ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉖ 『戦前の来訪外国人プロゴルファー芳名帳』 その2

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ロバート・アラン“ボビー“・クルックシャンク(1894~1975)とウィリアム“ワイルド・ビル”・メルホーン(1898~1989)
共に1930年12月に来日
クルックシャンクはスコットランドからのアマチュア出身の移民プロ、学生時代は陸上競技で活躍したほか、トミー・アーマーとは幼馴染で、共に第一次大戦で奮戦した。戦後はアマチュアトーナメントで活躍した後アーマーに1年遅れて渡米し、すぐにプロ転向。
小柄だが勝負強いゴルフで1923年の全米OPでボビー・ジョーンズを、32年の同大会でジーン・サラゼンを苦しめている。
最後にトーナメントに勝ったのは60歳になる年で、息が長いプレーヤーであった。

メルホーンはアメリカ出身のプロ、早くからショットメーカーとして注目され、スチールシャフトを使うのも早く、西部生まれでないが1920年代後半にはカウボーイハットを被る様になり、そこからワイルド・ビルのあだ名で呼ばれるようになった
彼は幾つもの主要競技に勝ち、全米OPでベスト5五回、USPGA準優勝など優れたプレーヤーであったが、大恐慌後の賞金額の激減と自身の重度のイップスで引退し、レッスンプロとなってそちらで活躍している

日本にはJGAの要請で1930年12月に来日。東京GCと程ヶ谷CCでエキシビションをしたほか、鍋島直泰、細川護貞、近衛文隆、原田盛治らジュニアゴルファーにレッスンをつけ、日本のゴルフの発展を期待するコメントを残している。

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ネッド・コーンフット(生没年不明)
1931年12月?来日
カナダのプロで、新興フジゴルフ(富士GCか?)に三年契約で所属することが東京朝日新聞1931年12月4日号に写真入りで掲載されているが詳細不明

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ラリー・モンテス(1911~?)
1932年来日34年まで滞在
フィリピンが生んだ最初の名手、キャディからゴルフを覚え、歯科医を志すも学費が足りないことから断念しプロゴルファーになる。
18歳でフィリピンOPに優勝し注目され、1929末~30年にかけてアメリカや英国、フランスの選手権に出て活躍、対戦した縁でボビー・ジョーンズから技術を教わるなど、アメリカスタイルのゴルフを吸収している
1932年に仕事場を求めて来日し、この年の日本プロで優勝してゴルフ界に大きな衝撃を与えた。
同年末に上京、ウォルター・へーゲンブランドの代理店であった深川商会社長が色々と骨を折ったようで同社経営の練習場や幾つかの倶楽部でレッスンをしている。
この年霞ヶ関CCに1年契約で所属し日本プロで二連勝を遂げ、その洗練されたゴルフはプロアマ問わず影響を与えた。が2年目となった34年8月21日に何かのトラブルで倶楽部を解雇され帰国。
帰国後はフィリピンのトッププロとして君臨し。1950年代を過ぎても第一線を張り、フィリピンOP十二勝の戦績はいまだに破られていない。

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ジーン・サラゼン(1902~1999)
1937年10月来日
イタリア移民の家に生まれ、キャディをしながらゴルフを覚えた第三世代のプレーヤー。若干二十歳で全米OPとUSPGAに優勝したことからトッププレーヤーの仲間入りをする。
 その間フォームの改造に失敗し10年程メジャーに届かない日々が続くが、トレーニングとサンドウェッジの開発、リマインダーグリップの採用で再び返り咲き1932年に米英両OP制覇。1935年度マスターズ優勝でプロ初のグランドスラマーとなっている。

1930年にメルホーンと来日予定で在ったが体調不良で断念(他のプロ達のやっかみを慮った説とJGAの森村市左衛門がクルックシャンクのマネージャーから呼ぶことを勧められたが費用の問題で断った説がある)。1937年に友人の旅行会社経営者の誘いで夫婦揃って世界ツアーに出かけた際にJGAに打診して来日。
東京GCと茨木CCでエキシビションを行った他、各地のコースでのゴルフ界重鎮とのプレーや美津濃本社でゴルフ講習会をしている。
1939年にフランシス・ウィメット、チック・エヴァンスらアマチュアの重鎮とサム・スニードを連れてくる話や、1940年の東京オリンピックに合わせて契約しているウィルソンのスタッフプロ達と来日できれば。と語っていたが、日中戦争の長期化によるオリンピック返上と第二次大戦勃発などの問題で叶わなかった。

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エルドレッド“アル”・ズィンマーマン、エメリー・ズィンマーマン(共に生没年確認できず)
1940年1月来日
1930~40年代にアメリカで活動していた兄弟プロ、PGAツアーに参戦して間もないバイロン・ネルソン夫妻と親交を結んだことが彼の回想記に出てくる。
兄弟は1940年1月に来日し(おそらく出場していたフィリピンOPの帰路に立ち寄ったのだろう)、同月18日広野GCで所属プロの戸田藤一郎・柏木健一組とフレンドリーマッチをしているが、直ぐ離日しているので殆ど記録に残っていない。
ズィンマーマン兄弟は平時西海岸北部の倶楽部で働いており、同地のトーナメントの戦績等からUSPGAパシフィックノースウェスト地区の殿堂入りをしている

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陳金欽(生没年不明) 
1940年春来日
台湾GC(淡水)出身のプロ、ロイヤル香港GCに所属しており1940年台湾プロ出場後来日、関東PGA3月々例会に参加している
※陳金欽以前にも台湾の陳金獅(台湾GC)・陳火順(中部台湾GC)・楊石頭(高雄GC)、武藤一夫(本名ブドル、花蓮GC)や、朝鮮の延徳春(京城GC)・青松某(京城GC)といった現地出身のプロが留学や大会の為来日しているが、当時は日本領なので参考に留める
また上海や青島あるいは朝鮮・満州の倶楽部に所属していた邦人プロはここでは除外する




 

 

(「来なかったプロ」に続く)

 

 

主な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1995復刻第二版 
日本ゴルフ協会七十年史   日本ゴルフ協会  1994
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン1977
・程ヶ谷二十年 程ヶ谷カンツリー俱楽部 1942
霞ヶ関二十五年史 霞ヶ関カンツリー倶楽部 1955
・ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1993改定版
・ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録 宮本留吉 ベースボールマガジン社1985
・人間グリーンⅥ 大屋政子・小笠原勇八 光風社 1978
木戸幸一日記上巻 東京大学出版会 1978第五版
昭和天皇実録第三巻 宮内庁編集 東京書籍 2015
・American Annual Golf Guide 1929年版
・Royal and Ancient Championship Records 1860~1980   R&A 1981
・Golf in Canada A History James A. Barclay 1992
・The Architects of Golf   Geoffry.S Cornish & Ronald.E Whitten
・佐藤昌が見た世界のゴルフコース発掘史、ゴルフ伝来100年記念出版 佐藤晶
・サラゼン・ウェッジ(原題『Thirty Years of Championship Golf』) ジーン・サラゼン、ハーバート・ウォーレン・ウィンド共著 戸張捷訳 小池書院 1997
・世界記録ツアー11連勝した男(原題『How I Played the Game』)バイロン・ネルソン著 戸張捷訳 1998 小池書院
・ウォルター・ヘーゲン物語(原題『The Walter Hagen Story』)ウォルター・ヘーゲン著 大澤昭一郎訳 2006 文芸社
阪神ゴルフ1922年4~5,9月号
・Golf Dom1922.11~1943年分
・Golf(目黒書店)1931.11~1937,1939~40年分
・週刊アサヒゴルフ
1972年6月21日号 小笠原勇八 『人物百話6 森村市左衛門』
1973年1月24日号 小笠原勇八 『人物百話33 岩永裕吉』
1973年2月7日号 小笠原勇八 『人物百話34 野村俊吉』
・アサヒスポーツ
1930年6月15日号
1930年7月1日号、7月15日号『ゴルフ座談会 へーゲン、カークウッド兩氏のプレーを觀て(上)(下)』
1931年1月15日号 植村睦郎・玉村生『ビルとボビーのゴルフ』
1938年五月第二号
・大阪毎日新聞
1927年9月2日朝刊七面『プロフェッショナルゴルファー 本社主催国際模範試合』
1927年9月3日朝刊七面『ノリス選手の技量は侮れぬ 興味をもって期待されるけふのゴルフ試合』及び『日本プロフェッショナルゴルファー国際模範試合』
1927年9月4日『ノリス福井組見事勝つ 五アップ三ツー・ゴー 国際ゴルフ模範試合』
・東京朝日新聞
1921年12月8日朝刊五面『雄辯家ス氏來朝 川崎の大競技場設計者も』
1922年9月9日夕刊二面『來て見てびっくり新婚旅行のゴルフの先生 宮内省でも教習交渉の手紙』
1926年8月28日朝刊『フード氏歸國
1929年12月6日朝刊『ゴルフ界の二巨人來朝 来春を期待されるヘーゲン、カークウッド両氏』
1930年5月21日夕刊二面『世界のゴルフ王ヘーゲン氏來る 曲打王のカークウッド氏と相携えへてけふ神戸へ』
1930年5月30日朝刊11面うますぎる妙技 初めて見る両巨人の腕前にファン膽をつぶす」
1931年12月4日朝刊11面『ゴルフ教師來る』

以上資料はJGA本部資料室、同ミュージアム国立国会図書館昭和館で閲覧および筆者蔵書

The American Golfer
・1916年11月号  J.G Davis筆    『Western Department』
・1916年12月号  Lochinvar筆    『Western Department』
・1910年3月号  Westward Ho!筆 『Western Department』 
・1913年3月号  Lochinvar筆    『Western Department』 
Golf Illustrated   
1920年1月号G.O. West筆『ALONG THE PACIFIC COAST』
1921年11月号G.O. West筆『Golf on The Pacific Coast』

以上資料はLA84Foundationホームページ、デジタルライブラリーで閲覧

参考サイト
PNWPGA History Project WikiよりHall of Fame及びChamipionship

 

 

(この記事の著作権は松村信吾に所属します)
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