ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉕『日本に来た最初の外国プロとそれに纏わるクラブ』

f:id:ootataki02:20210419132137j:plain

現在ではトーナメントに海外のプロが招待されたり、日本のツアーに出場するというのは、珍しい事ではない。
しかし、1960~70年代ではチョットしたトピックになり、行き来が航路であった戦前になるともう大変で、本場の技術を得ようとレッスンで引っ張りだこになったり、有名プレーヤーならばエキシビションだ、歓迎会だと大騒ぎに成っていた。

そんな来訪プロの中で最初に来た人物は誰であったのか。その人物は中国から来た。といっても彼は英国人であった。
名前はグリーン某、ファーストネームは現在に至るまで伝わっていない。彼は上海GCのプロで、妻子とともに同地で暮らす若者であった。年齢を逆算すると1888~89年頃の生まれらしい
上海のゴルフというのは以前『掘っくり返し屋のノート㉒ミステリー4』の中で書いたが、租界があった為19世紀末頃には英国人らによってゴルフが行われており、1910年代には中々活動が盛んであった。
恐らく彼は所謂移民プロの一人であったのだろう。

『日本のゴルフ史』には、神戸GCが1911年2月9日の委員会で上海と共同で本国(英国の様だ)からプロを招こうというH. de Sansmarey卿(神戸GCの会員リストに名がないので、上海GCの役員と思われる)からの手紙が議題に上がったが、同月27日の委員会で中止となった事が記されているので、グリーンが上海に来たのは1911年春~14年年明けの間とみられる。

彼が来日したのは1914年のことで、横浜の根岸競馬場内の倶楽部NRCGAが彼の所属している上海GCとの交渉し来訪となった。
時期については神戸GCの3月19日委員会で、横浜が彼を招待したので、夏の間神戸GCに来てもらうことに成ったとあるから、来日は春ごろであろう。
 横浜での活動はNRCGAの記録が殆ど残っていないので判らないが、神戸GCには7月18日に来訪で、クラブ側は8月10日まで滞在してほしいと要望を出したことから、グリーンは1月弱は居たとみられ、この間倶楽部のチェンバーにも滞在していたようだ。
倶楽部はこの間にレッスン代とチェンバーでの費用や諸経費を220円82銭(現在の132万4920~176万6560円位か)に払った事が記録されている

再び来日したのは日本人のゴルフの発展が始まった1918年のこと、この時は関東ではNRCGAの他、駒澤の田園地帯の雑木林に遭った東京GCでレッスンをしている。
六甲の主H.E・ドーントが編集発行をしていた登山とゴルフの書籍『INAKA』第十巻に掲載された駒澤のコースの紹介『The Golf of Yedo』にノースチャイナ・デイリー・ニュースに掲載され、神戸ヘラルドに転載された同コースと同地開催の日本Amについての評の中で、グリーンの事が出てくる。

 それによると彼は日本人と大して変わらない体格であったそうだが(恐らく160㎝台?)、良くボールを飛ばすため、距離が出ないことが悩みであった日本人ゴルファー達にとって驚きであり、また彼のレッスンで飛ばしのコツを学ぶことができた喜びから、彼の訪問は有益であったろう。と評されており、また後日行われる日本Amの優勝スコアは39平均(当時の駒澤コースは9Hであった)になるだろう。と予測したが、驚くまいか優勝した井上信のスコアは38・42・39・37=156と、彼の予測通りになったのである。

彼はこの来日の際に関西にも渡り、現地の邦人ゴルファー達の要請で舞子CCのコースを設計している。このコースは武庫川河口の浜辺に在った鳴尾GAが用地問題で縮小したことから南郷三郎(加納治五郎の甥、神戸桟橋・日本綿花社長)を始めとする日本人会員有志が新天地を求め、垂水の山にコースを創る事を思い立ち、その設計を丁度来訪したグリーンに依頼したのだ。
グリーンは、南郷と共に用地選定をしていた鳴尾GAの職業ゴルファー福井覚治と用地を廻り、諸々の設計をし、彼の帰国後?舞子の委員たちが改め、福井が造成指揮をしていたそうである
福井が1922年に『阪神ゴルフ』でグリーンとの思い出を回想したところによると(舞子のコースの選定や設計・工事について実際の年より1年ほどブレて居る)、彼と一緒にプレーをする機会があった際に、バックスウィングが早すぎる事とスローバックの重要性(二年後他の来訪プロのレッスンで真に理解したという)右手で打っている事等色々とレクチャーを受け、自身のスウィングが余程進歩したと思われる。と触れており、現在の自分を形成した者達の一人として名前を挙げている。

二度目の滞在の後、彼の情報が日本に来たのは翌年春の事であった、上海GC会員で1916年度日本Am勝者E.I.M・バレット大尉から神戸GCキャプテンF.W・マッキーに贈られた3月24日付の書簡には、グリーンが同月21日にインフルエンザ(恐らく当時猖獗を極めたスペイン風邪)で亡くなったという訃報であり、続けて困窮する夫人とまだ幼い二人の子供のために義援金を神戸のゴルファー達に呼びかけてくれないか。というものであった。
これを受けた神戸GCはコースを設計して貰っていた舞子CC(厳密にいうと当時はまだ造成中で倶楽部は創立していなかった)にも要請をし、11月の委員会の際に470円が集まったので倶楽部側も30円を出し、計500円(今の300~400万円位)を遺族に送っている

グリーンの遺族については消息が分からず、彼の死後から55年経った1973年4月に、日本のゴルフ界の重鎮の一人高畑誠一日商会長・大谷光明に並ぶルールの権威)の許に、J.P・グリーンなる人物から『亡父が1918年頃に日本でコースを造ったそうだが、どこなのだろうか。日本のことならば貴殿に尋ねてみろとの事でお手紙を送りました次第』と手紙が届き、高畑がコースを調べて舞子CC(現在の垂水GC)であることを伝えた話がゴルフ史家小笠原勇八によって高畑の逸話として紹介された位である。
(グリーンが高畑に手紙を送ったのは世界的なゴルフ漫画家ジョージ・ホートンの紹介によるそうだが、小笠原はホートンを雑誌『Golf World』の編集としている)


今回グリーンの事を書いたのには筆者が慌てた出来事があった為だ。
先日3月30~4月4日にかけて、ヤフーオークションで英国の倶楽部プロJ.B Bentley作のヒッコリーシャフトのセットが出ており、ウッド・アイアン揃い珍しいパターもあったので、筆者はヒッコリーに集中してみたいという知己の方に知らせたのだが、あとになってその出品物を見た所、
セットに含まれた4本のウッドの一つ、黒いヘッドでヒールが欠けたそれは、楕円のスタンプがずれて二重押しになっているものの、Shanghai G. C Chainaの文字があり、二重押しでダブってしまった作者の名前がどうも〇.GREENと読めそうなのを見て魂消てしまったのだ。

筆者が確認した上海に居たプロでグリーンの後に居た者は、古い順にカーター某(上海でゴルフを覚えた鳴尾GC会員石角武夫のプロ転向を応援する友人の記事に出てくる)、日本に長期滞在をしたスコットランドダヴィッド・フード(1925年10月から半年強の滞在)現地のゴルフ倶楽部会員出身のジョージ・ノリス(1927・33年来日)、邦人プロの星野文男(1936年日本OP出場)、1941年に星野?が殺された為替りに移籍した日本OP勝者の林萬福と、彼のアシスタントで台湾GCから移籍した先輩の陳金獅(台湾プロゴルフの父)であるが、ダブっている綴りは彼らには当てはまらなかった

知らなければ『中国で造られたクラブだ、珍しいな』で済むが、本当にグリーンの作ならば、日本プロゴルフ殿堂や、舞子CCの後発倶楽部である垂水GCに展示されるべきものなので、慌てることに成った。
人にお知らせした後なので、どうなるか注視をしていたが、お知らせした方もそのご友人も討ち死にし、クラブは第三者の方の手に落ちた。
ヒッコリーゴルファーである筆者はどこかのイベントで落札された方に出会うかもしれないし、そこでの顔見知りの方が落札をされたのを聞くかも知れない。が行方が気になってムズムズしてしまうのだ。

もし、この文章を落札された方がお読みになられ、かのクラブの刻印がグリーンの名であるのならば、日本のゴルフ黎明期の主要人物の作であるため、願わくば改造等なさらず大事にされて欲しい事を、ゴルフ史探究者として切にお願い致します次第です

                             ―了―
                           2021年4月8日記

 


な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995復刻第二版
阪神ゴルフ1922年6月号P7福井覺次郎(福井覚治)『「キャデー」より「プロへ」(三)』
・『Golf Dom』1930年4月号p23~24 C.I生(伊藤長蔵)『覚さんの病没を悼む』
・『INAKA』第十巻掲載 Child of Mist『The Golf of Yedo』 1919 東洋広告取次会社
・霧の中のささやき 編著棚田真輔 編集神吉賢一 監訳松村好浩 交友プライニングセンター 1990
・週刊パーゴルフ1980年3月7日号 小笠原勇八 『真相日本のゴルフ史⑪ ルール解釈に自費出版も辞さなかった高畑誠一の執念』
資料はJGAミュージアム国会図書館で閲覧他、筆者蔵書より

 

(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)