ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート⑭『カーヌスティと日本のプロゴルフ』

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スコットランド港湾都市ダンディーの近郊にあるゴルフリンクス、カーヌスティ。

全英OPの会場として有名であるが、ゴルフにおいてもう一つの注目すべき点があった。

それは、19世紀末~20世紀初頭にこの場所から世界各国へ沢山の職業ゴルファーやアマチュアプレーヤーが旅立っているのだ。

 

 トム・モリスの甥ジャックのアシスタントとしてイングランドのホイレークに同行し、更にカナダへと渡ったアメリカ大陸最初のプロ、ウィリー・デイヴィスを皮切りに、有名どころでは兄弟でアメリカの大トーナメントをことごとく制したアレックス・スミスとその弟たち。

アレックスの義弟でボビー・ジョーンズの先生として知られるスチュアート・メイデンと兄で1900~20年代に活躍しUSPGAの創立役員を務めたジムや、彼らのライバルであったジョージ・ロウSr.(息子があのパターのジョウージ・ロウ)

 ダンディーの生まれで少年~青年期をカーヌスティで過ごし、イングランドでトップアマチュアとして活躍したロバート・ハリス

オーストラリアプロゴルフの父カーネギー・クラーク、友人で同国のアマチュアOP、プロの三選手権を制したダン・ソーター、南アで活躍し後に渡米したジョージ・フォザーリンガムなどがいる。

これはほんの一部で、250~300人余りのプレーヤーが新天地へと旅立っており、彼らは移住先の国の大小トーナメントに勝つだけでなく、コース設計、クラブの製造、そしてレッスンでその国のゴルフの底上げに貢献し、PGA創立にも関わっている。

 

また、ボビー・ジョーンズ、アレクサ・スターリングらイーストレイクの子供たちやジェリート・ラヴァース、グレナ・コレット、レオ・ディーゲル、オーリン・デュートラ、クレイグ・ウッド、ジョー・カークウッドらを始めとする1900~30年代の少なからぬ数の各国のホームブレッドチャンピオン達がカーヌスティゴルファーから教わる乃至彼らの下で働いていた事は注目されるべきだろう。

 

カーヌスティは距離の長いコースであったので、地元のゴルファー達の間に距離を出すため身体をよく廻すフラットでユッタリとしたスウィングが定着しており、それを身に付けた移民ゴルファー達によってこのフォームカーヌスティスウィングが世界各国に広まり、それを受け継いだボビー・ジョーンズの活躍によって技術論としても一時代が築かれている。

 

そんなカーヌスティのゴルファーはアマチュアではあるが日本にも来ていた記録が残っている。

最初に記録に出てくる者として、9H時代の神戸GCの会員で、のちに横浜根岸のNRCGA代表として第一回インターポートマッチに出場したW.H・フェリアーというフォームの良いゴルファーがいた。

フェリアー姓のゴルファーは1900~20年代前半にかけて上海やオーストラリアで活動をしており、彼はその縁者とみられる

1937年度全英OPの際に発行されたカーヌスティについての冊子によると、同地のゴルファーは中国にも行っている記述が有るので辻褄はつく、また1930~60年代にかけて活躍した

オーストラリアのジム・フェリアーもカーヌスティ移民の孫だそうなので日本や上海の面々の縁者かもしれない)

 

彼は特に日本のゴルファーに影響を与えた話は出てこないが(そもそも当時は日本人プレーヤーは数人レベルであった)、彼の活動より数年後の1910年代に入るともう一人図抜けたカーヌスティ仕込みのゴルファーが日本にやってきた。

その人物はA.T・ホワイトといい、神戸GC会員であり、登山とゴルフの書籍『INKA』第五巻の中で、カーヌスティでハンディ+2であったと紹介されている。

(同書第三巻でも無記名だが『カーヌスティでハンディ+2の御仁』として出てくる)

 

ホワイトは謎の多いプレーヤーで1912年に神戸GCに入会し活動していたが、第一次大戦期に一度離日してSt.アンドリュースで活動したのち1920年代前半に関東に再来日、その後人知れず離日しアメリカでプロに成ったそうだが、詳しいプロフィールがない。

(異説として宮本留吉は彼を香港の人で定期的に来日していたと回想)

 

彼と面識のあった大谷光明(日本Am勝者、ルールの権威)がいくつか書き残しているが、長身で大きなスウィングのロングヒッターで、六甲のコースのエクレクティックスコア(各ホールのベストスコアでの合計)が36であったといい、内ホールインワン2つあった。

その他の記録を見ると神戸GC、鳴尾GAでプラスハンディであり、東京GC、軽井沢GCコースレコードを出す、1910年代前半に上海の選手権で2位になるなど、当時の日本のゴルフ界でトップと言っていい腕前を持ちながら、日本選手権にあと一歩で優勝できなかった人物でもある。

 

そんな彼は日本のプロゴルフの源流にかかわっている。

こう書いたのはキャディ時代の宮本留吉がホワイトを、影響を受けた一人として振り返っている事もあるが、もっと直截的な物で、日本のプロの祖福井覚治の先生であった為だ。

 

この件については福井本人が1922年に雑誌『阪神ゴルフ』で連載した回想記『「キャデー」より「プロ」へ』の中で『恩師というべき』人物であったと振り返っている。該当箇所は短文だが概要を紹介すると以下の通り

 

二人に交流ができたのは1914年に鳴尾GAができて1年目頃であったという。

(筆者注=ホワイトは福井が育った鳴尾の前身の横屋GAからの会員であるので接点はもう2~3年早くからであると思われる)

福井は彼のことは見知っていたが、ただ上手な人。という認識で近づくことはなく、後援者のW.J・ロビンソンや最初の教え子の安部成嘉(共に鳴尾GA創立者)とのプレーやレッスンにいそしんでいた。

しかしこの頃には福井もかなり上達していたので、一度ホワイトとプレーをしてみたいと考えるようになったある日、ホワイトの友人が鳴尾に来れなくなった為一緒にプレーをすることになった。その際日本トップレベルのゴルファーと日本生え抜きの職業ゴルファーの一戦は会員たちの注目を集めたという。

 

18ホールのマッチは引き分けに終わり、同レベルの技量ということで以来一か月二人は毎

日マッチをし、互角の勝負を繰り広げるのだが、この間に福井はホワイトのスウィングの影響を受けフォームが彼に似てきた他、様々な状況に応じたプレーの仕方を親切に教えてもらった事や、それらを学ぶことによって、ゴルフの難しさを悟って来た。と回想している。

 

福井は後にSt.アンドリュースやマッスルバラ出身の来日プロにも学んでいるので、ゴルフの本場中の本場のエキスを吸収した人物でもあるが、彼がカーヌスティのゴルファーに学び、スウィングに影響を受け、関西九州の初期一般ゴルファーやプロ達のほぼ全員が福井の影響を受けていることを考えれば、冒頭に書いたカーヌスティの移民ゴルファー達が各国にゴルフを伝導した中に日本も含まれ、しかも国内最初のプロに関わり、技術が継承されていった事は興味深い事柄ではなかろうか?

 

今回の書き物は万人向けのネタでは無いことを自覚しているが、謎のカーヌスティゴルファーが日本のプロの祖に手ほどきをしていた。という事実は十分物語になると思うが如何であろうか。

 

                                -了

                                20191014

 

 

主な参考資料

・『阪神ゴルフ』19225/25号掲載 福井覚次郎(覚治)『「キャデー」より「プロ」へ(二)』

・『Golf19362月号 大谷光明「日本アマチュア選手権物語()

・『INAKA』第三巻掲載 『The Golf of Rokkosan1916 神戸ヘラルド

・『INAKA』第五巻掲載『Golf In Japan』及び『The Golf in Japan1916 神戸ヘラルド

・『霧の中のささやき』1990 交友プランニングセンター 棚田眞輔編著 神吉賢一編集 松村好浩監訳 ※同書は『INAKA』のゴルフの項目の訳書

・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1976復刻初版 

Carnoustie Commentary 1937

 

ホワイトの写真は『Bunker1916年月11P4より(右の人物)

 

資料はJGA本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館にて閲覧及び筆者蔵書より

 

 

(この記事の著作権は全て松村信吾氏に所属します)