ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・19

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関西の女子ゴルフというのは、外国人女性は六甲で神戸GCが創立間もない頃からプレーを愉しんでいたモノの、邦人女性となると、最初の女性ゴルファーといわれるピアニスト小倉末子が1907年にH.E・ドーント夫妻とプレーして以降、住友孝子(孝、住友銀行創立者、住友友純の娘)が1917年に夫と渡米した際ゴルフを覚え、帰国後1918年六甲でプレーを始めたのが二人目であったほかは、何故か判らないのだが、東京GC会員の妻達と違って1920年代前半まで殆ど動きが無かった。
これは海外でゴルフを夫婦で覚えた者が多かった同地と違い、純国産ゴルファーが多かった関西側では、女性の運動に関して旧弊な見解が多かった事が関係しているのだろうか。

※最初の女性ゴルファーについては、今年に入り『紐育日本人発展史(紐育日本人会1921)』に日本人ゴルファーのパイオニアである新井領一郎が夫人(新井田鶴)と共に明治33年(1900)頃病気療養先のパインハーストで始めた。という記述を発見したが、真偽のほどは今後の研究に関わって来るであろう。

住友の次に続く、神戸の名物男西村貫一夫人の西村マサ(1897~1991)は、1921年に結婚前の約束で在った世界旅行に出かけた際にスイスのサンモリッツで雪に覆われたゴルフ場に踏み込んだ所からゴルフに出会い、続けてロンドンの友人宅を訪問した際に夫の貫一が彼からゴルフを勧められた事も有って、帰国及び次男の敦倫(雅司)の出産後、プロの福井覚治を招いて(貫一曰く友人のお抱え運転手が福井の兄という縁があった)友人達を加えて夫婦揃ってレッスンを受けたところから彼女のゴルフキャリアが始まっているのだが、1971年にマサ夫人が大正末期に自身の写真が表紙を飾った事のある『サンデー毎日』のインタビューで、

“先に外国人女性は勿論日本人女性でもチョッとクラブを振ってみる程度の人はおり、厳密には最初のプレーヤーとは言ない。また、夫が自分の好きなことをやらせたいばかりに心ならずもモダンに成ったという所だから、進歩的とかではなく、夫に従順な妻であったに過ぎない。”
という趣旨を語っているが、夫の貫一は(鋭敏な感性の持ち主故に)エキセントリックな言動で知られる一方、サイノロジー( 注=“妻に惚気る”を英語っぽくモジった当時の造語)としても有名で、後年新聞に“マサ夫人あっての彼だ”として『駿馬蟷螂を乗せて走る』と評されてもいる。恐らく彼女の云う通り(大好きな奥さんにもやって欲しくて)彼特有のワガママが出たのであろう。

マサ夫人は『なんとまぁ、西村さんトコの奥さんは異人さんがやってるゴルフをしてるそうよ』という市民の噂を聞き、かつ貫一の『シングルハンディになるまでベッドを共にするのは止めよう』という宣言を受けながら共にゴルフに奮闘することに成るのだが、男性プレーヤーとばかり廻っている状況が長く続いた事から仲間が欲しかった彼女は、大阪の実業家野田吉兵衛夫人の野田喜見(1897~?)をゴルフに引き込もうとした。
これは野田が同い年であった事や、彼女の夫も舞子CCの会員としてゴルフに熱中し出していた事から、恐らく夫の貫一が一枚噛んで居るのではなかろうか。

『Golf Dom』1923年12月号のI生なる人物による『関西婦人ゴルフ界』から鑑みると、1922年末から23年初めの頃に野田はコースに出ている様だが(本人曰く23年に舞子CCに入会)、始めるまでが大変であった。
マサ夫人は今まで洋服を着た事のない彼女のために神戸中を廻って仕立て屋に注文し、仕上がった者が届いたら着付けを教えて(当時はコルセットも着けたのだ!)、
“さあ出かけましょう。”としたらお屋敷で働いているお手伝いさんや家令の面々が『奥様がお洋服をお召しだ』と珍しいものを見るように集まり、皆が好奇の視線で見送る中、出発直前に婆やが追いかけてきて
『奥様!坊ちゃまのお乳の時間です‼』
と呼び止められ(野田家には1922年11月に三男が生まれて居た)、服を全部外して用を済ませて着直すという出来事があったり、彼女たちに対する神戸市民の好奇の目にさらされながらも仲間探しによって、また六甲に集まる邦人ゴルファーの夫人たちも始めるなど、少しずつ日本人女性のゴルファーが増えてきて、先の『関西婦人ゴルフ界』では

“急速に熱度が高まった様である”と、第一人者として、その技術とともに『夫人選手権が在ったら彼女がチャンピオンに成るだろう』と称えられる西村を筆頭に、コースに出て1年足らずなのに急速に上達し、そのフォームの良さが驚異的だ。と有望視されて来た野田。夫と一緒に始めて彼を凌駕しそうな有望株の山口美代。夏は六甲で外国人女性相手に熱心にプレーをするがそれ以外の季節は殆どプレーをしないので惜しまれている小寺花野(小寺敬一夫人)。時折横屋のコースで熱心にプレーしているスマート夫人、細見夫人の情報と共に、加賀正太郎(もしくは加賀覚次郎)、室谷藤七、石川、松本虎吉、伊藤長蔵ら関西の熱心者達の奥様連が練習を始めている。という真相の不明を挙げながら。

“その噂よりも今に燦然とリンクスに輝き渡るであろうと期待されるのが、九鬼隆輝子爵(三田藩主の末裔、廣野GCの土地提供)及び小曽根貞松(実業家、神戸市参事会員)の令嬢たち(九鬼登美子・忠子、小曽根蕗子)、で、毎週福井覚治から数時間の出張レッスンを受けている”事が書かれており。その文末には

『六甲に上がれば外国婦人ゴルファーを多く見る。しかしその人達は、大概はあえて教師に就いて正規に練習するのでなく、ただ各自我流に球を棒で打って慰みとする。わが日本婦人はそれと大いに異なり、やはり男子と共通の血があるか、やるとすれば熱心に研究的に練習する。この意気込みをもってして、もし内外婦人対抗試合でもあれば勿論我国のものだろうと思われる。先覚婦人は早く婦人ゴルフ協会でも作って、更に更に更に一段の隆盛を計って戴きたい。(英文和訳及び句読点追加等現代文に改編)』という結びの言葉が綴られた。

これについては、東京GCでは前年の摂政宮と英皇太子の親善マッチ後から女性ゴルファーの活動が活発化していたそうであるから、外国人女性ゴルファーらだけでなく、彼女たちにも負けない様に。という激励もあったと思われる。
とはいえ、東京GCの流れを汲んでいる俱楽部が殆どの関東と違って、関西のゴルフ界ではまだまだ女性ゴルファーへの反感が出る事もあって、邦人女性の進出は大変であり。
西村によればクラブハウスに女性の設備を造るのに男女一同頭を(各々別の視点で)悩ませる様なことも有ったそうだ(何しろ鳴尾GCでは彼女が女性会員第一号だったのだから!)。

それでも女性ゴルファーの活動の場が広がっていったのは大きく、1925年4月12日に舞子CCで競技を行う際に西村、野田、山口の三人は日本レディスゴルフ倶楽部を発足しようと呼びかけ、彼女らの他に九鬼忠子(1905生)・九鬼とみ(登美子1903生)、スマート夫人、小曽根ふき(蕗子1906生)等が参加し、この七名によって上記倶楽部が創立。 
西村・野田が28歳、山口とスマートの歳は判らなかったが、後の面々は19~22歳と全体的に若い人たちによって結成されたのが筆者には興味深い。

この倶楽部は活動範囲の関係で関西レディスゴルフ倶楽部に改名したが、関西の各俱楽部でプレーの便宜が与えられたというのは、当時の国内外のゴルフ界を観ても非常に画期的だったと云えよう。
※女性ゴルファーの団体としては、横浜根岸のNRCGAで女性ゴルファーが活発化した1912年から1915年までの間に“Ladise Golf Association”が設立されていたが(1915年12月18日に総会が行われた記録が雑誌『The Bunker』1916年1月号に掲載されている)、
この協会は活動範囲から“NRCGA婦人部”であった可能性がある。

この活動を東京GCの女性ゴルファー達は切っかけと捉えたのか、翌年同倶楽部の三井栄子が西村に挑戦状を送って6月に関西LGCと東京GC夫人会員等の対抗戦が行われ、9月に東京婦人ゴルフ倶楽部が発足。(8月には『関西婦人ゴルフ界』で提案されていた在留外国人チームとの対抗戦も行われている)
以降東西対抗戦が年次の一大行事として行われる様になったことから。周囲の偏見を撥ね退けながらターフの上に立った若い彼女らが、日本人女性の競技ゴルフの始動に大きく貢献をした事を語り継いでいかなくてはならない。

※同シリーズを『駒澤雀奇談』同様ここで一旦一区切りとし、この間に書き上げた物などを発表させて頂きたく、読者の皆様にはご理解の程宜しくお願いいたします。

 

 

 

 

 

主な参考資料
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1979
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
人事興信録 5版 人事興信所 1918
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月8日『はしがき』
9月11日『山上のクラブ』
9月13日『山室宗文氏』
9月16日『佐々木氏と野口氏』
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1923年7~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
1923年7月号『19th Hole』
1923年8月号C. I.生(伊藤長蔵)『六甲山顚のゴルフ』及び『Nineteenth Hole』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1923年12月号 I生『関西婦人ゴルフ界』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』及び『19th Hole』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1925年4月号『19Th Hole』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1926年9月号『19Th Hole』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Nippon Golfer』1936年4月号 『七周忌に當り未亡人に聴く 我が國最初のプロ故福井覺次氏 個人とその周辺の人々』ほか
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『ゴルフマネジメント』1990年7月11日号 井上勝純『ゴルフ倶楽部を考える 第51回 大谷尊由の始球式で京都CC山科コース開場』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
サンデー毎日1971年10月17日号『健在なり草分け女流ゴルファー 西村まささん』
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)