ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉖ 『戦前の来訪外国人プロゴルファー芳名帳』 その1

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・グリーン某(1888乃至89~1919.3/21)
1914夏,18年来日
上海GC所属プロ、1914年夏に横浜のNRCGAの要請で来日し、同クラブと神戸GCでレッスンを行う。4年後の18年来日NRCGAと東京GCでレッスンの後関西で舞子CCのため設計に当たったほか、福井覚治に技術面のアドヴァイスをしている。
翌年3月インフルエンザの為上海で死去、遺族の為に神戸GCと有志が香典を贈っている。

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・スミス某(?~1919乃至20頃)
1919年頃来日
英国人プロで駒澤の東京GCの招聘を受け来日。レッスン業務についていたがホームシックからアルコール依存症となり、業務に支障を来たす様になった為本国へ送還が決まるも、その際、壇ノ浦で客船から投身自殺をしたと伝わる。
関東プロのパイオニア安田幸吉がそのスウィングに影響を受けた(その際に自分のスウィングを盗んだと怒ったスミスに追い回されているが)。

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トム・ニコル(1878.7~1959以降)
1920年夏来日
St.アンドリュース出身、アメリカに渡り1910年代には西海岸で活動、1917年に当時米領であったフィリピンに渡りマニラで働く。その際三井物産の駐在社員達との付き合いから日本に興味を持ち1918年に神戸GCに打診。
来日は1920年で東京GCに滞在。腕前はスミス程でなかったがクラブプロの技量が優れており、キャディマスターであった安田幸吉にクラブ造りを教える。東京滞在中に軽井沢GCのためのコースのルートプランを設計。その後は関西に滞在し横屋GCでレッスン。
離日後は古巣のアメリカ西海岸に戻り、ロス・アルトスGCのプロを最晩年まで務め、来訪した邦人ゴルファーや、遠征した安田と旧交を温めたが、その間日本での仕事場がないか親交のあった伊藤長蔵(ゴルフドム社長)に度々手紙を送っている。

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ダヴィッド・フード(デヴィッド・フッド)(1880前後~?)
1922年9月,23~25年秋,26年5月来日
マッスルバラのクラブメーカー、トーマス・フッドの息子で、長兄の仕事場であるアイルランドへ渡ったのを皮切りに世界中を廻り、20世紀初頭に弟のいるニュージーランドで根を下ろし、同地のプロのパイオニアとして同国PGA創立にも関わっている。
1920年前後には季節のずれを利用してオセアニアとフィリピンを行き来して働いていた。
1922年9月初めに新婚旅行で来日し、横屋GCでのレッスンと送別会の後上京、東京では宮内省職員へのレッスン他、皇太子にエキシビションゲームの披露とレッスンをし、暮れの頃まで滞在している。さらに23年に再来日をし、25年秋まで滞在、この間に茨木CCの設計とオーストラリアの名Amアイヴォ・ウィットンとのマッチや、東京GCのキャディたちに大きな影響を与えた一方、プロのレッスン代高騰も招いてしまった。
26年5月に滞在中の上海から3度目の来日をし、雲仙GLの改造や長崎GC諫早コースの監修をし、同年8月に離日、カナダに渡る。
後年故郷に帰国し、現地で回想録を出しているという。

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ウォルター・フォヴァーグ(1882~1963)
1921年12月来日
彼は第一世代の自国生まれのアメリカ人プロ(オハイオ出身)で、1900年代初頭からトーナメントに参加している。良いプレーヤーであったが移民プロ達の層は厚く、上位に入るものの優勝は1回だけであった。
このほか今のシュミレーションゴルフ的な室内練習場を友人と経営したり、USPGAの創立地区役員も務めているが、1918年にウェスタンGAにアマチュア復帰申請をしており21年に認可(英字版wikipediaでは造船業に転向し1919年にUSGAに復帰申請した。とある)、自分が設計したグレイズハーバーGCに所属し、のちに会長も務めている。
このため日本に来たときは『元プロのコース設計家』であるのだが、今まで日本でプロとされたのは1942年刊行の「程ヶ谷二十年」の記述からだろう。
(なお1928年度ワシントン州Amで2位になったり1930年度全英Amにも出場している)
コース設計や改修は早くから行っていたが、1915年に所属していたスコーキーGCの改修にやってきたドナルド・ロスの手伝いをした縁で、退職後半年ほどアシスタントを務めている。
日本には1ヶ月の滞在で程ヶ谷の設計のほか、駒澤らしきコースでプレーをした写真が残っている。

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ジョージ・ノリス(生没年不明)
1927年夏及び33年来日
上海ジュニアGC会員からプロ転向をしたスコットランド人、アマチュア時代から現地では名の知れたプレーヤーであった。
1927年夏に来日し(アマチュア時代の九州最初のプロ照山岩男が経営するスポーツ店の仕入れで上海に行った際に付いてきたらしい)、雲仙で一月ほどレッスンをした後、日本プロ勝者の中上数一とのマッチをしたい事を述べていたため、大会を主催していた大阪毎日新聞が中上と、大会で2~3位の宮本留吉・福井覚治らによる鳴尾GCで4ボールマッチを企画し、ノリス・福井組が勝利している。その後は甲南GCに滞在したそうで、11月の関西OPに参加し、中上に次いで2位に入っている。
1933年にも日本OPと日本プロに参加しているが、前回の様な活躍はできなかった。

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ウォルター・へーゲン(1892~1969)とジョー・カークウッド(1897~1970)
共に1930年5月及び38年来日
前者は当時ボビー・ジョーンズと並んで世界に聞こえたプロのキング、後者はオーストラリアからアメリカへ渡り、同地で活動をしており、戦績も立派なのだが曲打ちの方で世界に知られていた。両人はコンビを組んでエキシビションのツアーを度々しており、へーゲンの華やかなプレーとカークウッドの曲打ちは世界中で人気があった。
1924年に来るのでは?という噂があったようだが(『Golf Dom』1923年7月号)この時は単なる噂に過ぎなかった。

1930年の来日の際には大騒ぎとなり、専門誌『Golf Dom』だけでなく新聞や一般スポーツ雑誌『アサヒスポーツ』などでも大きく取り上げられている。
関西と関東で赤星兄弟や宮本留吉・安田幸吉を始めとするトッププレーヤーらとエキシビションマッチや講習会を行い。へーゲンは宮本留吉のスウィング形成に大きな影響を与えている。

35年にカークウッドが単身来日の打診をしたが、渡米選手団が出る為スター選手がいないことを始めとする諸般の事情で日本側が断っており、36年にも『Golf Dom』の伊藤長蔵に4月にヘーゲンと来日したい旨を伝えているが立ち消えになった模様。
38年の世界ツアーの際に来日したが、へーゲンが全盛期を過ぎて(加えてツアー中にインドでマラリアに罹り寝込んでいる)芳しくないプレーであったのと、最終戦で大遅刻かつ二日酔いの風体でプレーをしたため、初来日に比べて評判が悪くなってしまった。

(続く)

 

 

 

 


主な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1995復刻第二版 
日本ゴルフ協会七十年史   日本ゴルフ協会  1994
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン1977
・程ヶ谷二十年 程ヶ谷カンツリー俱楽部 1942
霞ヶ関二十五年史 霞ヶ関カンツリー倶楽部 1955
・ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1993改定版
・ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録 宮本留吉 ベースボールマガジン社1985
・人間グリーンⅥ 大屋政子・小笠原勇八 光風社 1978
木戸幸一日記上巻 東京大学出版会 1978第五版
昭和天皇実録第三巻 宮内庁編集 東京書籍 2015
・American Annual Golf Guide 1929年版
・Royal and Ancient Championship Records 1860~1980   R&A 1981
・Golf in Canada A History James A. Barclay 1992
・The Architects of Golf   Geoffry.S Cornish & Ronald.E Whitten
・佐藤昌が見た世界のゴルフコース発掘史、ゴルフ伝来100年記念出版 佐藤晶
・サラゼン・ウェッジ(原題『Thirty Years of Championship Golf』) ジーン・サラゼン、ハーバート・ウォーレン・ウィンド共著 戸張捷訳 小池書院 1997
・世界記録ツアー11連勝した男(原題『How I Played the Game』)バイロン・ネルソン著 戸張捷訳 1998 小池書院
・ウォルター・ヘーゲン物語(原題『The Walter Hagen Story』)ウォルター・ヘーゲン著 大澤昭一郎訳 2006 文芸社
阪神ゴルフ1922年4~5,9月号
・Golf Dom1922.11~1943年分
・Golf(目黒書店)1931.11~1937,1939~40年分
・週刊アサヒゴルフ
1972年6月21日号 小笠原勇八 『人物百話6 森村市左衛門』
1973年1月24日号 小笠原勇八 『人物百話33 岩永裕吉』
1973年2月7日号 小笠原勇八 『人物百話34 野村俊吉』
・アサヒスポーツ
1930年6月15日号
1930年7月1日号、7月15日号『ゴルフ座談会 へーゲン、カークウッド兩氏のプレーを觀て(上)(下)』
1931年1月15日号 植村睦郎・玉村生『ビルとボビーのゴルフ』
1938年五月第二号
・大阪毎日新聞
1927年9月2日朝刊七面『プロフェッショナルゴルファー 本社主催国際模範試合』
1927年9月3日朝刊七面『ノリス選手の技量は侮れぬ 興味をもって期待されるけふのゴルフ試合』及び『日本プロフェッショナルゴルファー国際模範試合』
1927年9月4日『ノリス福井組見事勝つ 五アップ三ツー・ゴー 国際ゴルフ模範試合』
・東京朝日新聞
1921年12月8日朝刊五面『雄辯家ス氏來朝 川崎の大競技場設計者も』
1922年9月9日夕刊二面『來て見てびっくり新婚旅行のゴルフの先生 宮内省でも教習交渉の手紙』
1926年8月28日朝刊『フード氏歸國
1929年12月6日朝刊『ゴルフ界の二巨人來朝 来春を期待されるヘーゲン、カークウッド両氏』
1930年5月21日夕刊二面『世界のゴルフ王ヘーゲン氏來る 曲打王のカークウッド氏と相携えへてけふ神戸へ』
1930年5月30日朝刊11面うますぎる妙技 初めて見る両巨人の腕前にファン膽をつぶす」
1931年12月4日朝刊11面『ゴルフ教師來る』

以上資料はJGA本部資料室、同ミュージアム国立国会図書館昭和館で閲覧および筆者蔵書

The American Golfer
・1916年11月号  J.G Davis筆    『Western Department』
・1916年12月号  Lochinvar筆    『Western Department』
・1910年3月号  Westward Ho!筆 『Western Department』 
・1913年3月号  Lochinvar筆    『Western Department』 
Golf Illustrated   
1920年1月号G.O. West筆『ALONG THE PACIFIC COAST』
1921年11月号G.O. West筆『Golf on The Pacific Coast』

以上資料はLA84Foundationホームページ、デジタルライブラリーで閲覧

参考サイト
PNWPGA History Project WikiよりHall of Fame及びChamipionship

 

(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)