ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

ジジーになったつもりは無いんだが...

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膝と足首を痛めたもんだから、散歩の時にはサポーターをしている。
足首用は以前の大捻挫の時に買ったもので、膝も今回高いサポーターを薬局で買った。
捻ってまた痛めたくないから、運動する時には忘れないで装着して歩かなくちゃあな。

なんて事を考えながら、つい忘れてそのまま出てしまう。
この「物忘れ」ってのが最近ちょと多い。

だいたい人の名前や物の名前、本の題名や映画の題名なんてのはほとんど直ぐには出て来ない。
これは俺だけじゃないらしくて、同年代の人間との会話では「人の名前」も「映画や本の題名」も、「過去の事件」や「流行りの歌の名」も、「一緒に体験したエピソード」さえ、みんな「アレ」の一字で済ませてしまう。

4人いても5人いてもみんな同じで、「アレ」と「ソレ」とで会話が進み、どうしても確実な名前が必要な時には誰かがスマホで検索して名前を確かめる...途端に全員が「そうそう、それそれ!」「そうだよ、そうだよ」「なんで思い出せなかったんだろうなあ」「喉まで出かかっていたんだけど」で、ワイワイワイ。

みんな「俺はボケて来たのかねえ」なんて、口々に言っては見るけどホントは「自分だけはダイジョーブ」で、自分以外の他人のことは「まあ、歳だからしょうがねえ」。

本当に、本当に自分の歳を信じちゃいない部分があって困るんだけど、俺の子供時代だって今の俺の年なら立派な耄碌ジジー
その為か、自分でも「意識しない記憶の改竄」なんてものがあるようで、自分の覚えている記憶が本当にあった事なのかに段々自信が持てなくなってくる。
例えば、ついこの前...去年の12月のクリスマスイブに自分が書いた記事に、「きっと君は来ない〜」なんて歌を聴くと当時遠距離恋愛をしていた二人の友人を思い出す...なんて書いたんだけど、改めて考えてみるとあのCMが流れたのは平成になった頃、つまりあいつらが長距離恋愛をしていた時代から20年近く後だったって事。
「ああ、そうだった!」俺はあのCMソングを聞いて、あの二人を連想しただけだったんだ。
そうした記憶の改竄というか、記憶の勘違いというのは、気がつかないうちに他にも色々と起きているのかもしれない。

数年前、長く描いていた英字新聞の論説ページの一コマイラストが、その原稿を書いていた論説委員の人の、「最近認知症になってきたような気がして、文責を負えないから終わりにしたい」と言う告白で打ち切りとなった。
数十年続いていた仕事だったが、そう言う事情での終わりもあるのかと感慨深かった。

さてそれじゃあ、現在俺の覚えている記憶は真実なのか...それとも長い時間の中で、真実とは離れてしまったものなのか。
それぞれの人生というものは、本人の記憶の中にだけあるもので真実はそんなに大事じゃない?...最近そんな気もしている。

あちこち捻挫したり、転んだり...まさに最近の俺のやってんのはジジーの情けない立ち回り。
ああ、鏡の中にいる見た事のある汚ねえジジーが俺の事だと、そろそろ認めるしかないんだろうな。

記憶の中では、遥か昔に別れた憧れの女性は今でも別れた時の年齢のまま華やかに咲いているし、体が思うように動いた時代の感覚は今も俺の中に残っている。

自分じゃジジーになったつもりは無いんだが...いまぶち当たる現実が、「お前はもうジジーなんだ」「もう諦めろ」と俺に言う。

あ〜あ....グレてやる。