東駅熱海駅のはずである)から列車に乗り夜に東京に帰った。
後年近藤は『夕刊フジ』のリレー型エッセイで上記の思い出と、食べたおにぎりのおいしさを忘れられないと振り返り。
行天も近藤が執筆する以前に『ゴルフマガジン』で、以後に『月刊アサヒゴルフ』でその話題を振り返り、体は綿のように疲れたが近藤と同様にお弁当の味を忘れられない。と懐かしみながらも、後者の方では『貧乏書生の無銭旅行にも似た哀れな物語。悲しくも、懐かしい思い出。』と感傷的に振り返っている。

                    4
その後の二人だが、先話で述べたコース巡りをしている中、1930年代初頭から始まった各地でサラリーマン向け廉価倶楽部の登場に合わせて、活動は倶楽部へ入会し、倶楽部会員としてゴルフをプレーする事へシフトしていった。

行天は1931年開場の相模CCに入会し、(今は名門と呼ばれる相模CCだが当時は入会金100円を二回の分割払いが可能な廉価倶楽部であった)同倶楽部を代表するプレーヤーとして雑誌にも登場し、『箱根以東の行天さん』の名前で日本Amを始めとする選手権でクラブ対抗戦で活躍すると共に、戦後はシニア選手権出場のほか培った幅広い人脈によるゴルフ交友と、国内先人達が成し遂げられなかった1万ラウンド達成を目指して九十代までプレーを愉しんでいた。

近藤は1932年開場の鷹之台CC(鷹之台GCの前身、入会金200円であったが、こちらも初期は月毎50円の分割払いが可能であった)に創立と共に入会し、彼は開場記念競技で優勝したほか倶楽部対抗戦に代表として競技にも出ている。またその後造られた川口GC(後浮間ヶ原GC、戦後の浮間ゴルフ場とは別)にも入会し、倶楽部キャプテンとなり、コースを18Hに改修した際に設計を担当した話がある。
近藤はプレー以外にもゴルフにまつわる歴史や出来事に興味を持ち、ゴルフ史料を集めるようになり、ゴルフ雑誌へそれを基に書いたコラムの寄稿を始めたことで、そこから娯楽雑誌新青年』編集長の水谷準に見いだされ、以降摂津茂和の名で89年の生涯を作家として、そしてゴルフ史話の執筆とゴルフ書籍収集で国内外に名を残すこととなる。

                          -了―

 

 

 


主な参考資料
夕刊フジ 人間グリーン217~220 摂津茂和②~⑤ 
※発行年月日についてはスクラップブックからの閲覧のため判明できず、柏GLについては人間グリーン219 摂津茂和③ 『柏コース』、川奈遠征については 人間グリーン219 摂津茂和④ 『行天良一君と私』より
・一万ラウンドの球跡行天良一1981 産報出版 ※月刊アサヒゴルフの連載をまとめた本
・フェアウェーを外れたゴルフ-さがみ抄史- 飯沢章治 1978日経印刷(※私家本)
・東京朝日新聞1929年4月5~8,10~14,16日付『ゴルフ場をめぐる⑴~⑾』
※川奈については東京朝日新聞1929年4月14日付 『ゴルフ場をめぐる⑽ 開放しの十五萬坪どなたもご自由に 大倉男爵の豪腹を現はした 伊豆は川奈の大ゴルフ場』
・Golf Dom 1928年7・8月合併号P36 小寺生『伊豆だより』
・Golf Dom 1931年7月P13~22『避暑地とゴルフリンクス
・Golf Dom 1937年1月号付録 『昭和十二年度全国ゴルフ場案内』
・ゴルフマガジン 1959年9月号『ずいひつ』より行天良一『摂津茂和の還暦を祝して』
・公証1969年4月号『随筆』より仁井田秀穂『ゴルフの思い出』
資料はJGA本部資料室及び国立国会図書館で閲覧他筆者蔵書より

 


(この記事の著作権は、全て松村信吾に所属します。)

掘っくり返し屋のノート㉓『汝の名は』

f:id:ootataki02:20210207121624j:plain

 

930年代に入るまで 日本のゴルフ界にはパブリックコースが非常に少なく、ゴルファーと云うものはゴルフ倶楽部に入っている事が大前提であった。加えて当時あった倶楽部のほとんどは(特に関東)入会金や年会費に多額のお金が掛った為、一般大衆に縁のないブルジョアの遊びと観られていた。
しかし海外でゴルフを覚えたけれども倶楽部に入会する財力のない人、日本でゴルフを知り、お金はないがやってみたいと画策する人達が居た。

彼らは各都市にあった練兵場や河川敷、海岸などでボールを打って鬱憤を晴らしていた。
こういった動きから庶民的倶楽部であった武蔵野CC(戸山原練兵場から)や中国地方最初のゴルフ倶楽部広島GC(東練兵場から)は発足しており、湘南茅ヶ崎の海岸にも横浜の在留外国人たちが造った赤土グリーンのコースがあったといい、近畿中国四国にも類似の物があって、後者は熱心なゴルファーであった下村海南博士がエッセイ『ゴルフバッグ』で紹介するなどしている。

これらは明治末期~昭和初頭の黎明~発展期のことである、その後ゴルフ界の発展に合わせて1930年を過ぎる頃から廉価倶楽部の登場と同時にパブリックコースやショートコース併設の屋外練習場が各地に登場するようになり、倶楽部に入れない階層のゴルファーたちがプレーを楽しめるようになってきた。
日中戦争が泥沼化してゴルフ界に影響が出始める1940年頃には肉体労働者らがショートコースでプレーを楽しむ風景が関西からレポートされているので、戦争でゴルフ界が壊滅状態にならなければもっと早く国内にゴルフが浸透していたやも知れない。

※大正年間にはパブリックコースとして、雲仙GLや箱根仙石があったが、両方ともリゾート地のコースで、前者は1920年代後半まで頃長崎GCのホームコースであり、彼らと夏の旅行客以外あまり来場者がなかった。後者は元々倶楽部であり、正式にパブリックになった後も来場者は少なく、発展するのは改修が為された1929年前後からであった事は注目したい。

初期のパブリックコースを渡り歩くプレーヤーは、言葉は悪いが『ルンペン(浮浪者)ゴルファー』と呼ばれ、彼らもそれを綽名として自認していたが、この言葉はマナーもへったくれも無い様な連中の意味で言われることもあった。
これは当時通常の倶楽部だと、新入生は技術は勿論の事、ルール・マナーを一定以上まで勉強し合格が出ないとコースに出れなかった事に加え、通常のプレーでも怖いオジサマ方がマナーやルールを“指導”してくれていた環境にあるのに対し、パブリックコースの場合、そういった人たちが少ない乃至居ない為、どうしてもプレーヤー達が野放図になりがちであった事が関係している。
アメリカのパブリックコース育ちの名アマチュア、佐藤儀一(日本Am4勝)が帰国した際、国内“特に関東”のゴルファー達からハスラー乃至セミプロ視されていた事は、当時主流であった赤星六郎流とは正反対のスコアメイク術と共にこの偏見が影響して居たのではなかろうか。

勿論そういう人たちの為の講習や注意を促す人たちは居り、駒澤パブリックコース支配人の田中善三郎(東京GC会員で日本Am勝者)がお目付け役として、若者や初心者たちに色々指導をしていたのは日本のゴルフ史上有名な話で、1960年代に彼を慕った駒澤出身者達の思い出話が、彼らが所属した倶楽部機関紙等に残っている。
ここまで当時の倶楽部を持たないゴルファーの来歴を簡単に書かせていただいたが、これから始まる本題はとある「ルンペンゴルファー」達のゴルフ旅行である

                    2

1929~30年頃、東京に近藤高男と行天良一という三十代の仲良しゴルフコンビがいた。
近藤は台湾の気象観測所長の息子として同地で生まれ、慶応大学卒であったが、この当時の彼について、マツダゴルフ創業者松田久一と親交があったほか、行天は近藤がこの頃爆発的に流行ったベビーゴルフ(パターゴルフ)の考案者かつ、文芸春秋を通じてPRをした火付け役である。と後年雑誌で書いているが、何の仕事をしていたのかハッキリしていない。

近藤は大学時代からゴルフの存在を知っており(慶応大学は日本で最初の大学ゴルフ部を創っている)、1923年に父親の秘書として気象学の国際会議に同行した際、英国でゴルフを見て興味を持ったが、帰国後プレーの機会に恵まれず、練習場で鬱憤を晴らす中(1924末~25年春頃京都在住の兄(京都CC創立会員)を訪ねた際に連れられた室内練習場で研修中の宮本留吉に出会っている)、1929年に開場間もない柏競馬場内に設計されたパブリックコース、柏GLに松田と共に(彼にクラブを選んでもらい)出かけ本格的にプレーを始めた。

行天は四国讃岐の生まれで、苦学をしながら早稲田大学を出て、いすず自動車の前身をへて乾倉庫に勤務していた。
ゴルフとの出会いは1927年夏に勤務先のボス乾新兵衛(海運業で活躍した実業家、JGA名誉会長乾豊彦は孫婿に当たる)に誘われて六甲に行った際に神戸GCで初めてボールを打っている。
東京で勤務していた所から近藤と出会い、本格的に始めるにあたり彼に道具を用意してもらい、柏GLで一緒にゴルフを始め、29年の夏逗子で家を借りて三ヶ月毎朝練習に明け暮れた。

来歴を見ると、二人ともそれなりの財力があるように見えるのだが(実際そうであったろう)、当時のゴルフ界は用具購入と倶楽部へ入会には可成のお金がかかり、倶楽部に入れる財力までには至らず、加えて当時の東京圏内のゴルフ倶楽部の殆どが権門貴顕の為の倶楽部である事から“ルンペン”ゴルファーとなっていた。

とはいえ、好きに成ったモノはしょうがない。二人は何とか安くプレーができないか、と通っていた柏GLの他、川奈の大島コース、東京日野の山肌に造られた多摩CC(旧武蔵野CC)、最初の庶民的倶楽部である武蔵野CCの移転先の六実コース、富士屋ホテル経営の箱根仙石、関東大震災後邦人のプレーがしやすくなった横浜根岸のNRCGAなど彼方此方を回ってプレーをした。
また、ある時は行天の同郷で一高野球の名選手であった“老鉄山”中野武二(野球殿堂者であり、一年に400回プレー等の伝説を残したゴルキチ)に頼んで、彼が会員の名門東京GCを夜明け前に廻らせてもらう事もあった。

※多摩CCや六実の武蔵野CCは入会金や年会費が当時の関東のゴルフ倶楽部では可也安かったが、二人は入会をしなかった。前者は入会金30円(今の9~12万円位)で京王線の駅の目の前と交通の便もあったとはいえ、郊外で山の中の芝っ気のない傾斜の激しいショートコースであるのも関係しているだろう。
武蔵野CCは通っていた柏GLからそれほど遠くない場所にあったのだが、していないのを筆者は不思議に思っている。当時の入会金が200円(80~120万円位)である為、両人とも纏まった額を揃えられなかったか、それとも入会を思案中であったのか。

そうしてゴルフを楽しんでいた二人であったが、柏GLでゴルフを始め、通い詰めるようになった暫くした頃、彼らは最初の冒険を試みている。
行天が逗子で猛練習を始める少し前、どちらが言い出したのか二人は前年1928年に大倉財閥総帥、大倉喜七郎によって開場したパブリックコースの川奈GLがどのような所であるか行ってみよう。と計画を立てたのだ。

                           ―続―

 

主な参考資料
夕刊フジ 人間グリーン217~220 摂津茂和②~⑤ 
※発行年月日についてはスクラップブックからの閲覧のため判明できず、柏GLについては人間グリーン219 摂津茂和③ 『柏コース』、川奈遠征については 人間グリーン219 摂津茂和④ 『行天良一君と私』より
・一万ラウンドの球跡行天良一1981 産報出版 ※月刊アサヒゴルフの連載をまとめた本
・フェアウェーを外れたゴルフ-さがみ抄史- 飯沢章治 1978日経印刷(※私家本)
・東京朝日新聞1929年4月5~8,10~14,16日付『ゴルフ場をめぐる⑴~⑾』
※川奈については東京朝日新聞1929年4月14日付 『ゴルフ場をめぐる⑽ 開放しの十五萬坪どなたもご自由に 大倉男爵の豪腹を現はした 伊豆は川奈の大ゴルフ場』
・Golf Dom 1928年7・8月合併号P36 小寺生『伊豆だより』
・Golf Dom 1931年7月P13~22『避暑地とゴルフリンクス
・Golf Dom 1937年1月号付録 『昭和十二年度全国ゴルフ場案内』
・ゴルフマガジン 1959年9月号『ずいひつ』より行天良一『摂津茂和の還暦を祝して』
・公証1969年4月号『随筆』より仁井田秀穂『ゴルフの思い出』
資料はJGA本部資料室及び国立国会図書館で閲覧他筆者蔵書より

 


(この記事の著作権は、全て松村信吾に所属します。)

ジジーになったつもりは無いんだが...

f:id:ootataki02:20210204101750j:plain

膝と足首を痛めたもんだから、散歩の時にはサポーターをしている。
足首用は以前の大捻挫の時に買ったもので、膝も今回高いサポーターを薬局で買った。
捻ってまた痛めたくないから、運動する時には忘れないで装着して歩かなくちゃあな。

なんて事を考えながら、つい忘れてそのまま出てしまう。
この「物忘れ」ってのが最近ちょと多い。

だいたい人の名前や物の名前、本の題名や映画の題名なんてのはほとんど直ぐには出て来ない。
これは俺だけじゃないらしくて、同年代の人間との会話では「人の名前」も「映画や本の題名」も、「過去の事件」や「流行りの歌の名」も、「一緒に体験したエピソード」さえ、みんな「アレ」の一字で済ませてしまう。

4人いても5人いてもみんな同じで、「アレ」と「ソレ」とで会話が進み、どうしても確実な名前が必要な時には誰かがスマホで検索して名前を確かめる...途端に全員が「そうそう、それそれ!」「そうだよ、そうだよ」「なんで思い出せなかったんだろうなあ」「喉まで出かかっていたんだけど」で、ワイワイワイ。

みんな「俺はボケて来たのかねえ」なんて、口々に言っては見るけどホントは「自分だけはダイジョーブ」で、自分以外の他人のことは「まあ、歳だからしょうがねえ」。

本当に、本当に自分の歳を信じちゃいない部分があって困るんだけど、俺の子供時代だって今の俺の年なら立派な耄碌ジジー
その為か、自分でも「意識しない記憶の改竄」なんてものがあるようで、自分の覚えている記憶が本当にあった事なのかに段々自信が持てなくなってくる。
例えば、ついこの前...去年の12月のクリスマスイブに自分が書いた記事に、「きっと君は来ない〜」なんて歌を聴くと当時遠距離恋愛をしていた二人の友人を思い出す...なんて書いたんだけど、改めて考えてみるとあのCMが流れたのは平成になった頃、つまりあいつらが長距離恋愛をしていた時代から20年近く後だったって事。
「ああ、そうだった!」俺はあのCMソングを聞いて、あの二人を連想しただけだったんだ。
そうした記憶の改竄というか、記憶の勘違いというのは、気がつかないうちに他にも色々と起きているのかもしれない。

数年前、長く描いていた英字新聞の論説ページの一コマイラストが、その原稿を書いていた論説委員の人の、「最近認知症になってきたような気がして、文責を負えないから終わりにしたい」と言う告白で打ち切りとなった。
数十年続いていた仕事だったが、そう言う事情での終わりもあるのかと感慨深かった。

さてそれじゃあ、現在俺の覚えている記憶は真実なのか...それとも長い時間の中で、真実とは離れてしまったものなのか。
それぞれの人生というものは、本人の記憶の中にだけあるもので真実はそんなに大事じゃない?...最近そんな気もしている。

あちこち捻挫したり、転んだり...まさに最近の俺のやってんのはジジーの情けない立ち回り。
ああ、鏡の中にいる見た事のある汚ねえジジーが俺の事だと、そろそろ認めるしかないんだろうな。

記憶の中では、遥か昔に別れた憧れの女性は今でも別れた時の年齢のまま華やかに咲いているし、体が思うように動いた時代の感覚は今も俺の中に残っている。

自分じゃジジーになったつもりは無いんだが...いまぶち当たる現実が、「お前はもうジジーなんだ」「もう諦めろ」と俺に言う。

あ〜あ....グレてやる。