ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

2018年全英オープン2日目...だけど...

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サンディ・ライルが、歴代優勝者資格による出場を卒業した。
予選カットは3オーバー、全体的にロングヒッターよりショットメーカーの方が上位にいるように見える。
タイガーも予選通過、日本選手は10人中4人が予選通過。

...だが、自分にワクワクして見るような高ぶりが全くなく、つまらない。

なのでメジャーの観戦記は、この辺で終わりにしよう。
ミケルソンの件でその辺がはっきりと感じられるようになってしまったが、ゴルフというものは見て楽しむものではなく、自分が楽しむものなのだ。
プロがいくつで回ったか、なんてのはF1レースで誰の車がどんなタイムで走ったかなんてのと同じで、自分のゴルフにも車の運転にも全く関係が無い。

なぜミケルソンの行為とそれに対するプロたちの反応で、俺はツアーの試合を見ることの熱がこんなに冷めてしまったのか...
少し考えてみた。

俺がゴルフを始めたのは30代半ば。
仕事として、本当に嫌々始めたもの...ゴルフという代物に非常に偏見を持っていた。
それがやり始めて見ると、その精神性と、技術の奥深さに驚いてすぐに熱中した。
あるがままに、それぞれのライを受け入れて戦って行く潔さ。
審判のない競技という高潔さ。
人の手の入った自然とはいえ、野山に分け入って行くスケールの大きさ。
納得のいく結果を残すためにはともかく我慢と自己抑制が必要で、傲慢さや恐怖心が道を誤らせ、落ち着いた深い思索と謙虚な状況判断が道を開いて行く。
ゴルフ書に、「ゴルフは人間を成長させる」とか「ゴルフは人を真摯にさせる」とか書いてあるのは、「さもありなん」と納得出来た。
だから上級者やトップアマやプロたちは、「我々が苦労しているところ」を全て克服して高みに登って行ったのだから、きっと自分達より立派な人達だ、と考えるのは当然だろう。

ところが、それが違うのだ...「嫌な奴ほどゴルフが上手い」なんて言葉があるように、上手いとか強いとかいうゴルファーにはとんでもなく自分勝手で傲慢で下手な人間を見下して馬鹿にするようなのが多いことに驚く。
プロゴルファーなんて、普通のダッファーから見て神の様な存在だが...仕事でその当時売り出し中のプロにインタビューする機会が多かった時、「ゴルフが上手くなかったら、こいつはただのチンピラだ」なんてのに何人も出会った。
(逆に、なかなか試合に勝てない様なプロには、普通の「人」として立派な人間が多かったが)
 
中年になって(大人になって)ゴルフを始めた人間は、そのゲームの深さを面白がる故にプロゴルフにもプロゴルファーにも夢を見過ぎてしまう。
彼らは我々が苦労して悩んで楽しんで来た、「ゴルフ」という「同じゲーム」の成功者では無いのだ。
彼らは生活のために子供の頃からゴルフの技術を身につけた、ただの「職業ゴルファー」なのだ。
彼らは我々が悩んで迷って苦しんだ道は通らず、故にそれを克服した喜びも成長していった喜びも我々とは共有していない。
彼らのやっている「ゴルフ」は、我々が楽しんでいるゴルフではなく、賞金を稼いで成功するのが目的の別な世界の「ゴルフみたいなもの」なのだ。

多分、俺はあの事件から改めてそんなことを見せつけられたので、彼らの世界のゴルフに全く興味を失ってしまったんだろう。

だからといって、自分がやっているゴルフの楽しみは全く変わっていないんだから、それでいいんだろう。
結局、ゴルフは「自分でプレーして楽しむ」ものなのだ。