ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート㉑『ミステリー3 幻の国産ボール第一号』

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前回、虎屋のゴルフボール最中の話で大正~昭和初期のゴルファーたちが国産ゴルフボールの登場を待ち続けていた事に触れたが、今回は国内ゴルフボール製造の起源についての書き物だ。
本年6月に週刊ゴルフダイジェストでえなりかずき氏が連載コラム『ゴルフの教養』でこの題材を書かれていたのは記憶に新しい。

正史では1931~32年間に数社~岡山の三井造船電気技師前田英一や日三商会の兒玉貞雄が独自に研究を行い(直後協力)、東京浅草の谷工業が新田恭一(日本Am勝者)の勧めで試作を始め、ブリジストンも着目し技師を英国に派遣しており、再生ボールではアメリカ帰りで銀座に室内練習場を持っていた上田軍一が行い(一旦休止の後1936年に製造に移る)。また同じ業務をしていた東京ゴム工業も製造に向けて動き出した。これが国産ゴルフボール製造の胎動とされている。

※1927乃至29年に先述の前田がボールを造る為に研究を始めた話が海外のボール史の本にあり、また1930年にダンロップが国産ボールの製造を成し遂げた。と住友ゴムの年史に記録されているが、リアルタイムのゴルフ雑誌では殆ど触れられず、前者は1932年秋頃試作が始まった事、後者は1936年に広野GCの柏木健一が試合で使った話や、翌年市場に出た記録が残っている(『新興~』では目下しきりに研究とある)。
この様な記述は他の用具でもあるのだが、どういった事なのであろうか…???

製造機械の開発や特許を取るなど、各社数年の苦闘の末1933~34年頃には先の面々、東京ゴム工業(後日本ゴルフボールマニュファクトリー→日本精工所、代理店を請け負っていた英国のローマックボール製造社と1934年春に日英相互代理店制を創始)や、谷工業(後東京製球合資会社→東京ボール製作所、最初は美津濃等に卸し、自社はサンタニーブランドで販売)、前田と日三商会が提携製造したファーイースト(後年カマタリの買収でキャスコになる)等の国産ボールが巷に現れ、また、同時にゴルフ雑誌に製造の論文や紹介記事が度々掲載され、海外への輸出も盛んに始まり、性能の向上と共に国内シェアが拡大し、1937年頃には10社程がボール製造をしている。(リカバー会社や自社向け発注品販売の会社は除く)

以上のようにゴルフボールの研究と開発は昭和に入ってから始まっているのだが、大正期に開発をしていた人物がいたと云う記述が残っている。
これは戦後に発行された廉価版ゴルフ雑誌『近代ゴルフ』1961年6月号に記載された、戦前玉澤商店(当時の日本スポーツ店の大手)ゴルフ部長、戦後銀座ゴルフ商会の取締販売部長を務めた吉田武雄による国内ゴルフ用品の製造販売史に関する回想コラムにおいてで、開発に携わったのは彼の兄吉田昇平であったという。

それによると1922年に横浜根岸のゴルフ場、日本レース倶楽部GAから某ゴム会社(注=社名不詳)に石油缶二~三杯の切腹ボールが持ち込まれ、修理の依頼があった。
俱楽部側としてはゴム会社に頼めばきっと問題が解決するだろう。と思った様なのだが、会社としては全く未見の品物であったので、一同どうすべきか困り果ててしまった。
そんな中、同社の技師であった吉田はカバー材がガッタパーチャである事を見抜き、これが完全に作れるようになればゴム会社として世界的なモノに成れる。とゴルフボールの研究と試作に取り掛かった。

この際に彼がとった製法は、外国からボールに適したホワイトガッタパーチャを取り寄せカバー材とし、内部にはリスリン(グリセリンの事)と亜鉛華(=酸化亜鉛、軟膏等薬剤や顔料に使われる)の混合物を充填した風船をコアとし、ワインディングマシーンが無いので手巻きでゴム糸を巻き、繭型に切ったカバーを餅の様に金網で炙り、柔かくなったら野球のボールの様にコアを包み、針で空気を抜いてからモールド(メッシュカバー)でプレスをする。という原始的な方法であったが、うまくボールの形となった。

このまま改良が進めばゴルフボール最中にゴルファー各位が騙されるような事もなかったであろうが、残念なことに試作品が完成した頃に関東大震災が起きてしまい、開発を中断せざるを得なくなった。
地震から数年後、弟の武雄が大学(早稲田)の水泳部の先輩石井京造が働いている湯島のスポーツショップ、イシイカジマヤ(日本を代表するスポーツ店で1925年からマグレガー東洋総代理店であった)を訪ね、彼と歓談をしている際に、店内にクラブが有る事からふと自分の兄がボールを創っていた話をした所興味を持たれ、石井の兄でイシイカジマヤ二代目社長石井順一(野球とゴルフで活躍、戦後は王貞治のバットを手掛けた)を昇平に紹介する事になった。

そして面会した吉田昇平・石井準一両名は相談の結果共同で埼玉の浦和に360坪の土地を購入し、工場を造ってボールと用具の製造開発に取り掛かり、1936年ごろ舶来ボールがダース19円位の中ダース8円の『愛国ボール』を発売し、外貨節約に大いに役立ち、その功績から時の商工大臣・内務大臣から激励文と表彰状が送られ、それを記念して造った真鍮の金火鉢が吉田家に残っている。という話で締められている。

 関係者に最も近しい者の回想なので信用すべき事なのだろうが、この話を『ミステリー』としたのには理由があるのだ。
同時代の『Golf Dom』や『Golf(目黒書店)』に掲載されたイシイカジマヤの広告を見ても(ほかのメーカーでは国産ボールが出たらすぐに紹介しているのに対し)このボールは出てこない、。筆者が確認できたのは、日中戦争以降ゴルフ用品の輸入が禁止され、ゴルフボールも製造統制を受け、JGAと大手5社による配給制が行われて以降の1940年の広告(KGUの『Golfing』)にシルバースコット・スーパーフライトというモデル(ダース14円)が掲載されている位なのだ。

尤も筆者は吉田武雄の云う時期の同社の総カタログを見たわけではないので、販売されていた可能性は否定できない、また吉田は国内のゴルフ用具製造史を側面から見ており、『近代ゴルフ』誌上で正史に出てこない省かれた史話を記しているので一定の信用性はあるのだが。その一方で件のボールの共同開発者である石井順一が1936年に刊行された『東京運動具製造販売業組合史』の座談会で、座長の『石井さんの方はゴルフボールを大分御研究になったやうですが……。(原文ママ)』という問いに

『それも震災直後でございますけれども、研究所におりました、—今は故人になって居ります吉田といふ人が居りましたが、それが完成しない中に故人となつてしまつた爲に、殆ど中絶といふやうな形になつて居ります。その當時、拵へて特許になつたものは、今現品が殘つて居ります。(原文ママ)』
 という旨を語っている事は何が事実なのか揺らぎが出てくる。

ここから筆者は石井の云う特許について、特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)のデータベースで調べたところ、文献番号実公昭07-002463、出願番号実願昭05-027736の番号で、昭和7年の実用新案出願公告第二四六三號の第百十五類十二、毬の項目として、石井と吉田の共同考案・出願で(代理人として弁理士の丸山忠明なる人物も連名している)、
「金属粉をコアに充填し、そのコアをゴムテープで巻き、その上へゴム糸を疎に巻き、更にもう一度ゴムテープとゴム糸を同じように巻き、ガッタパーチャでカバーをするという、糸ゴムの巻き方で空気を取り込む隙間を作り反発力を高め(内層)、カバーに組込ませ密着させる(外層)6層構造のボール製造法と図面」を見つけることができた。

出願は昭和4年12月14日、願書番号は昭和5年第27736號、公告が2年3か月後の昭和7年3月1日なので、両人が地震から数年後に一緒に研究をしていた事はこれで証明されたが、石井の云う1936年時に吉田昇平の死により開発が中断状況になっている件は吉田武雄の回想とズレが生じている。しかし先述の事情から吉田のあからさまな記憶および記録改変ということは考えにくい。考えられるのは、

1・実用新案を獲りサンプルを作った際(恐らく博覧会等)に各大臣から賞状が贈られ激励された。
2・『東京運動具製造販売業組合史』の座談会(6/17)後に改めて製造に乗り出した。
3・吉田武雄の云う年代に製造されたが海外に輸出するためのボールで国内には殆ど回らなかった。
4・1937年の8割関税~ゴルフ用具輸入禁止以後に国内需要のため製造に乗り出した。

といったところで、この中のどれか乃至複合と吉田の微妙な記憶違いが混在しているのではないかと考察するが(1,2が有力だと思う)、まだ断言できるものではない。
この件についてはミステリーでは無くなる様な新資料が出てきてくれる日を望むとともに、筆者の文章が国内ゴルフ用品製造史研究の叩き台になってくれれば幸いである。


                           -了―
                          2020年9月1日記


主な参考資料
・『Golf Dom』1922.11~1942年分
・『Golf(目黒書店)』1933~37,39~40年分
・『Golf(目黒書店)』1937年2~3月号 『国産クラブとボールの座談会(上下)』
・『Golfing』1940年1月号、5~6月号
・東京運動具製造販売業組合史 東京運動具製造販売業編 東京運動具製造販売業1936
・新興商品知識製造から販売者まで 時事新報経済編集部編 指導社 1936
・『近代ゴルフ』1961年6月~7月号 吉田武雄 『ゴルフの一生』より『国産ボール第一号』
・500 years of golf ball   John F. Hotchkiss  1997
ダンロップボールパーフェクトガイドVol.1~2 1997,1998  ダンロップスポーツ株式会社 

※資料はJGA本部資料室、国立国会図書館で閲覧および、筆者蔵書
掲載写真は筆者所蔵『Golfing』1940年1月号より

参考サイト
・特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)より特許・実用新案文献表示から文中の資料閲覧

※追記※
えなり氏が参考資料として使われた『新興商品知識製造から販売まで』は、国会図書館に蔵書があるが、昨年頃パブリックドメインとして同図書館HPのデジタルコレクションからお持ちの端末でもコピーが取れるようになったのでご興味を持たれた方は是非ご覧を。(6年以上前来館し複写をした身としては扱い易くなったと思う)
また、この本に限らず国会図書館のインターネット配信や、全国図書館配信のデータにも貴重な資料があるので各位活用されてほしい。


(この記事の著作権は全て松村信吾に所属します。)