ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート⑱『昭和三年のマラソンゴルフ』-1

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戦前期のゴルファーというのは彼らの社会的階級や地位も関係していたのであろうが、かなり思い切った事をした話が点在している。
中には、『何だい、結局金持ちのお道楽ではないか』と言いたくなるような鼻につく話もあるが、たいていは純粋にゴルフを心から楽しんでいるからこそ起きた逸話である。
社会的地位を持った人達が大好きなゴルフで子供の様になったり突飛な事をやらかしているからこそ面白いのだろう。

思い切ったゴルフの一つとして、一日に複数回ラウンドを行う『マラソンゴルフ』話は国内外にいくつも記録が残っている。
海外では夜明け前から夜中までぶっ通しや、10ラウンド以上の記録はザラにあるが、国内では六甲の主H.E・ドーントが1908年に友人のJ.P・ウォーレンと共に神戸GCで一日5ラウンド達成し1911年には7ラウンドに更新した記録が一番古い部類に入るだろう。
他にも6ホールのショートコースだが甲南GCで1923年に舞子CC会員野田某(実業家野田吉兵衛の模様)が朝7時から日没まで17ラウンドプレーした話。本邦初のオリンピック参加者三島弥彦が滞米時に12時間8ラウンドをしたという風聞(毎日新聞の『スポーツ年鑑昭和4年版』に記載)。1936年7月30日に霞ヶ関CCで行われた72ホール耐久競技(会員部門及び所属プロ部門、会員の医師が出場者の健康管理をした)が行われた記録等がある。

たいていの場合は一つのコースで行われているが、1928年8月6日に関西で行われた試みは当時の交通事情などを考えると注目に値するのではなかろうか。
というのも六甲山の神戸GCを皮切りに、宝塚CC(現GC)、当時は鳴尾浜に在った鳴尾GC、そして大阪の茨木CCと1日で四つのコースを回るという前代未聞のマラソンゴルフであった為だ。これを行ったのは大谷光明・尊由兄弟、中上川勇五郎、松本虎吉の四人。

大谷光明は本願寺21世門主大谷光尊の息子で、1922年度の日本Am勝者かつJGAの会長やルール委員を長年務めたルールの神様として知られる日本ゴルフ史の重要人物だが、その他の面々については説明が必要になるだろう。

光明のすぐ下の弟、大谷尊由は本願寺執行長からこの年の4月に貴族院議員になり、第一次近衛内閣では拓務大臣になっている人物で、書画の名手としても知られた。
ゴルファーとしては兄と共に京都CC創立に関わり会長を務め、C.H・アリソンが来日した際には彼が京都の寺社仏閣の庭園を観覧できるように裏方として尽力した。
腕前はシングル一歩手前で在ったが、その大柄な体格と荒い鼻息から繰り出されるどこに行くか予測不能のロングヒットから『荒法師』として数々の逸話を残した他、どんな時でもニコニコと泰然としたプレーや、ルールに頓着しているように見えなくても自然な振る舞いが全てルールやマナーに合致している『一緒に回りたい人』として皆から愛されていた。

中上川は実業家中上川彦次郎の五男で、次兄の治郎吉は最初期からのゴルファーで東京GCの創立会員として知られ、勇五郎も東京GCの会員となっているが、主戦場は関西で茨木CCの会員であり、地元の京都CCの創立では大谷光明と共同でコース設計に関わるなど、戦前の関西ゴルフ発展期のキーパーソンで在る他、1920年代を代表するプレーヤーとして1924年日本Amではトップに2打差の5位T(大会は4人によるプレーオフ)、東西Am対抗戦では西軍として3回出場している。

松本虎吉は明治の元勲松方正義の13男で、少年期に関西の実業家松本重太郎の養子になっていた。ゴルフはアメリカ留学中に小学生時代の友人の誘いでニューヨークのヴァンコートランド・パークで覚え、帰国後は実兄の松方幸二郎や従兄弟で関西のパイオニア久保正助の勧めで舞子CCに入会、中堅プレーヤーとして活躍するとともに、茨木CC創立に関わり初代名誉書記を務める。
1923年には大谷らの協力で本邦最初の日本人向けルールブック『ゴルフ競技規則』を刊行し、晩年は千葉パブリックゴルフ場代表として全日本パブリックゴルフ選手権発展の牽引者となり、同協会の副理事長としてゴルフ史に名を留めて居る。

これを見ると気心の知れた友人同士で行ったわけだが、この発端について中上川は大谷の誘いと雑誌に書いている。
また大谷が後年雑誌に書いた所によると、この案は外国人がやる様な事をしてみよう。という思い立ちによるもので、また中上川は特異質の持ち主で、変わった事をやろうとすると真っ先に賛成をする人物だったと語っていることから、彼が一番乗り気であったのだろう。

その中で大谷は、中上川と1コース5ラウンド+翌日2ラウンドを行った事や、海外の1日10ラウンド以上のマラソンゴルフの記録を挙げ、この時のラウンドは大したことではないと謙遜して“そういう事をした”程度の回想である事。また戦後雑誌で大谷と付き合いのあった小笠原勇八(ゴルフ誌記者からJGA事務局長になった人物で記録者として有名)によって、またパブリックゴルフ協会20年史の松本の項目でもこのマラソンゴルフが紹介されているが、詳細には触れられていない事からどのようなゴルフであったのか、中上川が『Golf Dom』1928年9月号に寄稿したレポートを基に辿ってみよう。

(続く)

 


主な参考資料
・『Golf Dom』1928年9月号P18~20 Y. Nakamigawa(中上川勇五郎)『72 a Day西國四ケ所廻り 同行―大谷光明、大谷尊由、松本虎吉、中上川勇五郎』
・『Golf Dom』1939年9月号P23 丘人(伊藤長蔵)『尊由さんのゴルフを偲ぶ』
・『Golf(目黒書店)』1939年9月号P14~17『大谷尊由さんを悼む』
・『Golf(目黒書店)』1932年8月号P36 『緑蔭閑話 大谷光明氏訪問記』
・『Golf(目黒書店)』1932年9月号P14~17 大谷光明『ベランダにて』
・日本パブリックゴルフ協会 20年のあゆみ 1985
・東京ゴルフ俱楽部75年史 東京ゴルフ倶楽部 1991
日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994

 

 

(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します)