ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

スマホ

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「待つ女性」の姿は大きく変わった。

こういったスケッチをもう何十年も続けているが(途中お休みもあったけど)、「人を待つ」「電車を待つ」なんて「待ち姿」は、その人のその時の心の有り様が隠しようも無く出て来るようで、自分は好きだ。
そんな「人を待つ」姿は、ずいぶん長い間「本を読む姿」が多かった。

男性は新聞だったり夕刊紙だったり、あるいは週刊誌だったり、あるいはひたすらタバコを吸いながら動き回ったりだったが、女性はカバーをした文庫本を呼んでいる人が多かった。
電車を待つ人はじっと時間迄それに集中しているが、人を待つ人は時々顔を上げて、周囲を心配そうに見回す。
時間が経つとそれがだんだん心配気な顔に変わって行くが、そこに待ち人が来た時に「パアッと」表情が変わる瞬間はとても良いものだった。
結局表れなかった人に失望して、肩を落としてその場から離れる人の後ろ姿も魅力的なものだった。

それがある瞬間から、あの「二つ折りケータイ」を見る姿に変わった。
あっという間に本を読む人の数は減り、イライラとしながらケータイを見る「待ち人」ばかりになった。
心配そうな後ろ姿は少なくなり、アンテナを伸ばしてケータイのメールを何度も見たり送ったりしている人ばかり。
それがみんな同じ格好だし同じ動きなので、そうした人をスケッチする気もなくなって行った。
そんな人に待ち人が来た時には、「来るのが当たり前だけど、どうして遅くなったんだ?」という喜びよりも抗議の表情が多くなったように思えた。

そしてあっという間に、世の中は「スマホ」ばかりに変わって行った。
ケータイは、あくまで「電話の進化した道具」と言う感じがあったが、スマホはネットやゲームが当たり前に出来る「新しい機械」だと思う。

スマホを持って待つ人は、その時間をゲームやネットやラインなんかのチャットで時間を潰す...と言うより待ち時間にそれに集中出来るので、待ち人が来たりしても「あら、早かったのね」なんて雰囲気さえ漂う。

スマホは人を呪縛する。
繋がりたい為に使い続けているのに、使えば使う程「つながり」は疑い深くなる。
スマホの繋がりで得られるのは、錯覚と誤解と恐怖の世界。
薄っぺらな喜怒哀楽が、デジタルで増幅されて押し寄せる。
一人になる恐怖に追われてしがみつき、ますます独りぽっちの恐怖が周りを囲む。
小さな悪意が大きな悪意を誘い込み、善意は笑われてフェードアウトする。
匿名とハンドルネームがのさばって、「悪いのは自分じゃない」が合い言葉。
そんなもので人は繋がりやしない。
スマホなんか信じるな。
顔を上げて、そのスマホから距離を置け。

君のリアル世界は、すぐ横にあるものだ。
デジタルの奴隷になんかなるんじゃない。


不便なアナログの不器用な手応えにこそ、確かなものがあるってことだ。
...と言っても、実は大した事は無い。
これも、ただのアナログジジーの戯言だ。