ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート⑱『昭和三年のマラソンゴルフ』-2

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時は1928年8月6日、六甲山の神戸GCから朝4時のスタート。の予定だったのだが、前日5日は暴風雨に加え気象台への翌日の予報問い合わせも芳しく無かった事から、中上川は『こりゃ無理だろう』とコース内に在る関西若手実業家ゴルファー達の社交倶楽部、サースデイ倶楽部(現神戸GCチェンバー)でゴルフ仲間主催の天ぷらパーティに興じた。

しかし翌朝3時半、窓から外を見ると天気は小雨凪風になっている為、敢行することになった。サースデイ倶楽部にそのまま泊まっていた松本を呼びに行くとまだ寝ている。彼曰く『途中で起きたものの、この天気では到底ダメだ』と寝直したそうで、“これでもやるのかい?”と少し迷惑そうにしている。
兎に角準備をさせて一同コースに繰り出すも、夜明け前かつ濃霧の関係で視界が全く利かない。その為フォアキャディの一小隊を各所に配置し50分遅れの4:50に彼らの合図を頼りに大谷光明からティオフ。
始まりから終りまで濃霧の中でプレーしたが、フォアキャディ達一生懸命の働きのおかげでロストボールも心配する程ではなく、順調に進み7:15に無事プレーを終える事が出来た(光明は76で回る)。7:30には車で山を下り有馬方面から宝塚GCへ向かう。

道中車内で濡れた靴下を乾かし、サンドウィッチで腹ごしらえをし、8:50に宝塚GC到着。何とその2分後には一同一番ティに立っていた。
ここでは遅れを取り戻そうと2人一組に分かれてスタートするも、六甲とは打って変ったカンカン照りの天候とスケジュールの焦りからパットを始めプレーに乱れが生じ、4コースの合計スコア320~30の希望がもろくも崩れ去り一同ガッカリ。
物怖じしない性格の松本が『一体誰がこんな馬鹿らしい事を考え出したんです!』と悲鳴を上げる始末であったというから、余程崩れて仕舞ったのだろう。
11:10に一同何とかプレーを終え、クラブハウスに寄らず車に飛び乗ったのか、到着時同様2分後の11:12には武庫川河口の浜にある鳴尾GCへ向けて出発した。

ほぼ25分後の11:38に鳴尾へ到着し、昼食代わりのサンドウィッチを食べて直ぐ11:45に4人一組でティオフ。コースは河口~海岸の低い位置にあるため、連日の雨で何処も彼処も水浸しになっていたので面を喰らう。
が、後続の外国人4人組が裸足で果敢にプレーを始めたのを見て、こちらとて朝から雨と汗で濡れているではないか。機動演習で川向こうの敵に攻めていく様なものだ。と気を取り直して攻めていくと、ショットにランが出ないのには困ったものの時間のメドや気持の余裕が出て来て、皆宝塚で崩れかかった当りを取り戻した。(中上川は自身が80台で纏められた事を記している)
18番のホールアウトが14:15、そこから茨木CCへ向かう為一同は14:25倶楽部を出発し大阪駅に向う。

 

 

駅には15:00着、茨木へ向かう列車が15:20発の為、待ち時間の間駅舎内のレストランでコーヒー休憩を摂った。列車に乗れば後の時間にも余裕があり安心の中15:44茨木駅着。
11分後には茨木CCに着き4人一組で16:05スタート、夕方の良い気候と慣れたコースで皆良い気分でプレーをし、調子もよい具合で進み、心配していた草臥れ果てるような疲れも出ず(筆者注=光明が足を攣ってしまった話が尊由の追悼記事に出ているが風聞の模様)、いい感じに力が抜けたのか松本や中上川は終盤平時よりも良いショットが出たくらいであった。終わったのは暗くなった19:48、
このプレーでの所要時間15時間8分、4人のスコアが報じられていないのが残念であるが、各時刻を詳細に記録した中上川に感謝したい。

と筆者が締めるにはまだ早い。このマラソンゴルフには続きがあり、プレー後一同はクラブハウスで一休みをし、20:59茨木発の列車で一同元気一杯に京都へ戻り、鴨川でこの様な事を出来る互いの体力を祝し晩餐に興じたのだが…その翌日、中上川の仕事終わりを見計らって光明と尊由がオフィスを訪ね
『どうだい疲れたかい?これから山科(京都CC)を廻る元気があるかい?』
とプレーの誘い。
“!?”となる中上川だが、(ここは引けぬぞ!)と一緒に繰り出しプレー。更に夕食後『まだ運動不足のようだから散歩をしよう』と誰となく言いだし、互いに意地を貫く形で三人は四条~二条間を闊歩した。という落ちまで付き、中上川は夏目漱石の『草枕』の一節
『智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ』
を挙げ『意地を通すのもなかなか草臥れる』と結んでいる。

昔のゴルファーの脚力は凄く強かった。という話を大先輩の研究者から伺っているが、このマラソンゴルフはそれだけではなく、大谷の変わった事をしてみよう。という心意気と、中上川の云う各位の意地が生んだ産物であり、初期ゴルフ界における思い切った出来事として永く語り継いで行きたい事柄である。


                              -了-

 

 

主な参考資料
・『Golf Dom』1928年9月号P18~20 Y. Nakamigawa(中上川勇五郎)『72 a Day西國四ケ所廻り 同行―大谷光明、大谷尊由、松本虎吉、中上川勇五郎』
・『Golf Dom』1939年9月号P23 丘人(伊藤長蔵)『尊由さんのゴルフを偲ぶ』
・『Golf(目黒書店)』1939年9月号P14~17『大谷尊由さんを悼む』
・『Golf(目黒書店)』1932年8月号P36 『緑蔭閑話 大谷光明氏訪問記』
・『Golf(目黒書店)』1932年9月号P14~17 大谷光明『ベランダにて』
・日本パブリックゴルフ協会 20年のあゆみ 1985
・東京ゴルフ俱楽部75年史 東京ゴルフ倶楽部 1991
日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994

資料はJGA資料室で閲覧および、筆者蔵書より

 


(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します)