ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート#13、ミステリー②『サラゼンの回想とトイチの謹慎』 (前編)

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 1920~40年代に活躍したアメリカの名手、ジーン・サラゼンが初来日したのは1937年の事で、友人で広告代理店のオーナーA.D・ラスカー父娘らと共に出かけた世界ゴルフツアーの道中の際にサラゼン本人が事前にJGAへ宛てた

『本年度のオープンチャンピオンと72ホールマッチをしたい』

という申し込みから、彼の日本国内のゴルフ場を廻る合間を縫い東京GCと茨木CCで東西の連盟主催のエキシビションマッチが行われた。

 

それ以前、1930年のシーズン終わりに当時の名プロ、ビル・メルホーンと共に来日する予定があったのだが、体調不良(一説には他のプロからの風当たりを慮って辞めたとも)で断念していた事や、その後もタイミングがつかなかった話はあまり知られていない

 

 

この時の来日は、サラゼンのプレーとそのストイックさから、本邦プロがどう在るべきか職業意識を再認識させると共に、当時の第一人者赤星六郎の提唱する、フォームを整え、スコアにとらわれずショットを愉しみながら上達し、ゴルフの神髄に迫っていく。という考えに対抗するような、無駄を省きに省いたスコア追及の『算盤ゴルフ』であったので、技術の発展について様々な考察や意見がなされていたのを始め、後年真贋騒動になったダブルイーグル達成の4W石井光次郎に贈呈した事等、様々な話が残っている。

 

技術論について、サラゼンの来日前、アメリカ帰りの名アマチュア、佐藤儀一が同じ算盤ゴルフのプレーで選手権圧倒的な強さを見せ、本邦ゴルファーらがカルチャーショックを受け、議論を呼んでいた中でのプレーであった事が後押しになったとみられる

 

 

さて、サラゼンの回想記にはそれほど長くはないが、来日した際のことが触れられておりコースの整備要員の話や日本人の研究熱心さなどが紹介されているが、この中で本邦の研究者やゴルフ史に興味のある者たちが首をかしげる記述があるのだ。

 

 

それは以下のような内容である。

 

アメリカ遠征をした日本人プロ選手団の中で一番強くて印象に残っていたトミー・宮本(宮本留吉)が一度もエキシビションの対戦相手に出てこず、サラゼンは彼がどうしたのか尋ねるも、いつも返事はあいまいであった。

その後東京の近くのコースでのエキシビションの際に、クラブハウスで友人と歓談していた時、ドアの所にいるのでお目にかかりたい。という彼からのメモが届けられて、再会するのだが、なぜ一緒にプレーができないのか尋ねるサラゼンに宮本は視線を落とし答えず、逆に交流のあったアメリカのプロたちの事を訪ねてきた。

サラゼンはこの事を不審に思ったので、調べてみると、宮本が何らかの失策でプレーや観戦をすることを禁じられていたのが判明した。しかし何の為に処罰されたのかはついに正確なことを知ることができなかった

(上津原時雄訳のベースボールマガジン版と戸張捷訳の小池書院版より、双方の訳では互いに省かれている箇所がある為原文確認と共にすり合わせた)

 

これについてはサラゼンの回想記が翻訳されるたびに宮本本人が誤りであることを語った話が紹介されている。

事実1026日に茨木CCでサラゼンと宮本、この年の関西OP・プロ選手権勝者の村木章、廣野GCの石井治作(石井兄弟の長兄)によるエキシビションマッチが行われており、当時の雑誌にはレポートが掲載され、写真や映像も残っている。

 

また、サラゼンは回想記の中で日本赤十字社のために数回エキシビションを行い、自分のフォアサムの一員に選ばれるのが名誉とされ、厳選な予選が行われた。と書いているが、日本側の記録ではエキシビション2回であり、入場料は恤兵金に使われた事が報じられている。

当時の雑誌『Golf(目黒書店)』や『Golf Dom』等を読むとサラゼンの日本滞在の足跡が書かれているので、以下に挙げてみたい

 

1016日、エンプレス・オブ・カナダ号にて横浜港着、新聞各社及び『Golf Dom』社の取材他プロの陳清水が出迎える

18日、駐米大使館員と霞ヶ関CCでプレー(27H)、

19日、東京GC(朝霞)で午前大谷光明・川崎肇・野村駿吉・小寺酉二・鍋島直泰らとのベストボールをプレー、午後一時半から安田幸吉と組んで陳清水・林萬福とのエキシビションマッチ(2&1で陳・林組の勝ち)、

20日、武蔵野CC藤ヶ谷コースで川崎肇と組み、赤星四郎・陳清水(同クラブ所属)とフレンドリーマッチ(日没のため1617 番省略)

21日、程ヶ谷CCで浅野良三と組み、赤星六郎・鍋島直泰とフレンドリーマッチ16Hのプレー)

22日、赤星四郎、川崎肇と共に川奈GLへ遠征

25日、京都へ到着

26日、茨木CCで村木章と組み、宮本留吉・石井治作とエキシビションマッチ(2&1で宮本・石井組の勝ち)

27~30日、大阪の美津濃で講習会(サラゼンが契約しているウィルソンの代理店であった為)、鳴尾GC猪名川コースや廣野GCでプレー(全て日時確認できず、廣野は高畑誠一のレポートから29~30日のどちらか)

31日、神戸港からクーリッジ号に乗り離日、フィリピンへ向かう

 

 

サラゼンの述べる宮本がプレーを禁じられていた話について、宮本と東京GCでプレーをしたい。というサラゼンの要請と米国大使で同倶楽部会員のジョセフ・グルーが働きかけたが、かつて宮本が英国皇太子とプレーをしたことから影響力がある事を危惧した倶楽部側の判断(宮家を始めとする上流階級層が会員のため)。という異説を唱えられた方もいるが、筆者は当時の日本ゴルフ界の状況からサラゼンが人物の名前を間違えていたのでは、と考えている

 

それはトイチこと、戸田藤一郎の謹慎が在った為である。

 

(続く)

 

(この記事の著作権は、松村博士に所属します)