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なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・10

『10:デヴィッド・フードの二度目の離日と再々来日とその後』

1924~25年間のデヴィッド・フードの活動については、横屋の甲南GCでレッスンをしていた以外の記述は、前話で触れたようにハッキリと残っているモノが少ない。
前話で挙げたプロのレッスン代の高騰を招いた要因とされている記述と、離日後西村貫一と話した技術論や茨木CCの改修案(共に英文)が掲載されているくらいに成っているのは日本に馴染んでいた為か。

その他は1924年4月には上京し程ヶ谷CCに出かけたのだが、川崎肇や大谷光明らが同地からの帰路、乗っている車が(先行のバスに仲間を引っ掛けられた酔漢らの)襲撃を受けて川崎が左眼失明をする重傷を負った事件を聴き、帰神後に所用でデヴィッドとの同行(程ヶ谷対舞子対抗戦の下見)が叶わなかった伊藤長蔵(『Golf Dom』運営者)へ伝えている記述が彼による『程ヶ谷訪問私記(『Golf Dom』1924年5月号)』に掲載されている。

この年の夏には六甲の神戸GCに出かけており、プレーをしている写真が『Golf Dom』9月号に在るのと、8月号に集まっていた邦人ゴルファー達の各プレー写真、たとえば先述の伊藤長蔵のフォロースルーの写真に『クラブを止めちゃ駄目だよ、伊藤さん』等の一口コメントの解説(英文)をしている物が在る。

そして注目すべきは1925年8月11日にデヴィッドは、商用で妻と来日をしていたオーストラリアの名アマチュア、アイヴォ・ウィットン(オーストラリアOP通算5勝)と茨木CCでエキシビションマッチを行っている(3&2でウィットンの勝)。
これはフードが赤星鉄馬と1922年10月に新宿御苑で皇太子(昭和天皇)の前で行った物を除けば最初の海外プレーヤーのエキシビションと云われている物である。

何故このマッチが行われたのかと云うと、日本(関西)のゴルファー達がホテル滞在中のウィットンがオーストラリアのチャンピオンで在ることを知って、彼にプレーの実演を乞うた話が同年10月28日付の『Referee』紙をはじめオーストラリアのいくつかの新聞に出てくるので急遽決まったのだろう。
(なお、この試合の後にウィットン夫妻へ有志一同から来日記念として金のタバコケースに金と鼈甲のネックレスが贈られた話もオーストラリアの『Call』紙等に出てくる)

ここでウィットンの相手が関西のトップアマや、所属プロの宮本留吉を始めとするプロ連らではなく、デヴィッド・フードで在ったのか。という疑問が出てくるが、デヴィッドがニュージーランドのプロゴルフ黎明期の主要人物であり、ウィットンも第一次大戦前から競技に出場している。という事を鑑みれば、実は両人は顔見知りで、旧交を温めるフレンドリーマッチとして行われたのでは。という考察が出来るのではなかろうか。
※事実1913年にウィットンが二度目のオーストラリアOPに302の新記録で優勝した際に、デヴィッドが彼のプレーについて触れている新聞記事(『New Zealand Herald』9月5日P4『Golf』及び『Taranaki Herald』9月6日付P6 All Square筆『Golf』)がある。

筆者にとって不思議なのは国内に於けるデヴィッド・フードの写真は刊行物掲載の物も含めあまり残っていない事だ。
確認出来たものでは来日間もない時の東京朝日新聞の物と『Golf Dom』1922年11月掲載の横屋GC(後甲南GC)での顔が逆光で見えないドライバーとマッシーの各三枚撮りの写真(伊藤長蔵撮影)、1924年の神戸GCに於ける各ホールでのティショットの写真が4枚(『Golf Dom』9月号掲載、帽子で顔が見えず)、茨木に於けるウィットンとのマッチでのティッショトの写真位だ。多分レッスンを受けた者やプレーを観た者達が撮影した物が残っている可能性は有るが、所在は不明だ(西村コレクションに無いだろうか。と考えている)。後は宮内庁新宿御苑でのレッスン時のフィルムが残っているかどうか。

2014~15年の書き物でデヴィッド・フードが日本を離れたのは1926年の初夏~夏頃と書いたが、当時の『Golf Dom』1925年10月号の巻末コラムの中にそろそろ日本を離れる時が来た。とあるのだが、この時は何があったのか、従来より渡航するとされていた北米西海岸ではなく上海に渡って滞在していたらしい。

というのも『Golf Dom』1926年1月号に在上海ゴルファーの第一人者でMcAndoの名で知られた安藤博の12月付の現地レポート『上海通信』の中に
『尚ほ最近迄我日本に居つたHoodが先日上海にやつて來た。當地にて専らlessonするので目下準備中であるが、同人は日本滯在中に厚遇された好感は當地に來ても特別に日本人golfersに對して盡す覺悟で居る、日本人側に於いても亦彼を援助すべく有志者相談中なり。(P24 原文ママ)』
という、デヴィッド・フードを後援するために彼からレッスンを取ろう。という話題が出ているためである。

 以前の書き物でデヴィッドが1926年に諫早で造成中の長崎GC新コース(同倶楽部は元々雲仙のパブリックコースで活動していたが、長崎市内からの移動時間が非常に掛かることから手前の諫早にコースを造った)のチェック及び、雲仙GLの改造案の要請を受けて同年5月21日に長崎へ来訪し後者の改造を行い(ティとグリーンの新設をしたルートの大幅な変更で、現在3・5番の短縮とサブグリーン設置以外レイアウトは変わっていない‼)両地の可能性を評価していた事を記したが、
上記の件に加え来訪の際に乗っていた客船の名前が上海丸である事等から、デヴィッドは上海に滞在をしており現地から長崎へ来訪をした可能性が可也強い。
というのも雲仙はアメリカ領事のカール・F・ダイクマン、香港上海銀行支配人C.W・メイ、そして地元長崎の英国商社マン、P.J・バックランドとウォーレス某の4名らの助言を基に県の土木課長鈴木格吉が設計をしたと云うのだが、異説として“上海領事館のフード某が設計”という記述がある為だ。恐らくこれは1926年の改修が変な形で伝承されたのではないかと筆者は考えている。

デヴィッドのその後の活動について、1926年6月25日付『Press(ニュージーランド)』紙に掲載された、(悪天候下でのプレーで罹った)インフルエンザからの肺炎で亡くなった次兄フレッド・フードの追悼記事ではデヴィッドは『現在アメリカにいる』と書かれているが、彼は雲仙の改修や諫早コースのチェック後も日本に滞在していたらしく、この記事の約二か月後、東京朝日新聞1926年8月28日朝刊の各小ニュースの囲み記事の中に『フード氏歸國』という題で彼が日本を離れた記事が出ており、そこには
『摂政宮殿下に親しくゴルフプレーを御教導申し上げた英国のゴルフアーデーフード氏は五ヶ年住みなれた日本を後に二十七日午後三時横濱解らんの大阪商船アフリカ丸で歸國の途についた(原文ママ)』
と報じられている。

この三カ月ほどの滞在について先ず気に成るのが、7月に行われた大阪毎日新聞後援(翌年から主催)の日本プロ選手権に出なかった事で、これは無所属故か、それとも新天地に向かうまでの間日本には観光の様な滞在をしていたのか(長崎でもレッスンをしていたようだが)。

もう一つは、この離日でカナダに向かったという事がデヴィッドが記した『Some Remarks on Japanese Golf』に記されているのを以前の書き物で紹介したが(上記のアフリカ丸はカナダのヴィクトリア、バンクーバー経由でアメリカのシアトルに向かう客船であるので整合性は取れる)、その時の報告同様同国での情報が判らない。
アメリカとカナダのゴルフ情報が載っている『American Golf Annual』の1926~30-31年版までのモノをUSGAホームページのデジタルアーカイヴで再度各倶楽部の情報を調べるも(1931年暮れに日本に来たネイサン”ネット“・コーンフットがバンクーバーのランガラGC所属のプロであった事は判明したが)出てこなかったので彼は本当にカナダに向かったのか?という疑問が出てくる。
ニュージーランドの『Hawera Star』紙 1926年8月14日付 のゴルフ記事(P13)掲載の日本ゴルフ界の話題の文中にある『五年の滞在を終えて同地から戻ってきたゴルフ友達』という記述はデヴィッドのことか?と思えるのだが日程が合わない。
また西村貫一が『Golf Dom』の1927年1月号に寄稿したコラムで『先日本国に帰るべく日本を去ったHoodが』と触れているので、カナダには定住せず大陸を横断してスコットランドに向かったか、それとも、もう一度オセアニアに行ったのであろうか。

ただ後に故郷に戻って回想記『Some on Remarks Golf』を残している事はベアード氏のコラム(彼のデヴィッド・フードに関する記述は同著から来ている)から判っているのだが、翻訳構成をしたJGAミュージアム委員武居振一氏も筆者もベアード氏が紹介している“それ”を入手する事が未だに出来ないでいる。
何とかデヴィッド・フードの回想記を目にしたいのだが、ベアード氏と親交のあった武井氏も『ベアード氏に会った際に実物を見せてもらってコピーしていれば』と残念がられていたが、当時90歳を超えていたベアード氏から所在を聞き出す事ができないまま2019年12月に氏が95歳で亡くなられてしまった事が筆者たちにとって無念で在った。

情けない報告ではありますが、フィリピン時代の記事及び回想録の内容等また新事実が判明した際にはご報告を

                              
                              ―了―
                             
                            2017~2022年6月4日記
                         2022年6月5~7月26日補足改定

 

 

 

 

 

 

 

 


『デヴィッド・フードの補足』で使用した主な参考資料

・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂(復刻第二版)1995
昭和天皇実録第三   宮内庁  東京書籍 2015
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1979
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部   1964
・日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史(2) 井上勝純 三集出版 1994
・ゴルフに生きる(改訂版) 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1993
・Golf In New Zealand G.M Kelly New Zealand Golf Association 1971
・東京朝日新聞
1922年9月9日夕刊二面『來て見てびっくり新婚旅行のゴルフの先生 宮内省でも教習交渉の手紙』
1926年8月28日朝刊『フード氏歸國
・『阪神ゴルフ』1922年9月号 P5『阪神ゴルファス倶楽部ニ於ケルG. Hood講演會』
・『Golf Dom』1922.11~1940年分
1922年11月号P14-15『程ヶ谷カンツリークラブ開場記』
1922年12月号P26-27『Nineteenth Hole』 
1923年4月号P7『Hood Breaks Corse Record』
1923年5月号P8-9 Y.K翻訳編集『Hood更にRecordを作る』
1923年12月号P15-17 シルバーキング 『價値轉換―ある貧しきゴルファーの會話―』
1924年1月号P8-9 シルバーキング 『レッスン』
1924年8月号P12-15 『霧の霽れ間に(第一集)』
1925年5月号P25-27『茨木Links開き』
1925年10月号P28『19Th Hole』
1925年12月号P19-20 京都N.Y.(中上川勇五郎)『憎まれ口―Pro.のLesson―』
1926年4月号P18-20 M.S.K生(加賀正太郎)『Green Committeeの泣言』
1926年5月号P17-19 デヴィッド・フード談、西村貫一聞き書き『Ibaraki Golf Course』
1926年6月号『雲仙通信』
1926年8月号 デヴィッド・フード『Some Remarks on Japanese Golf』
1927年1月号 ニシムラ生(西村貫一)『“Symposium”―long ball・無駄話いろいろ―』
1927年2月号 西村貫一『第二回“Symposium”―Club及びclub makingに就いて―』
1930年4月号P23-24 C.I.生(伊藤長蔵)『“覺さん”の病没を悼む』
1940年4月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(上)』
・『ゴルフマガジン』1975年4-5月号 柴田敏郎『日本プロ・ゴルファー人物探訪②-③』
・『Choice』2016年新春号『3分間教養』アーチー・ベアード『スコットランドの文献に残る昭和天皇のゴルフの記録』
以上JGA旧本部資料室、同ミュージアム国立国会図書館、國江仙嗣氏蔵書及び筆者蔵書より閲覧

・The Golfers Year Book For 1866 Rob Howie Smith編 Smith&Grant 1867
・American Golf Annual 1926~1930-31年版
以上USGAホームページ、Seagel Electric Library より閲覧

・『Hall of Fame』 より『Charles Ritchie Howden』
以上Golf New Zealandホームページより閲覧

・『Centenary 2013 News』よりDuncan Simpson『Back in the Day...』
以上New Zealand Professional Golf Associationホームページより閲覧

・『Club History
以上The Otago Golf Clubホームページより閲覧

・『Club makers』 より
『Thomas Hood Musselbugh/Dublin』
『John Cuthbert Stanmore/NZ/Rye』
『James Hard Tasmania/New Zealand
・『Scottish Golf History』よりDouglas Mackenzie筆(2017年)『The Far East Philippines, Japan and China: Tom Nicoll』(『A Pioneer in Japan and the Philippines』) 
以上Antique Golf Clubs from Scotlandホームページより閲覧

・Douglas Seaton筆『McLaren Brothers – Melbourne』
・Douglas Seaton筆『North Berwick Golfing Pioneers』より『Alexander and John McLaren』
・Douglas Seaton筆『Musselburgh - East Lothian』より『David, Fred and Tom Hood
以上North Berwick orgホームページより閲覧

『The Sydney Morning Herald』1906年10月16日P10 『Golf Professional Competition』 
『The Sydney Mail and New South Wales Advertiser』1903年10月7日P951 
『The Sydney Mail and New South Wales Advertiser』1906年10月24日付 
『The Age』1906年10月17日P17『Inter-State Golf Tournament』
『Observer』1921年12月17日P31『Golf.』よりHazard筆『Municipal Golf.』
『Weekly Times』 1921年12月24日P57『Chinese as Golfers』
『Referee』1921年11月9 日P9『Golf Doings』より『HOOD FOR PHILIPPINES.』
『Referee』1921年11月30日P16  Auld Reekie筆『Golf in East』より『Chinese Women Take Up the Game』
『Referee』1923年11月14日P16 『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
『Referee』1925年10月28日 P16 By 'DORJIIE ONE.筆 『IVO WHlTTON IN JAPAN His Interesting. Impressions』
『Call』1925年 12年18日 P3 『“A Little Bird Says “』
『News』1925年 11月20日 P8 『Golf Witton In Japan Royal Adelaide Meeting』よりBisque筆『GOLF IN JAPAN』
以上オーストラリア国立図書館デジタル資料検索システムTROVEにて閲覧

『Otago Witness』1874年12月19 日P15 『News of the Week.』
『Otago Witness』1913年10月22日P53 『Golf. New Zealand Championship Meeting』 
『Otago Witness』1924年 10月7日 P52  Divot.筆 『Golf』
『Evening Star』1871年9月28日P4 広告
『Evening Star』1892年6月25日P3『Brief Mention』
『Evening Star』1893年12月1日P4『Golf Tournament』
『Evening Star』1895年6月18日 P3 『Brief Mention』
『Evening Star』 1902年10月9 日P7 『Sports of All Kinds.』掲載 『Golf.(The Foozler筆)』
『Evening Star』1903年1月14 日P7 『Sports of All Kinds.』掲載 『Golf.(The Foozler筆)』
『Evening Star』1908年9月21日P4『Golf.』
『Evening Star』1908年9月22日P4『Golf.』より『The Championship Meeting.』
『Evening Star』1908年9月23日P3『Yesterday‘s Golf.』より『Open championship Won By Clements.』
『Evening Post』1907年9月11日P8『Golf. Championships』
『Evening Post』1914年12月22日P2『Golf Wellington Club‘s Tournament.』
『Evening Post』1922年6月3日 P13 『GOLF NOTES』より"Bunkers."筆『THE BIRTH OF GOLF IN NEW ZEALAND.』
New Zealand Herald』1901年 10月26 日P6 『Golf.』
New Zealand Herald』1901年 11月30 日 P7 『Golf.』
New Zealand Herald』1902年 9月27日 P7 『Golf.』
New Zealand Herald』1903年2月14日 P7 『Golf.』
New Zealand Herald』1903年4月25日 P7 『Golf.』
New Zealand Herald』1903年 6月6 日P 7 『Golf.』
New Zealand Herald』1906年 9月22日P 7 『Golf.』
New Zealand Herald』1906年10月27日P8『Golf.』
New Zealand Herald』1907年9月13日P7 『Golf Championship. New Zealand Meeting.』
New Zealand Herald』1908年9月23日P7 『Golf. New Zealand Open Championship.』
New Zealand Herald』1909年9月15日P5、9月16日P7『Golf Week』
New Zealand Herald』1913年10月21日P9 『Championship Golf Meeting』
New Zealand Herald』1920年9月2日 P6『Championship Golf』
New Zealand Herald』1922年 6月24日P2『GOLF IN JAPAN.』
『Wairarapa Daily Times』 1902年 7月29 日『Life in the City.』
『Wairarapa Age』1913年12月31日P6『Wellington Club Tournament』
『Wanganui Chronicle』1904年5月26日 P5『Golf.』
『Hawera Star』 1926年8月14日P13 『Golf.』より『In Japan.』
『Southland Times』1906年10月17日 P2  『Golf.』
『Taranaki Daily News』 1913年5月17日P7 『Golf 』より『Note』
『Taranaki Herald』1915年4月10日P6 All-Squaro筆『Golf.』
『Nelson Evening Mail』1913年10月18日P5『New Zealand Championship』
『Lyttelton Times』 1910年9月7日P8 『Golf New Zealand Championship Meeting』
『Lyttelton Times』 1914年2月13 日P1広告
『Press』1907年9月11日P7 『Note on The Play』
『Press』1915年7月5 日P5 『Golf.』より『BED CROSS DAY.』
『Press』1926年 6月25 日P.14 『Golf.』より『OBITUAEY-F. G. HOOD
『Star(Christchurch)』 1916月4月14日 P5『Golf. The Coming Season』より『AT NEW BRIGHTON.』
『Sun(Christchurch)』 1915年9月25日P11『Golf. A Red Cross Effort』
『Star(Christchurch)』 1916年 4月20日 P2『Golf.』より『New Brighton Club』
『Otago Daily Times』 1874年2月2日P2
『Otago Daily Times』 1874年2月16日P3 広告
『Otago Daily Times』 1893年5月13日P4『Golf.』
『Otago Daily Times』 1894年9月24日P3『Golf.』
『Otago Daily Times』 1896年9月26日 P5『Golf Dinner.』
『Otago Daily Times』 1906年11月22日 P5『Golf』
『Otago Daily Times』 1907年9月11日P5『Golf.』より『New Zealand Championship Meeting』
『Otago Daily Times』 1908年9月23日P5『Golf.』より『New Zealand Championship Meeting』
『Otago Daily Times』1913年10月22 日P6『Golf』
『Otago Daily News』1896年9月26日P5『Golf Dinar』
『Otago Daily News』1906年12月13日P5『Golf.』
『Auckland Star』 1901年5月20日P6『Auckland Golf Club』
『Auckland Star』1914年10月8日P2『Golf New Zealand Championship』
『Daily Telegraph』1899年8月7日P 3『Golf.』
『Bush Advocate』1904年2月3日P2 
『Dominion』1914年12月29日P9『Golf Tourney』
『Glsbone Times』1920年9月16日P7 『Golf』
『Manawatu Times』1921年10月21日 P4 『Personal Paragraphs』
『Poverty Bay Herald』1921年 10月27日 P6 『Town Edition』
以上ニュージーランド国立図書館デジタル資料検索システムPapers Pastより閲覧

『Otago Daily Times』2012年5月2日 John Lewies筆『Golf clubs for auction; age, origin disputed』
以上、Otago Daily Timesホームページより閲覧

『Grand Forks Herald』 1920年 6月14日『Golf Year Around.』
『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
『Grand Forks Herald.』1920 年9月29日image8 『Plan Golf Organization』
以上アメリカ議会図書館ホームページ、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

『The American Golfer 』1917年4月号 A Stotsenburg Golfer.筆 『GOLF IN THE PHILIPPINES』 
『Golf Illustrated』 1921年3月号 Edward Aromie筆 『GOLFING IN THE PHILIPPINES』
以上LA84Foundation Digital Library Collectionsより閲覧

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)