ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉓『汝の名は』

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930年代に入るまで 日本のゴルフ界にはパブリックコースが非常に少なく、ゴルファーと云うものはゴルフ倶楽部に入っている事が大前提であった。加えて当時あった倶楽部のほとんどは(特に関東)入会金や年会費に多額のお金が掛った為、一般大衆に縁のないブルジョアの遊びと観られていた。
しかし海外でゴルフを覚えたけれども倶楽部に入会する財力のない人、日本でゴルフを知り、お金はないがやってみたいと画策する人達が居た。

彼らは各都市にあった練兵場や河川敷、海岸などでボールを打って鬱憤を晴らしていた。
こういった動きから庶民的倶楽部であった武蔵野CC(戸山原練兵場から)や中国地方最初のゴルフ倶楽部広島GC(東練兵場から)は発足しており、湘南茅ヶ崎の海岸にも横浜の在留外国人たちが造った赤土グリーンのコースがあったといい、近畿中国四国にも類似の物があって、後者は熱心なゴルファーであった下村海南博士がエッセイ『ゴルフバッグ』で紹介するなどしている。

これらは明治末期~昭和初頭の黎明~発展期のことである、その後ゴルフ界の発展に合わせて1930年を過ぎる頃から廉価倶楽部の登場と同時にパブリックコースやショートコース併設の屋外練習場が各地に登場するようになり、倶楽部に入れない階層のゴルファーたちがプレーを楽しめるようになってきた。
日中戦争が泥沼化してゴルフ界に影響が出始める1940年頃には肉体労働者らがショートコースでプレーを楽しむ風景が関西からレポートされているので、戦争でゴルフ界が壊滅状態にならなければもっと早く国内にゴルフが浸透していたやも知れない。

※大正年間にはパブリックコースとして、雲仙GLや箱根仙石があったが、両方ともリゾート地のコースで、前者は1920年代後半まで頃長崎GCのホームコースであり、彼らと夏の旅行客以外あまり来場者がなかった。後者は元々倶楽部であり、正式にパブリックになった後も来場者は少なく、発展するのは改修が為された1929年前後からであった事は注目したい。

初期のパブリックコースを渡り歩くプレーヤーは、言葉は悪いが『ルンペン(浮浪者)ゴルファー』と呼ばれ、彼らもそれを綽名として自認していたが、この言葉はマナーもへったくれも無い様な連中の意味で言われることもあった。
これは当時通常の倶楽部だと、新入生は技術は勿論の事、ルール・マナーを一定以上まで勉強し合格が出ないとコースに出れなかった事に加え、通常のプレーでも怖いオジサマ方がマナーやルールを“指導”してくれていた環境にあるのに対し、パブリックコースの場合、そういった人たちが少ない乃至居ない為、どうしてもプレーヤー達が野放図になりがちであった事が関係している。
アメリカのパブリックコース育ちの名アマチュア、佐藤儀一(日本Am4勝)が帰国した際、国内“特に関東”のゴルファー達からハスラー乃至セミプロ視されていた事は、当時主流であった赤星六郎流とは正反対のスコアメイク術と共にこの偏見が影響して居たのではなかろうか。

勿論そういう人たちの為の講習や注意を促す人たちは居り、駒澤パブリックコース支配人の田中善三郎(東京GC会員で日本Am勝者)がお目付け役として、若者や初心者たちに色々指導をしていたのは日本のゴルフ史上有名な話で、1960年代に彼を慕った駒澤出身者達の思い出話が、彼らが所属した倶楽部機関紙等に残っている。
ここまで当時の倶楽部を持たないゴルファーの来歴を簡単に書かせていただいたが、これから始まる本題はとある「ルンペンゴルファー」達のゴルフ旅行である

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1929~30年頃、東京に近藤高男と行天良一という三十代の仲良しゴルフコンビがいた。
近藤は台湾の気象観測所長の息子として同地で生まれ、慶応大学卒であったが、この当時の彼について、マツダゴルフ創業者松田久一と親交があったほか、行天は近藤がこの頃爆発的に流行ったベビーゴルフ(パターゴルフ)の考案者かつ、文芸春秋を通じてPRをした火付け役である。と後年雑誌で書いているが、何の仕事をしていたのかハッキリしていない。

近藤は大学時代からゴルフの存在を知っており(慶応大学は日本で最初の大学ゴルフ部を創っている)、1923年に父親の秘書として気象学の国際会議に同行した際、英国でゴルフを見て興味を持ったが、帰国後プレーの機会に恵まれず、練習場で鬱憤を晴らす中(1924末~25年春頃京都在住の兄(京都CC創立会員)を訪ねた際に連れられた室内練習場で研修中の宮本留吉に出会っている)、1929年に開場間もない柏競馬場内に設計されたパブリックコース、柏GLに松田と共に(彼にクラブを選んでもらい)出かけ本格的にプレーを始めた。

行天は四国讃岐の生まれで、苦学をしながら早稲田大学を出て、いすず自動車の前身をへて乾倉庫に勤務していた。
ゴルフとの出会いは1927年夏に勤務先のボス乾新兵衛(海運業で活躍した実業家、JGA名誉会長乾豊彦は孫婿に当たる)に誘われて六甲に行った際に神戸GCで初めてボールを打っている。
東京で勤務していた所から近藤と出会い、本格的に始めるにあたり彼に道具を用意してもらい、柏GLで一緒にゴルフを始め、29年の夏逗子で家を借りて三ヶ月毎朝練習に明け暮れた。

来歴を見ると、二人ともそれなりの財力があるように見えるのだが(実際そうであったろう)、当時のゴルフ界は用具購入と倶楽部へ入会には可成のお金がかかり、倶楽部に入れる財力までには至らず、加えて当時の東京圏内のゴルフ倶楽部の殆どが権門貴顕の為の倶楽部である事から“ルンペン”ゴルファーとなっていた。

とはいえ、好きに成ったモノはしょうがない。二人は何とか安くプレーができないか、と通っていた柏GLの他、川奈の大島コース、東京日野の山肌に造られた多摩CC(旧武蔵野CC)、最初の庶民的倶楽部である武蔵野CCの移転先の六実コース、富士屋ホテル経営の箱根仙石、関東大震災後邦人のプレーがしやすくなった横浜根岸のNRCGAなど彼方此方を回ってプレーをした。
また、ある時は行天の同郷で一高野球の名選手であった“老鉄山”中野武二(野球殿堂者であり、一年に400回プレー等の伝説を残したゴルキチ)に頼んで、彼が会員の名門東京GCを夜明け前に廻らせてもらう事もあった。

※多摩CCや六実の武蔵野CCは入会金や年会費が当時の関東のゴルフ倶楽部では可也安かったが、二人は入会をしなかった。前者は入会金30円(今の9~12万円位)で京王線の駅の目の前と交通の便もあったとはいえ、郊外で山の中の芝っ気のない傾斜の激しいショートコースであるのも関係しているだろう。
武蔵野CCは通っていた柏GLからそれほど遠くない場所にあったのだが、していないのを筆者は不思議に思っている。当時の入会金が200円(80~120万円位)である為、両人とも纏まった額を揃えられなかったか、それとも入会を思案中であったのか。

そうしてゴルフを楽しんでいた二人であったが、柏GLでゴルフを始め、通い詰めるようになった暫くした頃、彼らは最初の冒険を試みている。
行天が逗子で猛練習を始める少し前、どちらが言い出したのか二人は前年1928年に大倉財閥総帥、大倉喜七郎によって開場したパブリックコースの川奈GLがどのような所であるか行ってみよう。と計画を立てたのだ。

                           ―続―

 

主な参考資料
夕刊フジ 人間グリーン217~220 摂津茂和②~⑤ 
※発行年月日についてはスクラップブックからの閲覧のため判明できず、柏GLについては人間グリーン219 摂津茂和③ 『柏コース』、川奈遠征については 人間グリーン219 摂津茂和④ 『行天良一君と私』より
・一万ラウンドの球跡行天良一1981 産報出版 ※月刊アサヒゴルフの連載をまとめた本
・フェアウェーを外れたゴルフ-さがみ抄史- 飯沢章治 1978日経印刷(※私家本)
・東京朝日新聞1929年4月5~8,10~14,16日付『ゴルフ場をめぐる⑴~⑾』
※川奈については東京朝日新聞1929年4月14日付 『ゴルフ場をめぐる⑽ 開放しの十五萬坪どなたもご自由に 大倉男爵の豪腹を現はした 伊豆は川奈の大ゴルフ場』
・Golf Dom 1928年7・8月合併号P36 小寺生『伊豆だより』
・Golf Dom 1931年7月P13~22『避暑地とゴルフリンクス
・Golf Dom 1937年1月号付録 『昭和十二年度全国ゴルフ場案内』
・ゴルフマガジン 1959年9月号『ずいひつ』より行天良一『摂津茂和の還暦を祝して』
・公証1969年4月号『随筆』より仁井田秀穂『ゴルフの思い出』
資料はJGA本部資料室及び国立国会図書館で閲覧他筆者蔵書より

 


(この記事の著作権は、全て松村信吾に所属します。)