ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート㉒ミステリー4『真相は心の中か意外な処か』(上)

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ゴルフ史を調べているとプロにせよアマチュアにせよ競技に関して結果のみが記され詳細がよく解っていない記録があるのは致し方ない事なのか。
そういったことを省いた記録リストとは別であるが、そのリストですら一時期のオーストラリアPGA選手権の様に最初期の記録すらわからなかった事案もあるのだ。

我が国の場合だと戦前のプロ競技は、日本プロや東西選手権以外の、企業や倶楽部主催あるいは東西のPGAが行った小規模競技等には、行われていたことすら忘れられているような物や(1927年度日本OP後東京GCで行われたラウンドロビン競技等)、優勝者が行われた事は覚えていても自分が勝った事を忘れてしまっているもの(1936年第一回全道=北海道プロ、優勝・井川栄造)などがある。
6~7年程そういったことに関するリストを纏めて居る身としては(一度国内戦前プロ・職業ゴルファーリストと共にJPGA等に送っている)、ゴルフ史の主要的流れから外れている物事は特にこう云った事が多いように感じる。
※上の件にしても現在も未見の人物や詳細の判らなかった試合の再発見や再確認があるので、今後は本流的資料だけでなくレファレンス資料や新聞資料の調査が特に必要になってくるであろう

しかし一国の名前が冠されたものでも残念ながら詳細不明のものが存在する。
1917年度日本Amがそれにあたり、優勝者のC.A・ローパーのスコアしか残っておらず、参加人数も彼らの順位も判っていない。ただ参加者の一人であった大谷光明が、大会は非常な濃霧の中で行われ、選手一同ロストボールに苦しみ、大谷自身もフェアウェイのボールを紛失してしまった事、ローパーのキャディと倶楽部が各選手につけたフォアキャディの連携が優れていた事を1936年時に『Golf(目黒書店)』で連載した『日本アマチュア選手権物語』で振り返っている位である。
(この年の記録はJGA百年史編纂の際にきちんと探すべきだろう)

今回触れるのはもう一つの詳細不明の記録、36Hストロークプレー時代最後の大会、1926年大会の一件である。
9月24日程ヶ谷CCで行われたこの大会は、名手川崎肇がアルフレッド・ラッゲ以降の三連覇(四勝目)を遂げるか、前年帰国してゴルフ界へ新風を巻き起こしている赤星六郎が優勝をするのか、あるいは彼の兄で努力人の四郎が四つ巴のプレーオフで敗れた24年大会の無念を晴らすか、はたまた東京GCや鳴尾GC・舞子CCの熱心者が抜きんでるか、注目がなされていた。

試合は2日前からの雨が止まずコースには霧が立ち込め、スコットランドのゴルフの様であり、またターフが湿っていることから、バックティから起伏の多いコースを攻略するには多くのキャリーを要する難しいコンディション下におかれていた。

始まってみると皆スコアメイクに苦しみ、3組目の川崎が79でベスト、ベテラン伊地知虎彦が80、また練習時に69のレコードを出していたことから74~75は簡単に出すであろうといわれたトップスタートの赤星六郎が81、兄の四郎も同じで3位、それに大谷光明が続いた。
 午後は六郎が80で上がり、川崎はアウトで6が二つ、15番のパー3で5を打った事が響き83で一打差で敗れる、伊地知も大谷も85・86と打ち長蛇を逸する。残る遅い組の四郎が前半で遅れたものの追い上げをして、最終ホール4で勝ち5でタイ。という中2打目がグリーン右のバンカーに入る。しかし浅くライも悪くないので果敢に旗を狙うも7~8ydオーバー、勝利を決めるロングパットは惜しくも入らず80で六郎とタイ、日本Am史上初の兄弟でのプレーオフが決まった。
競技は日程の関係で10月15乃至16日に行われる。事が報じられているのであるが、ここまで読まれて『何だい、詳細があるではないか』と思われるであろう。事実『Golf Dom』1926年9月号P7掲載の大会記事からここに概要を記した。が問題はここからである。

プレーオフについて10月号(この当時は現在の様に1か月早くではなく、同月末に発行されていた)を見ても何も情報がなく、後年の各資料にはただ四郎が優勝した事のみが記されている。
なんでも六郎が棄権をしたそうで『Golf Dom』1927年1月号の巻頭記事『1926年のGolfを顧て』内に『~重大イベントとしてはジャパンアマチュアチャンピオンシップであるが之は赤星四郎氏が令弟六郎氏とタイして、そのプレーオフは非常な興味を以て期待されて居たにも拘らず六郎氏は病気の為に棄権した。(P4より英文訳及び現代仮名・漢字に変換)』
と書かれており、先の大谷の『日本アマチュア選手権物語』でも初めて程ヶ谷が会場になったことと四郎が優勝したこと以外は何も触れていない。

この扱いから、『実は六郎が兄弟で闘うことを憚り、四郎に勝ちを譲るために棄権をしたのでは』という説が現在までまことしやかに囁かれている。
これにはそう観られる理由があるのだ

彼らの母が家訓として兄弟で骨肉の争いをしないように。と述べていた話があり(大富豪として知られた父親赤星弥之助は彼らが幼い時に亡くなり、一回り以上年上の長兄鉄馬が父親代わりであった)。また、六郎自身も非常に親孝行な性格であった事を姪の隅田光子氏(四郎の次女)が回想している。
加えて、六郎が留学中同窓であった三島通隆(最初のオリンピック参加者三島弥彦の甥)が六郎に関するインタビューの中で
『あとでその話を聞きましてね、さもありなん、と思わず膝を叩きましたよ。そういうやつなんです、六郎は。まあ、そんな場合に兄弟あい争わないのが美風とされる時代でもありましたが(原文ママ、上前淳一郎『はるかなるフェアウェイ―日米ゴルフ物語―』より)』
と述べてもいることから、この件は六郎が母の教えを守っていたこと、また、彼が勝負にこだわらない恬淡とした性格であった。という面を表しているという見方もされている。

が、しかし。1931~40年にかけて雑誌『Golf(目黒書店)』で四郎六郎に顧問に就いて貰い。記者編集者として両名と公私で近しかった小笠原勇八(後JGA事務局長)は、この説を1979~87年に週刊パーゴルフで長期連載をした『真相日本のゴルフ史』上で
『口がさない人たちは、弟が兄に優勝をゆずったなどとささやいたが、公式選手権にそのようなことは兄弟といえどもあり得ない。この大会二年後、兄弟が再び準決勝で対戦、弟六郎が勝っているのがそのいい証明といえよう。(原文ママ、1982年11月2日号より)』と真っ向から否定している。

 というのも『Golf』誌上で六郎はゴルフのプレーに関して、スコアにこだわらず技術精錬の果てに在る本当のショットの風雅を愉しむ論と共に、全力をもって闘い『言い訳や弁明は他の競技者に対して最も無礼なことであるから死んでも言ってはならない』と若手や競技を目指す者たちへ言葉として度々発しているのだ。

また、リアルタイムにしても、そのような事があったら『Golf Dom』の社長である伊藤長蔵や彼と並ぶゴルフ博士西村貫一、あるいは大谷光明(JGA創立からの役員であり、大会後の総会でチェアマンに選ばれたという)、中上川勇五郎をはじめとする当時の識者たちが
『年長の兄に勝ちを譲る。これは如何にも日本的な美風であろう。しかしゴルフはスポーツであり、その考えはスポーツマンシップをはき違えており、全力を賭して闘った他の競技者達を愚弄するものではないか』
という批判を同誌に投じ論争になっていたであろうし、何より三位になった純然なるスポーツマンであり、筋の通らないことは許さない。という水戸ッポを自認する硬骨漢、川崎肇が絶対に黙ってはいないであろう。

赤星兄弟による日本Amプレーオフの日程が判らない事について、今回、JGAで今までとらせて頂いた複写史料(よくよく考えるとコロナ問題で今年は流行前に1~2回しか伺っていない…)を調べていたら『もしかすると』と思える出来事と結びついた。それは彼ら兄弟がこの年海外遠征をした記録である。
                           -続-

 

 

 

 


主な参考資料

・『Golf Dom』1924年6月号P14~17 上海 安藤生(安藤博三)『上海通信』
・『Golf Dom』1924年11月号P20~24『上海通信』より『Amateur Championship of China』
・『Golf Dom』1926年6月号P25『上海通信』
・『Golf Dom』1926年9月号P7 『Japan Amateur Championship』、P23 『茨木通信』P27『上海通信』
・『Golf Dom』1926年10月号 P15 『China Amateur Championship』、P26~27『茨木通信』・『駒澤通信』
・『Golf Dom』1926年11月号 P26『六甲通信』
・『Golf Dom』1927年1月号『1926年のGolfを顧て』
・『週刊パーゴルフ』1980年5月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史⑮』
・『週刊パーゴルフ』1982年11月2日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史Part2-24日本アマチュア選手権編』
・はるかなるフェアウェイ―日米ゴルフ物語― 上前淳一郎 角川文庫 1985
・55年の歩み 日本ゴルフ協会 1979 より 大谷光明 『日本アマチュア選手権物語』
※この項は『Golf(目黒書店)』1936年1~3月号連載の同名記事から転載
日本ゴルフ協会70年史 日本ゴルフ協会 1994
・赤星六郎アーカイブス 我孫子ゴルフ倶楽部編集 2009
※同書は赤堀六郎と彼が設計した我孫子GCについての戦前ゴルフ雑誌の記事を年度順に抜粋し、関係者提供の写真を掲載したオムニバス本
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 復刻第二版 1995
・人間グリーンⅥ 大屋政子・小笠原勇八 光風社書店 1978
※同書は夕刊フジ掲載のリレー型エッセイ『人間グリーン』から各人の連載を印刷した書籍
・日本より支那へ 後藤朝太郎 日本郵船営業部船客課 1924
・我社各航路ノ沿革 貨物課 編集 日本郵船株式会社貨物課 1932
日本郵船株式会社五十年史 日本郵船 1935

資料はJGA本部資料室、国立国会図書館(デジタルコレクション)で閲覧・複写および、筆者蔵書より

 

(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)。