ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート#13、ミステリー②『サラゼンの回想とトイチの謹慎』 (後編)

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戸田藤一郎については小柄な体から繰り出されるロングドライブやその勝負強さ、ゴルフ界を追放されながらも復帰後競技に次々と勝った話など虚実入り乱れた伝説が残っている。

 

戸田の来歴を書いてみると彼は近所に第二期横屋GA(後甲南GC)が在った事から4~5歳頃にゴルフと出会い、小学生になってからはキャディに成ると共に学校をさぼるほどプレーに熱中し(福井覚治夫人は当時の彼について、彼は本当にゴルフが好きでした。と1936年に回想)、必然的にプロの道に進んでいった。

 

1932年にはトーナメントに出始め、距離は全然出ないが切れのあるアイアンショットで注目され、翌年廣野GCに所属してからボスの柏木健一のアドバイスで急速に距離を伸ばし、この年の関西OPで雨の中宮本留吉を破り、年下の先輩石井治作や茨木の上田悌造、小谷金孝(戦病死)らとともに関西期待の若手と目された

34年には飛距離も260~280ydまで延び(中止となった日本OP前の高畑誠一の紹介、またこの年に柏木が書いたレポートによると広野に来てから100yd位伸びたという)、日本プロ準決勝進出。

この年の関西PGA平均ストローク2位で渡米選手団メンバーに選ばれ、その際の紹介記事に、彼が行っている松の木にアイアンショットを当てる練習や、『陳(清水)・岩倉(末吉)と並んで日本のロングドライバーである』事が紹介されている。

 

故に1935年のアメリカ遠征でも注目され、ウォルターヘーゲンに小柄なのにアメリカの飛ばし屋たちと対等に渡り合う日本人プロで、数々の訪米プレーヤーの中で最高に上手い人物であった。と後年回想記『The Walter Hagen story』にもその名前が挙げられている。

ただ巡業が進むたびにハザードやラフを避けるためにスウィングが縮こまって距離が大きく落ちてしまったので、帰国後ボスの柏木とスウィングの見直しを行い、それまで以上のヒッティング技術を身に着け、日本プロで陳清水を破り優勝。

1936年には陳と再び渡米し、USPGAのウィンターサーキット(PGAツアーの原型)を転戦、賞金ランキング22位で収め、アンチセオリーのフォームながら素晴らしい球を打つとして内外の注目を浴びた。

更に、この第二次遠征での様々なプロ達との交流や技術吸収から、後にパンチショットと呼ばれた、右手の威力を最大限に使える切り返しの鋭いスウィング完成の為の残りのピースを見つけている。

 

戸田のデビューからトッププロとなるまでの来歴を簡単に書いてみたが、巷に出ている若き日の戸田がゴルフ界で軽視されていたとか、第二次アメリカ遠征まで距離が200ydそこそこであった。という話は当時の資料から(前者は評価が表面上だけかもしれないが、また後者は本人が晩年雑誌で語りだしているが)違う事を世に訴えたい。

 

 

そんな彼だが、1937年のシーズンはホームコースの廣野で行われた1月の関西PGA月例会に出たきり競技記録に名前が出てこない。

これについて俱楽部から謹慎処分が下された。とか、三度目の渡米をした可能性があるのでは。と戸田の伝記小説で取りざたされたが、リアルタイムの資料を見ると、『Golf1937年三月号に戸田が25日付けで廣野を退職してしまった事(筆者注=先の月例会は125日開催のため、その8日後に退職した事になる)と共に、彼がアメリカと日本のプロゴルフ界を取り巻くギャップにより苦しみ、さらに結婚に至れなかった等の生活設計を誤ってしまった故では。という考察をしたコラム『ブレーキを毀したトーチ』が掲載されたのを先年発見

した。

 

このほか『Golf Dom5月号掲載の下村海南博士のコラムでもこの話題が書かれ、関西GU機関紙でもある『Golfing』では一大問題として、3月号の巻頭コラムで名指しはしていないが彼への批判と再起を願う文と共に、プロを堕落の道に引き込む放蕩型アマチュアへの批判と、ゴルファーへのお手本となるべきプロの在り方について紙面がとられている。

 

なぜ戸田がこうなったのかは良く解らないが、『Golfing』のコラムには『不祥事件突発し』とあり、この問題で戸田が『~人格的には零に等しきものとの慨嘆すべき不評を烙印された』としているので可成不味いことをしたようだ。

本人がゴルフ界から去る要因となった話として(注=よく知られている1949年のプロゴルフ界追放の他、41年にも素行問題でゴルフ界から『抹殺(!!?)』という名の除名をされているので、この二件か37年の時か確証できないが)お給料について支配人と揉めて廣野GCを辞めただけなのだ。と1969年に雑誌で振り返っている。

 

その問題がどう収まったのか、『Golf Dom9月号P3591日付けで廣野に復職した事を報じる囲み記事と、別紙で10月の日本プロには謹慎により不参加であった記述を見つけたが、復職までの七ヶ月近くどこにいたのかは判らない、国外に出ていた可能性も捨てきれないが、アメリカの1938年度ゴルフ年鑑を見ても前年のトーナメント記録(主にベスト1012位まで表記)に出てこないのでやはり判らない。

また筆者の手元には古書市で入手した昭和9年~18年(1934~43年)までの廣野GCの事業報告書があるが、毎年所属プロのことを触れているのに、この年と1941年の戸田の件については全く触れられていない。

 

 

話をサラゼンの回想に戻すが、彼が会っていたのが宮本でなく戸田であったのなら辻褄はつく、

戸田自身も茨木でのプレーを見ていたようで、『Golf(目黒書店)』でボスの柏木やこの年の日本プロ勝者上堅岩一(宮本留吉の幼馴染で、遅咲きのチャンピオン)等と共に(甲乙丙表記だが)サラゼンのプレーの解説と解説をしている。

また、1982年の週刊パーゴルフでも戸田が茨木でのエキシビションでサラゼンのプレーを見ていた事が杉山通敬の聞き書きで記されていることから(内容は茨木の16番で深いラフからサラゼンが#5アイアンで190yd先のグリーンに乗せた話)、二人が接触をしていた可能性は非常に高い。

 

しかし、サラゼンが回想記で『東京近郊のゴルフ場』と書いてしまっている事に加え、エキシビションを幾つもした後の様な筆調である事が、筆者の唱える論を不安定にさせる要因となっている。

もっとも戸田がサラゼンに会うために、(単独行動か後援者の手引きか)彼の関西訪問を待たずに最初のエキシビション会場である朝霞の東京GCないし前日の霞ヶ関CC、後日の武蔵野CC藤ヶ谷コースや程ヶ谷CCに出かけていた。という仮説もとることができるが(どれもサラゼンの言う東京近郊に合致)。決定打までにはいかない。

 

見落とされがちな記述を一つづつ潰していけば真相が解明するであろうが、いまだ確定までには行かない。よってこの話はあくまでも各状況証拠による筆者の仮説である事を承知の上、各位話のタネにお使いくだされたく願います次第。

 

 

                               -了

                              201994日記

 

 

 

文中未記載の主な参考資料

・『ジーン・サラゼン回想録』ジーン・サラゼン 上津原時雄訳 べースボールマガジン 1978

・『Wedge of Sarazenジーン・サラゼン、ハーバート・ウォーレン・ウィンド共著 戸張捷訳 小池書院 1997

上記二冊は『Thirty Years of Championship Golf』(1950)の邦訳版

 

・『Golfing19372月号 『関西プロ一月例会」

・『Golfing19373月号P9『Editor’s Note プロ界の肅正を望む』

・『Golf(目黒書店)』193711月号P16~17 大谷光明『-ジン・サラゼンを迎へて サラゼンは何を日本ゴルフ界に與へたか』

・『Golf(目黒書店)』193711月号P54-55 『ただ球を打つことのみ 上堅、柏木、戸田三選手合評』

・『Golf Dom19375月号P12-13 下村海南 『晩春ゴルフ雑感』

・『Golf Dom193710月号P50 囲み記事より『サラゼンの来朝実現か』

・『Golf Dom193712月号P10-11 高畑誠一『サラゼン日本のコースを語る』

・『1938 Golfers Year BookThe National Golf Review Inc. 1938

・『ゴルフマガジン』196912月号P184~194 『関西プロ歴訪シリーズ(その2)戸田藤一郎・大いに語る』

・『週刊パーゴルフ』198254日号P60~63 語り戸田藤一郎 聞き書き杉山通敬 『スーパーテクニック外伝 心に残る人と技術 ボビー・ジョーンズとジーン・サラゼン 『右手で打つ!』を開眼した』

 


※史料はJGA本部史料室及びミュージアム国立国会図書館で閲覧他、筆者蔵書より

 

(本記事の著作権は全て「松村博士」こと松村信吾氏に所属します)