ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉓『汝の名は』 後編

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柏競馬場併設の柏GLでゴルフが面白くなった近藤・行天の仲良しコンビは一度別のコースに遠征をしてみようとどちらが言い出したか、柏GL開場の前年に開かれた伊豆の川奈GL(当時は大島コースのみ)に遠征をしてみようと計画を立てた。

二人が同地へ出掛けるきっかけになったのは、次の二つが要因であろう。
 川奈GLは後年ホテルが併設されてからリゾート地・お金持ちの為のコース。としてのブランドとイメージが付いたが、開場当時は(国際的リゾートを目指してはいたが)キャディ代、宿泊設備のあるバンガローなどの施設利用費以外は無料という経営方針であった為、運営者の大倉男爵は豪気なことをする。とゴルフ界の注目を集め、1929年に4月5~16日間に東京朝日新聞が連載したゴルフ場巡りの記事でも大倉の豪腹と紹介されていた。
(一方大倉組内では広大な土地をそんな遊びに使って、二代目は気が狂った。と先代からの番頭に陰口を叩かれたそうだ…)

そして1928年に『Golf Dom』で慶応大学ゴルフ部の顧問小寺酉二(当時のトップAm、後JGA常務理事)が、東京から始発列車ないし二番列車を使用した川奈への日帰りプレーのスケジュールの組み方を寄稿しており、関東のゴルフ界で注目がなされていた。
これならば交通費と諸経費だけでプレーができるぞ。と近藤・行天の二人が浮足立つのも無理はない。

※二人の回想を纏めると、上記及び前話のようになるのだが、柏GLは1929年9月8日の開場であり(それを伝える新聞記事も在る)、また同地は来場者が少ないので間もなく銀のミニカップの出る月例競技を行うようになり、それに対し
『~毎月欠かさず私と共に出たのが、その頃いっしょにゴルフをはじめた私の記念すべき最初のゴルフ仲間の行天良一君であった。(人間グリーン219摂津茂和③『柏コース』より、原文ママ)』
という近藤の回想を考えると。両人のゴルフの開始はクラブ選び(在庫がなければ船便で取り寄せるので数ヶ月掛かる)や練習等を含めても1929年の初夏~夏頃だろう。
それを加味すれば川奈への遠征も早くて1929末~1930年になる(前話で書いた行天の1929年夏の逗子での特訓は本人の回想だが、柏GLの開場待ちの時でなければ、特訓は翌30年の夏の事やもしれない)
なお1931年時で川奈のプレー代は1日3円(現在の価値で9000~12000円位か)、キャディフィ1円であることが『Golf Dom』7月号の避暑コース特集に掲載されているので、この事と上記の件の整合性を考えると、川奈へは1930年夏前に出かけたと思われる。
 

決行当日、近藤・行天は三食分のおにぎりをキャディバッグと共に用意して5時8分東京発の一番列車に乗り、終点の伊東で降りて下田行きのバスに乗り川奈へ。
と、両人は振り返っているが、当時は伊東線が開通していないので(1935年運行、38年熱海~伊東間全通)、東海道本線熱海駅で降りてバスに乗ったとみられる。
事実『Golf Dom』における小寺の寄稿では、熱海まで汽車で行き、熱海から伊藤まで乗合自動車(バスの事)で1時間1円20銭、伊東からコースまで自動車(タクシー)で30分台片道4円。とある事から、摂津も行天もバスの乗り継ぎをしたことを後年の伊藤線の開通や記憶の混同で忘れてしまったと思われる。
(また、小寺は東京発の一番列車を5時30分としているので、これもブレが生じているやもしれず、鉄道史研究の方のご意見を伺いたい)

話を戻すが、当時はバス停がコースの手前1㎞にあったので、そこから歩いてコースに到着。バンガロー内のロッカールームで着替えをし、食堂で休憩をしている関西から来たと思しき婦人連れの裕福なゴルファー達を眺めつつ、早速ラウンドに取り掛かった。
蓋を開けてみると、いつもプレーしている平坦で開けた柏GLとは違う、崖や林のあるアップダウンの大きなコースに戸惑い、OBやロストボールを出すなど悪戦苦闘をしながら1ラウンドを終えた時には正午を過ぎていた。
そこで二人は海の見えるホールの断崖の上に腰を下ろし(行天は谷越えのショートホール“SOS”のグリーン脇と回想)、海の彼方の大島を眺めながら持参したおにぎりを食べ、2ラウンド目に取り掛かった(彼らの回想では2ラウンドした話と3ラウンドした話が残っている)

プレー後は再びバス停まで歩いて伊東駅熱海駅のはずである)から列車に乗り夜に東京に帰った。
後年近藤は『夕刊フジ』のリレー型エッセイで上記の思い出と、食べたおにぎりのおいしさを忘れられないと振り返り。
行天も近藤が執筆する以前に『ゴルフマガジン』で、以後に『月刊アサヒゴルフ』でその話題を振り返り、体は綿のように疲れたが近藤と同様にお弁当の味を忘れられない。と懐かしみながらも、後者の方では『貧乏書生の無銭旅行にも似た哀れな物語。悲しくも、懐かしい思い出。』と感傷的に振り返っている。

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その後の二人だが、先話で述べたコース巡りをしている中、1930年代初頭から始まった各地でサラリーマン向け廉価倶楽部の登場に合わせて、活動は倶楽部へ入会し、倶楽部会員としてゴルフをプレーする事へシフトしていった。

行天は1931年開場の相模CCに入会し、(今は名門と呼ばれる相模CCだが当時は入会金100円を二回の分割払いが可能な廉価倶楽部であった)同倶楽部を代表するプレーヤーとして雑誌にも登場し、『箱根以東の行天さん』の名前で日本Amを始めとする選手権でクラブ対抗戦で活躍すると共に、戦後はシニア選手権出場のほか培った幅広い人脈によるゴルフ交友と、国内先人達が成し遂げられなかった1万ラウンド達成を目指して九十代までプレーを愉しんでいた。

近藤は1932年開場の鷹之台CC(鷹之台GCの前身、入会金200円であったが、こちらも初期は月毎50円の分割払いが可能であった)に創立と共に入会し、彼は開場記念競技で優勝したほか倶楽部対抗戦に代表として競技にも出ている。またその後造られた川口GC(後浮間ヶ原GC、戦後の浮間ゴルフ場とは別)にも入会し、倶楽部キャプテンとなり、コースを18Hに改修した際に設計を担当した話がある。
近藤はプレー以外にもゴルフにまつわる歴史や出来事に興味を持ち、ゴルフ史料を集めるようになり、ゴルフ雑誌へそれを基に書いたコラムの寄稿を始めたことで、そこから娯楽雑誌新青年』編集長の水谷準に見いだされ、以降摂津茂和の名で89年の生涯を作家として、そしてゴルフ史話の執筆とゴルフ書籍収集で国内外に名を残すこととなる。

                          -了―

 

 

 


主な参考資料
夕刊フジ 人間グリーン217~220 摂津茂和②~⑤ 
※発行年月日についてはスクラップブックからの閲覧のため判明できず、柏GLについては人間グリーン219 摂津茂和③ 『柏コース』、川奈遠征については 人間グリーン219 摂津茂和④ 『行天良一君と私』より
・一万ラウンドの球跡行天良一1981 産報出版 ※月刊アサヒゴルフの連載をまとめた本
・フェアウェーを外れたゴルフ-さがみ抄史- 飯沢章治 1978日経印刷(※私家本)
・東京朝日新聞1929年4月5~8,10~14,16日付『ゴルフ場をめぐる⑴~⑾』
※川奈については東京朝日新聞1929年4月14日付 『ゴルフ場をめぐる⑽ 開放しの十五萬坪どなたもご自由に 大倉男爵の豪腹を現はした 伊豆は川奈の大ゴルフ場』
・Golf Dom 1928年7・8月合併号P36 小寺生『伊豆だより』
・Golf Dom 1931年7月P13~22『避暑地とゴルフリンクス
・Golf Dom 1937年1月号付録 『昭和十二年度全国ゴルフ場案内』
・ゴルフマガジン 1959年9月号『ずいひつ』より行天良一『摂津茂和の還暦を祝して』
・公証1969年4月号『随筆』より仁井田秀穂『ゴルフの思い出』
資料はJGA本部資料室及び国立国会図書館で閲覧他筆者蔵書より

 


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