ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

これが、今の私の人生のライなのだ。

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「これが、今の私の人生のライなのだ」...ボビー・ジョーンズ。

「球聖」と言われたボビー・ジョーンズ。
マスターズの開催でも知られているが、28歳でアマチュアのまま競技ゴルフから引退し、後年弁護士となって活躍し、晩年は脊椎空洞症と言う病気のために車椅子生活を送る事になった。

そのボビー・ジョーンズの言葉。
よく「ゴルフというゲームは人生に似ている」と言われるが、それはゴルフが「ライ」のゲームだからだろう。

大抵の人が初めてゴルフの魅力に取り憑かれるのは、遥か彼方まで飛んで行くボールの飛距離や浮遊間、緑の中を白い線を引いてグリ-ンに突き刺さるボールの軌跡の美しさ、長いパットが偶然にしろカップに吸い込まれて行って聞こえるカップインの音...などを体験したときだ。
確かに、これほどの距離をコントロールして遊ぶゲームは他に無い。
女性でも老人でも、ゴルフでは打つ事が出来る「150ヤード」の距離は、例えば野球ならメジャーリーグのホームランなみの凄い飛距離なのだ。
槍投げだってハンマー投げだって、ゴルフならウェッジの距離。
だから、ゴルフの飛距離に魅了されて、「飛ばしが全て」になるのもしょうがない...ビギナーのうちは。

しかしゴルフに慣れて来て、「スコア」というものの存在が大きくなってくると、道が分かれる。
何がなんでもスコアを少なくする事が目的になってゴルフをする人と、ゴルフというゲームの面白さの本質に気がついてゴルフを楽しむ人と...
スコア、つまり数字だけが全てとなった人は、利用できるものは全て利用して数字を少なくしようとする。
そこで「ライ」は楽しむものではなく、自分に不利ならば使えるルールは(インチキだろうとなんだろうと)全て使って自分に有利なものにする手段となる。
どうやっても救済手段の無い「バッドライ」だったとしたら、怒り・呪い・コースの悪口を言い・他人のせいやクラブのせいにもする。

対してゴルフというゲームが、他の遊びに比べて「大人のゲーム」とか「一生続けたくなるゲーム」と言われる本質が「ライ」にあると気がついた人は、更に深くゴルフを楽しむ事が出来るようになる。
「ライ」とは、ボールが転がって行って止まったところの状態。
人の手が入った作り物の自然とはいえ、そのボールの止まるところに同じ状態の場所なんて一つもない。
奇麗な芝の場所だって、微妙に傾斜していたり土の堅さも違えば、芝の長さも硬さも違う。
まして変な場所に転がって行けば、どんなショットだって未経験の「一期一会ショット」となる。
そして、ゴルフで一番深いとも理不尽ともいえるのが、ナイスショットで狙い通りの場所に打てたとしても、そこが他人の削ったディボット後だったり、そこだけ芝が無かったり...運・不運、ラッキー・アンラッキーが普通に起こる事。

これが、「ゴルフが人生に似ている」と言われる一番大きな所ではないだろうか。
そして、それぞれ自分の人生とゴルフとを振り返ってみて見れば、ラッキーよりアンラッキーが圧倒的に多いのも。

ローカルルールでよくある「6インチプレース可」。
人生のライで、6インチプレースなんて出来るのか?

ボビー・ジョーンズは、我々から見たら素晴らしく恵まれた人生を送った人物だから、「これが私の人生のライ」なんて言われても、「そりゃあ、いいライが多かったんだろうなあ」なんてひがみも出たりするけれど...

でも、ゴルフが何時までたっても面白いのは「いつも違ったライ」で、それを甘んじて受けて楽しんでいるから、じゃないか?
まあね、バッドライに次ぐバッドライで、破れかぶれのマゾ気分で...それでもへこたれずに負け戦覚悟で突撃する自分が、そう嫌いじゃないし(笑)。

これが「俺の人生のライ」ならば、死ぬまでノータッチでプレーし続けてやる、なんてのが自分のプライドでやせ我慢。

そんな気分の判るご同輩。
さあ、一緒に次のホールに行きましょうか。