ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

最後のパットまで...

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「最後のパットまでベストを尽くすことが出来ない人を、私は軽蔑する。」...ボビー・ジョーンズ。
ボビー・ジョーンズは、あのマスターズの開催を始めたことで知られるゴルフ史上の人物。
「球聖」と呼ばれ、プレーの技術やマナーに於いて「ゴルファーの鑑」となる人物として知られている。
しかしこのボビー・ジョーンズでさえ、若い頃は上手く行かない時にはクラブを投げたり、試合を投げたりしたことがあったことは余り知られていない。
短気でマナーの悪さを指摘されたりした若き時代の後、「パーおじさんを発見した」という言葉が知られる辺りから「よきゴルファー」の見本と言われる様になっていった。
だからこれは、自分に対する自戒の言葉だとも言えるんじゃないかと思う。

覚えは誰にでもあるはずだ。
一生懸命練習して、かなり自信も持って望んだラウンド....朝から高揚した気分で、明るい希望に満ちたスタート...
ところがあれほどの時間と労力をかけた練習の成果が出ない。
それどころかやることなすこと裏目に出てしまって、それ以前のゴルフにだって出なかった様なミスが出る。
ラッキーなんて言葉の出る幕は全く無く、アンラッキーばかりが自分に襲いかかる。
「あれほど練習したのに」「あんなに気をつけていたのに」「なんでこんなに...」、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。

そうしてラウンドの半ば程で、積み重なるミスの重さに耐えかねて悪魔の自分が顔を出す。
「ふざけんなよ!」「やってられねえよ!」「オレには才能なんてものがないんだ!」「練習なんかしなけりゃよかった」....
集中力は無くなり、不満と愚痴ばかりが口から出て今まで練習したことを無視するようにいい加減にボールを打って、早くラウンドを終えようとする。
コースから逃げるように帰って行って、「もう二度とゴルフなんてやるものか」とさえ思う。
...本当にゴルフをやめるなら、それでもいい。
道具を売っぱらうなり捨てるなりして、ゴルフをやめるのもひとつの正しい選択だ。

しかしどんなに時間をおいたとしても、またゴルフを続ける可能性があるなら、これは絶対にやっちゃダメなこと。
後にゴルファーとしての恥ずかしい記憶が強く残ってしまうから。
自分もそう...帰りにパターを河に投げ捨てたり、クラブをへし折ったり....みっともなく恥ずかしい思いが沢山ある。

そして、例えばやめるまで行かなくてもコンペなんかで体験すること。
それは途中で大叩きしたりして、もう優勝とかライバルに勝つなんて可能性は無くなったと思い込んで、投げやりになったり、マゾヒスティックに無茶したり、「起死回生のショット」ばかりを選んだりして更に崩れてコンペを終える....すると、あら不思議....優勝やら、ライバルに勝つやらには、何とたった1打足りなかったりする!
「ああ、あの時にバカな攻め方をしてなければ」「あそこで切れずに慎重にプレーしてれば」「あの最後のパットをお先にしないでちゃんと入れてれば」....
そんなことは皆経験しているだろう?

こんな時には、こう思うのだ。
「オレが叩いている時には、みんなも叩いている」
「このコースのアンラッキーは強烈だから、きっとみんなにもやってくる。」
「これはオレの修行だ...きっと近くで奇麗な女神さんがオレのやることを笑って見てる。」

まあ、本当は崩れて傷だらけになったとしても、ゴルフをやめない限り...次のラウンドに心弾ませて望みたいなら、ラウンドを投げたり絶対にしないことだ。

「顔で笑って心で泣いて。」
「武士は食わねど高楊枝。」
痩せ我慢出来ないなら、ゴルフなんてやらない。

...そういうことだ。