ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

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Mさんは75歳になる。

小さな工場で、少ない給料で、中学卒業から懸命に働いて来て,あっという間にこんな年になってしまった。
結婚しそびれて、一人暮らし。
故郷にももう知り合いはいないし、近所に酒を酌み交わす程親しい友人もいない。
金を貯める事が出来た訳でもないし、出世した訳でもない。
ただ、小さな家を買う事は出来た。

そんなMさんだが、一つだけ贅沢をして来た...それがゴルフ。
自分にはまるで縁がないと思っていた遊びだが、30年以上前に工場の社長に連れて行ってもらって夢中になってしまった。
運動神経に自信があった訳でもないので,何時までたっても上手くなれなかったが...面白かった。
汗と油にまみれた日常とは全く違う世界で、別な自分になった気がして白球と遊ぶ事は、Mさんの今までの人生に無かった「輝き」を感じた。。
辛い仕事も安い給料も、一人暮らしの寂しさも,月に一回ゴルフに行く事を思うことで我慢出来た。

道具は社長のお下がりで、ボールはロストボールを買い、ウェアは季節外れの品を安く買った。
それでも当時のプレーフィーは高すぎて、特にMさんが唯一休める土・日に行くためには、一ヶ月他の全てを我慢して暮らさなければならなかった。
それでもMさんには、ゴルフに行く事が楽しみでしょうがなかった。

しかし,やがてバブルが終わり不景気がやって来た時,工場も経営が苦しくなって,社長がゴルフに行く回数は激減した。
いつも社長に連れられて行っていたMさんは、年に1~2回行くのがやっとになってしまった。
これは辛かった。

そしてさんざん悩んだあげく、Mさんは暴落して来た会員権を貯金の殆どをはたいて購入した。
わりと新しい、会員権が暴落したコース...資産としては危険だが、プレーするには余裕があると言われたコースだった。

...しかし,世間の噂通り、間もなくコースは倒産、経営者の交代、そして再び倒産...現在は大手のゴルフ場経営会社の傘下のコースになった。

そんな激動の時代に、会員権が紙切れになった事に関係なく、Mさんはこのコースでプレーを続ける。
75歳の今でも、3月、4月、5月、6月,そして10月、11月、12月に月一回ずつ。
...自分では「ゴルフが出来なくなるまで」、できれば「死ぬまで」このコースに来続けたいと思っている。
スコアは関係ない。

Mさんは、あるショートホールのティーグランドのずっと後ろにある「さるすべり」の木に会いたいのだ。
もう20年以上経ったので、かなり大きくなっている。
今年の初夏にも、また奇麗な花を咲かせるはずだ。
...その木の下に、小さな石が置かれている。
その石には、「198X年 5月X日 XX番 135Y」
そしてその下に「M ホールインワン記念植樹」と刻まれている。
Mさんがこのコースに入ってそれほど経ってない頃に、達成したホールインワンの記念に植えた木なのだ。

そのホールインワンのショットの感触は,今でもはっきり覚えている。
決していい当たりではなく,トップ気味に当たって手が少し痺れていた。
方向は良かったけれど、まさか入っているとは思わなかった。
グリーン上にはMさんのボールは無くて、奥や手前を散々探したあとの「あった!」だった。

Mさんは、この木に会うのが楽しみでしょうがない。
結婚も出来ずに、ゴルフも上達出来ずに、まして仕事も特別な事は無く、名も知れず生まれて、名も知られずに生きて、名も残らずに消えて行く...自分はそんな存在だと思っていたMさんに、生きていた証が出来たのだ...そう思っている。

Mさんは今日もまたこのホールに来て、前の組が終わるのを待つ間に、このサルスベリの木の下に来て話しかける。

「お前は私の生きてきた証なんだから、今年も奇麗な花を咲かせてくれよ。」