ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『虎屋狂騒曲』

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現在では余り想像がつかないが、近代までゴルフボールというものは可也高額であった。
フェザリー時代は勿論のこと、ガッティ(メッシュ付き金型が出来る1890年代頃まで一個ずつ薄刃ハンマーで300個前後の刻み目を入れていた)、そして糸巻き(工程からガッティの倍の値が付いた)も非常に高額で一個売りがされており、1910年代に近代的な大量生産が確立されてなお、高級ボール1ダースが中等品のウッドクラブ2~3本と同じ値段であり、この為リペイントボールやリカバーボールが普通に出回っていた。
これは、ボール生産国の米英の事情であり、糸巻きボール以降製造設備のない新世界では更に高額になり、1906年頃のメキシコではスポルディングのボールがアメリカの3倍位の値がついていた話を筆者はリアルタイムの記事で読んだことがある。

 わが国ではどうであったのかというと、横屋GA、鳴尾GA創立者のW.J・ロビンソンの回想では最初期の頃スポルディングの糸巻きボールがダース12円で無税、日本Am勝者川崎肇の回想では1914年に東京GCが開場した頃でリペイントボールが1円位であったといい、1916年時に雑誌『Bunker』に紹介された英字新聞の雲仙探訪記には1ドルのニューボール。との記述がある。
※当時の為替では1ドルが大体2円なので川崎が購入していたリペイント品の値段は妥当なのだろう

きちんとした記録では、1922年9月の三越のカタログでは練習ボールも含めて一個一律3.50円で売られており、同年11月に程ヶ谷CCの委員会で決定した、俱楽部内販売ボール(米国製)の価格や『Golf Dom』1923年3月号に掲載されたゴルフ用品取扱店MARIYA(毬屋運動具店?)のボール広告(英国製)における価格表を見ると、ダース当り最高26円、最低13円、10モデル平均20円10銭と、三越よりはずっと安いが結構な高値である。
(程ヶ谷CCの20年史には開場当時のラフの酷さについての中で、会員達が一個7~8円する輸入ボールを大量にロスト一日数十円、一月百円の損失をしていた話が出てくる‼)

これは為替のほか関税も関わっているが、更に困ったことに関東大震災以降、復興における輸入品への課税でゴルフ用品は奢侈品とみなされ、十割の関税が掛ってしまった。
個人が外国に行って買い付ける場合だと、自身が使う分。という名目で数ダースまでは無税という抜け道があったそうだが、クラブはまだしも、消耗品のボールがこれではゴルフがますます一般大衆から離れていく為、当時のゴルフ界でこの関税問題は一大問題として『Golf Dom』上でも大いに議論された。(※28年に二割五分へ引き下げで一段落つく)

そのような状況であったので再生ボールはいい値段で売れ、また新品のボール1個と舶来の猟銃を交換したという様な喜悲劇的話も歴史に刻まれている。
1920~30年代前半にかけてゴルファー各位にはボールが安く入手できないかという願いが潜在的にあり、国産ボールの登場を待っていた。以下はその様な中で起きた騒動で、『Golf Dom』1926年9月号に掲載された話である。

(※1円の目安としては価値の換算は数通りあるが、物価価値で見出だすと、
・明治末頃:1万~1万3千円前後
・大正時代初~中期:6千~8千円位
・大正時代後期:5千~6千円
・昭和一桁:2千~3千円
位になるか

またボールが1個1~2円の時代、2~3円の時代、4~5円以上の時代のサンプルとして3人のプロゴルファーの若き日のお給料を取り上げてみる

福井覚治がゴルフの仕事を始めた少年期(1904~10頃?の給料が11円で、当時の巡査の月給8円と比べ良かったと回想する一方、1913~15年頃の苦闘時代で13~15円。

安田幸吉が1919年に東京GCのキャデイマスターに成った際が月給20円25銭。これは14歳の子供には破格だったと回想。

宮本留吉が広岡久右衛門の別荘番時(1923~24)の月給が35円、1925年に茨木CCへ雇用で大卒(今と違ってエリートに分類)初任給が40円に対し50円、同年結婚し70円に成ったと回想。

これを考えると年齢・履歴に対比して実入りが良かったという彼等でさえ、ボール1ダースは到底購入出来る値では無いという事がお分かり頂けるであろうか。)


1926年の夏のある日、関西の熱心なゴルファーA氏(原文に署名がないので便宜上こうする。筆調から伊藤長蔵やもしれない)の所へ六甲に行く途中の松本虎吉(松方正義の息子、国内初の邦文ルールブック刊行)が立ち寄り、一つの包みを置いて行った。表包みを開けてみると1ダース分のボールの模様。どうして呉れたのか?と手に取ってみると妙に軽い。よくよく表を見ると『ゴルフ最中』とあり、お菓子?と箱を開けて見るとゴルフボールによく似せて作られた最中であった。
嬉しさよりも先に、わざわざ持って来てくれた松本の心根に微笑するA氏。しかし、この最中が関西ゴルフ界で騒動を起こしていたことを知ることになる

翌日A氏は用事で知人の山口氏(舞子CC・甲南GC会員の山口謙四郎か)宅に出かけた。話し込んでいると同家の女中さんが包みを持ってきて、『お使いの方が来られてこれを持ってきました』と渡す。
山口氏は話に夢中で注意を示さないので、A氏が“山口君、これはゴルフのお菓子ではないかしら?”と云い、山口が開けると、件の最中に原田六郎(原田汽船及び日立造船所社長、日本Am勝者原田盛治の父で、自邸に私設コースを造る程の熱心者であった)の署名で『国産ゴルフボール御目にかけますご使用下さい』と記された名刺が入っていた。
 お使いの人に事情を訊かず帰した事を後悔していたら、その翌日今度はA氏宅に店の小僧さんが例の包みを持って『原田さんからのお使いが見えまして』と置きに来た。
『先生あちこちに配っているな』と可笑しくなってきたが、事態はさらに広まっていく。

その2~3日後A氏は神戸のオリエンタルホテルで東京からやってきた伊地知虎彦(邦人ゴルフのパイオニア、日本Am2位)と面会をしていたのだが、伊地知が『君にボールを持ってきたよ』と何時になく優しいことを言うので、ハハーンアレだな、と直感し、彼が使いの人から新聞包みを受け取った所ですかさず“最中だね”と言うと驚かれ、続けて“無駄だよ騙されないよ”と畳みかけると『せっかく持ってきたんだが…』とすっかりショゲかえってしまった
気の毒になってここ数日の経緯を話すと、『自分の所も原田が起こりなのだ』と説明を始めた。

それによると、彼の家に原田夫人がボールらしい物を持ってきてくれたので、先日コーチをしたお礼かな、と喜んで夕食後開けるとお菓子。一杯食わされたぞ。とその品を仙谷氏(筆者注=夫人の実家らしいのだが確認が取れなかった)宅に持っていくことにして、1ダースを夫人の妹にお土産で置いて行った。しかし返事がないので、伊地知夫人が尋ねると知らないという。調べると父親がボールならば自分が使うと書斎に仕舞っていた事が判明。
妹は私が貰ったものなのだから。と取り返して開けると件の品、彼女は父親に軽いボールですよ。と持っていくと『練習にちょうどいい』と受け取り握ったら、ぐしゃりと潰れて飛び出す餡子。大好きなボールが大嫌いな甘味で在った彼の心中たるや…そんなドタバタがあり、伊地知が『だれに残りを贈るか』と思案中に旅行が決まり、夫人の『いつもゴルフの事ばかり考えていらっしゃるA氏に差し上げると良いのでは』との意見で持ってきたのだという。

最中の処理について伊地知は『これが何か知っている君に上げるわけにもいかない』と三井の大石氏(注=氏名確認できず)に贈ることにした(こうして被害者は増えてゆく…)

 

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伊地知とのやり取りからA氏、“この調子ならば随分と被害者がいるぞ”と六甲に出かけ、滞在中の原田にお礼がてら状況を尋ねると、本当にあちこちに配って騒動が巻き起こっており。A氏は原田の許に届いた礼状や返信を見せてもらったが、その一部として以下の話が紹介されている。

津田某(京都CC創立会員の津田幸二郎か)の所には彼の外出中にオフィスに届いた為、戻って来た時には社員達が“国産ボールが出来るか否か”の議論のさなかであった。
津田氏ゴルフについて“知らない”と言う事を好まないので、『そうだとも日本でもついにボールが出来るようになったんだよ』一同に見せようと包みを開いたら件の如しで赤っ恥を掻いてしまい。原田への礼状で
『あらお菓子 夏の最中に喰はされて 原田チ心 とてもたまらん。』と歌を詠んでいる

一方実業家で教育者の平生釟三郎は原田に
“思いがけず国産ボールをいただき深謝いたします。練習を始めながら諸事情で妨げられていましたが、追々9月初めから真面目に練習をしたいと思っていますのでその際は早速ご芳志を使いたいと思います”
という内容の丁寧な礼状を送ったため。原田は“バレたらどうしよう”とその時が来るのが心配の種になってしまったという。

A氏が原田にこの様な騒動を起こした事について尋ねてみると、曰く、東海道線の車中で森村市左衛門(実業家、後JGA会長)からこんなお菓子があるよ。と貰った処から皆に贈って反応を確かめる事を思いついたらしい。
では誰がこのお菓子を思いついたのか、発端の原田が製造元の虎屋(現とらや)の黒川家に問い合わせてみたところ、返書には

この年の三月頃永坂の岩崎氏からゴルフボールを貸し出され、これで何かお菓子を作ってくれと依頼があり、打ち物(米粉の押し菓子)や蒸し物(羊羹類)の型を作ってみたが想定の日に間に合わずそのままになってしまった。
型の製造が難しく、かつ先に出来上がった型でお菓子を作るのが簡単にはいかないので、最中にしてみる事を思い付いたのです。

と書かれていた。

裏付けとして、とらやのホームページ内の『菓子資料室虎屋文庫』掲載のゴルフボール最中の由来記事と、歴史の項目でPDF閲覧ができる『虎屋の五世紀 通史編』には、三菱幹部達のパーティで来客を驚かす工夫として同財閥総帥の岩崎小弥太の妻、孝子夫人の依頼でゴルフボール形のお菓子を作ったとある。
(この件は小岩井農牧社長で湘南CC発起人であった赤星平馬が同倶楽部会報に掲載した回想が一次資料として使われている)

また『虎屋の五世紀』には、1934年3月に最中の名前を『ホールインワン』と改名した際の栞に、15代当主黒川武雄が開発の顛末として、原田への返信にあるように、1926年3月頃に依頼があり、押し菓子と練切でやってみたが、型作りに難儀して最初の注文に間に合わず、二回目の注文の際もお菓子の制作に手間がかかり、後に(3回目以降らしく4月末の事)製作が簡単な最中を思いついて型作りに取り掛かり、ようやく5月初めに完成し、岩崎に数度用命を受けた後販売を開始した事が書かれている。
(以上はP121~122『ゴルフ最中の誕生』より)

これを考えると発売直後に原田が彼方此方のゴルファーに配っていたようである。また黒川の回想では社内外からこの最中を作ることに反発が結構有ったそうで、箱も派手にならないように図案をしたという。
同サイトに掲載されている1926~32年頃にかけて使用された梱包箱は、ゴルフボールの箱そのままの造りで、紺地に黄色い縁取りをした箱に虎屋の屋号印と共に当時一般的であったメッシュカバー(四角型ディンプル)のボールの写真が装飾され、『TORAYA KUROKAWA Golf Ball』と刻印されている。このデザインならば、騙された者が続出したのは無理もない。
※1931~34年、1934~戦前期の箱も当時出回っていたゴルフボールの箱そのままの造りであるので、気になる方はとらやホームページでご確認を。

虎屋が原田へ送った手紙の続きを引用しよう

『虎屋は御承知の如く極く古い純日本菓子屋でありますので最もハイカラなゴルフになぞらへてゴルフ最中などをこしらへるのは矛盾し、ふさわしからぬ樣でございますが此のゴルフ最中の發賣は古來傳つた日本菓子を何時迄も何時迄も其時代々々に適應せしめんとする努力の一端にすぎないのでございます、高尙で面白いゴルフが益々日本に盛んになると共に虎屋のゴルフ最中も益々御用命あらんことを御願ひいたします次第でございます。(原文ママ)』

お客を愉しませようとした岩崎家の茶目っ気と、伝統の中に新しいものを取り入れようとした虎屋の奮闘によって生まれた珍菓であり、A氏は『ゴルフのことと云えば子供のように嬉しがるゴルファーのクレイジーさは可笑しなものである(現代仮名および、一部漢字変換)』と結んでいる。
また、1章の冒頭で説明した事情も加わっていることを加味して頂ければ、ゴルファー諸氏がこの最中に振り回された理由もお解り頂けるだろうか。

さて、この文章を書くにあたり、筆者は前々から気になっていた(『Golf Dom』の記事自体は2010年代前後に見て、コピーを取らせてもらっていた)ゴルフボール最中を入手してみる事にした。
このお菓子は販売しているとらやの店舗・テナントが限られているので、(当初は販売している所のそばに外出する予定があったので、途中立寄り購入する予定だったが、諸事情で叶わなかった)2個入りの物を近隣のデパートのテナントで二箱注文した(3箱半ダースの包みがあったがとりあえずこちらに)。

2日に分けてこの最中を2と3分の1個食べた感想をちょっと挙げてみよう。(注=残りは家族が食べた事を念のため記す)
まず、箱はリンクスコースでパットのラインを読むニッカーズ姿のゴルファーとそれを見守る同伴競技者、旗を持つキャディのイラストが描かれ、ボールの箱のように天井部からではなく、ゴルファーの絵が描かれた正面から開く作りになっている。

最中の大きさは現在のディンプル型1.68-1.62サイズのボールとほぼ同じで重さは34g(パッケージ表記より)二か所に虎屋の屋号が捺されている。
文中に出てきたように本当のボールに比べれば軽いが、皮の見た目・質感からバランスが取れているようにも感じる。普通最中は皮を合わせていても剥がすことができるが、この最中は皮を合わせた際に熱を加える等をして接着をしている様だ。

齧るないし切ってみると皮の厚さは2mmを切るくらいで、細かい気泡が沢山入って居るゆえか色同様軽い味で、中は水分を飛ばし良く練り上げたこし餡。甘味は強いが後に強く残る感じではない。一口食べた後に香り高いお茶を飲むと良いお菓子だと感じた。

これは欠点なのか否かは食べられる方次第だが、ボールの大きさそのままなので一遍にむしゃむしゃ食べると上等な餡子の物量に口や舌が負けてしまうやもしれない。
(これはおそらく大福や大判焼き等駄菓子系の餡子に慣れている筆者故やもしれないが)

切り分ける場合は皮の合わせ目からよく切れるナイフ乃至包丁を使うことをお勧めする。
また一遍に何個もむしゃむしゃ食べるのではなく(そもそも上等な和菓子はいっぺんに何個も食べるものではないことは筆者も解ってはいるのだが)、切り分けた物をゆっくりお茶と共に楽しむお菓子であると思う。

94年の歴史を誇り、当時これだけゴルフ界を騒がしたお菓子ながら、現在のゴルフ界では殆ど膾炙されないのは不思議である。(もしかすると購買層の問題であり、戦前から在るゴルフ倶楽部の会員さん達はよく知っているやもしれない)

筆者としてはゴルフによって生み出されたお菓子であることから、世のゴルファー諸兄にお菓子の存在とそれが生んだ話を知って頂くと共に、ゴルフ界のイベントにおける賞品として、もっと取り入れられたら面白いと思っている。
読者の中にこの最中に興味を持たれ、購入ご賞味される方が出られたら幸いである。

                             ―了―

                           2020年8月11日記

主な参考資料
・程ヶ谷二十年 程ヶ谷カントリー倶楽部 1942
銭函五拾年 小樽カントリー倶楽部 1979年
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松社 1995 復刻第二版
・日本ゴルフ全集4日本ゴルフコース発展史(2) 井上勝純 三集出版 1994
・Golf in The Making(補稿第二版)Ian Henderson. David Stirk 1986
三越 12号9巻(1922年9月号) 三越
・『Golf Dom』1926年8月号P24~25 『國産 Golf Ball―諸名士一杯喰さる、但し喰って害なき虎屋の最中』
・『Golf Dom』1930年8月号 『ゴルフ座談会の記(2)』

以下、とらやホームページより閲覧資料
・とらやを巡る小さなお話 より 『ゴルフ最中』
・虎屋菓子資料室・虎屋文庫 『歴史上の人物と和菓子』より2003年4月16日付『岩崎小弥太とゴルフ最中』
・虎屋菓子資料室・虎屋文庫 『ゴルフ最中のパッケージ大正15(1926)~戦前』
・『虎屋の五世紀~伝統と革新の経営~ 通史編』 株式会社虎屋 社史編纂委員会 2003 PDFより 『第二部近代社会と虎屋 第二章大正時代の虎屋』

 

 

(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)