ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート⑯ 『パイオニアの苦しみ』

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ゴルフにおけるパイオニアというのは中々理解がされず苦労する。ということが多い
技術しかり、用品の新素材・製法しかり、更にはゴルフという存在自体も。である。
アメリカゴルフのパイオニア達にはプレーをしていたら周囲に嘲られたり、中には『怪しい遊戯をしている』として当局がご出陣あそばされた。という話も残っている。
日本のゴルフ界も御多分に漏れず、様々な苦心談があり、戦前戦後の雑誌による当事者たちの回想や、戦前からのゴルフ倶楽部の年史を読むといろいろ伺い知ることができるが、
今回は一人の人物の苦闘にスポットを当ててみたい。

福井覚治といえば本邦最初のプロゴルファーとして、ゴルフ史に興味をお持ちの方々に知らぬ人は居られぬだろう。
正史では1920年10月3日の舞子CC開場と共にキャディマスター兼プロフェッショナルとして雇用されたのが、我が国のプロゴルフの始まりとしている。
が、実際にはもっと早いようで、プロの仕事であるレッスンは1913年秋頃に横屋GAに入会した安部成嘉の依頼で開始し、クラブの修理製作は1913末~14年初頭間に始めている。

※ちなみにプロという名称が無くても同等の仕事(レッスン・用具の修理製作・キャディの采配・コースの整備造成)をしていた『職業ゴルファー』は1920年以前に福井をはじめ数名存在しており、東京GCキャディマスターの山田某、神戸GC支配人の佐藤満の名が挙げられる。なお後者は後年プロ競技にも出場しており、英国のゴルフ年鑑にプロとして表記されている。

であるから、福井のプロとしての実質的キャリアは正史よりも長く、夫人は20歳頃からといい、長男の福井康雄プロ(本名俊一、レッスンで活躍)も舞子CCよりも5~6年前からと回想をしているほか、1922年『阪神ゴルフ』創刊号でも15年の経験者。とキャリアの年数が少年時代からカウントされている。
この話の本題はその頃、彼が明確にプロと言われていなかった横屋GA~鳴尾GA時代の苦闘についてである。

福井がゴルフに携わるようになったのは、自宅が横屋GA敷地の隣にあり、父親がコース造成に関わった事から始まり、1904年の倶楽部創立の頃から発起人のW.J・ロビンソンのキャディとして月11円(専属キャディ代とキャディーマスター代)で雇われ、彼と一緒にプレーをして腕を磨き、ロビンソンの挙げるプレー課題をこなす度に用具をプレゼントされていた。

転機が訪れたのは先述の安部成嘉とプレーをした際に彼からレッスンをつけてくれ。と頼まれたこと、そして横屋の閉鎖で新コースとしてロビンソン・安部が鳴尾GAを造った際に手伝いをしたこと、そして以前からロビンソンにゴルフ教師とクラブ修理の仕事をするよう盛んに進められていた事もあって、ゴルフに生涯を掛けようと決めたと『阪神ゴルフ』における回想記事で語っている。

ただ、そうは云っても物事は簡単には行かない、始めたゴルフ工房も開店休業状態、横屋GAは会員が最末期で26名、週に2~3人しか来ない(夫人の回想)。鳴尾GAになってもやって来るお客が少ない。
彼が得ていた月給も横屋末期で13円、鳴尾初期でも15円でレッスンは半日25銭(本人と夫人の回想より)。各種用具はキャディ時代同様ロビンソンの課題をクリアして提供してもらっていた。(これは彼の技術とモチベーション向上に役に立ったそうだが)

 少年時代ならばちょっとした額も、成人した身としては火の車であり、更に家庭を持ち子供達がいては猶更だ。
心配した夫人の親達から『商売の資本金を出すからこんな仕事は辞めなさい』と説得され、また東京GCが新設された話を聞き、ゴルファーの多い同地への単身赴任に行きたいと口癖のように語っては『いや、子供たちを置いては行けない』と思いなおす事を繰り返していた。と夫人は雑誌『日本ゴルファー』における福井覚治七回忌特集のインタビューに答えている。

アメリカ大陸最初のプロであったカーヌスティのW.F・デイヴィスも、ホイレークからカナダのロイヤル・モントリオールに移籍した際、クラブのメンバーが僅少のためプロ業務では生活ができないので翌年から10年近くゴルフ以外の仕事をして生活していた。という話があるが、福井も彼と同じ道を辿りかねない状況であった。

このままどうなるか、というところで天は彼を見捨てなかった。鳴尾GAが出来てから邦人ゴルファーが段々と増えていき、初心者たちは彼にレッスンを求め、彼等からのクラブの修理製作に付きっ切りになるなど、仕事増えて一息つけるようになった。
そうしているうちに自宅そばの横屋のコースの復活(1918年頃)もあり、そちらでの職務も含め仕事はだんだん上がり調子になっていき、1920年に舞子CCが出来てからは、土日の同地への出勤日には車の送迎で職場に向かい、平日は横屋(後甲南GC)でグリーンキーパーである父親の補佐をしながら諸事をこなしていた。

邦人最初のゴルフ誌『阪神ゴルフ』・『Golf Dom』が刊行された1922年頃になると唯一のプロとして名声は可成り上がり、各邸宅へ自転車で出向いて訪問レッスンを行い、クラブ工房ではアシスタントを雇うという多忙な身となり、初期の苦労が嘘のようにすっかり好転し、関西・九州のゴルファーをはじめ初期プロの殆どが彼の薫陶を受けている。

彼は叩き上げ故、初期の頃は洋書に詳しいアマチュア達から用語や理論立て方法の手助けを受けており、理論面のムラが出てしまうことがあったが、その簡潔な教え方と即効性のあるレッスンは皆から重宝されていた。
また、1920年代後半には『福井と言ったらゴルフの先生』として京阪神の一般大衆にも知られていたようだ

1920年代半ばの関西には彼の他に数人プロが出ているが、アマチュア出身の村上伝二や、1926年に程ヶ谷CCから戻ってきた六甲出身の中上数一を除くとほぼ全員福井の門下のため、必然的にキャリアの長い彼から教わろうという需要があり、1925年頃のプロのレッスン代高騰時にはラウンド9円(今の45000~54000円位か)、訪問レッスンで10~15円を得ていたというから高給取りであるが、夫人によると彼は金銭面で恬淡としていたといい、門下生育成のためか(非常に弟子思いで、複数人を下宿させていた)、後述の病気の療養のためか、支出のほうが多かったらしく、
長男の康雄によると死後借金があり、彼がレッスン業務に加え一日置きの徹夜のクラブ製作業務(筆者注=その頃は二つとも覚治の全盛期よりレートがずっと安くなっていた)をこなしても完済に7~8年かかったという。

国内ゴルフの発展に沿って着実に成功の道を歩んでいた福井であったが、今度は彼が経験豊富なパイオニアであるが故に、求めに応える体力が追い付かなくなってしまった。
一時期上記の訪問レッスンで走り回らなくても良い様に、と阪神の有志が造ったインドア練習場に長時間詰めていた事から、同所の通気性の悪さ及び、充満する打席マットの埃により元々蒲柳の質であった彼の健康を損ねてしまった事が一番大きく。
それに加えて彼自身も教えるのが好きであった事もあり、朝から深夜まで働き、せっかくの休日も門下の者達の為に研修会を開き(これが実を結んで1928年1月に関西プロゴルフ研究会が発足)、京阪神のみならず長崎や満州まで飛び回り文字通り休む暇がなかった。
この過労が原因の結核で活動の幅が次第に狭まり、1930年4月13日38歳の若さで亡くなる要因となってしまった事は皮肉であり、これもまたパイオニアゆえの悲劇と云うべきであろうか。

 活躍の面が多く取りざたされる日本初のプロの生涯であるが、苦闘の面も光を当てると当時のゴルフ界の移り変わりもより鮮明に見えてくると考えるが如何であろうか。
                                -了-
                          2020年2月28日記

主な参考資料
・『阪神ゴルフ』1922年4/25,5/25、6月号掲載 福井覚次郎(覚治)『「キャデー」より「プロ」へ(一~三)』
・『Golf Dom』1930年3月号 福井覚治 『始めを語る』
・『Golf Dom』1930年4月号 C.I生(伊藤長蔵)『覚さんの病没を悼む』
・「Nippon Golfer」1936年4月号 『七周忌に當り未亡人に聴く 我が國最初のプロ故福井覺次氏 個人とその周辺の人々』
・『アサヒゴルフ(月刊)』1979年7月号 福井康雄 『日本人初のプロ父・覚治を偲んで』
茨木カンツリー倶楽部創立十周年記念誌   茨木カンツリー倶楽部 1934年5月
資料はJGA本部資料室及び同ミュージアム国会図書館にて閲覧

 


(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)