ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

約束

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Uさんがその東京郊外の町に来たのは、ちょうど20年振りだった。
大阪出身のUさんが、大阪に本社がある会社の東京支店に新婚早々転勤になって、この町の借り家住まいを始めたのは25年前、27歳の時。

やはり大阪出身の嫁さんとともに、慣れない関東住まいに始めは苦労した。
大阪ほど親しく付き合うようには見えない新興住宅地の雰囲気が、「二人ボッチ」という感覚を強くして、一時は会社を辞めて大阪に帰る事まで夫婦で話したほどだった。

それが一変したのは、五軒となりに住んでいたOさんのおかげだった。
Oさんは、その地区にある草野球チームの監督をしていて、若く身体の大きなUさんにチーム加入の勧誘に来たのだ。
Uさんは一応中学・高校と野球をやっていたので、気分転換をかねて喜んで加入する事にした。
その草野球チームは何人かは野球経験者がいたが、殆どが遊びでやったぐらいの腕だったので、Uさんはたちまちピッチャーで4番というチームの中心選手になった。
毎週日曜日の試合や練習のあとの地元の酒屋での一杯で、Uさんは近所に知れた有名人になった。
そしてUさんの新婚の奥さんも、派手で交際好きで陽気なO監督の奥さんの紹介のおかげで地元の何処でも挨拶されるようになり、すっかり地域に溶け込める事が出来た。
草野球のチームは、市の大会でいい所まで行くようになり、地元の強豪チームとして一目置かれるようになった。
そしてUさんが30になった頃、チーム内でも流行り始めたゴルフをO監督から教えてもらった。
まだ給料が多くなかったUさんに、O監督は自分の使った古いクラブをフルセットくれて、練習場や近くの河川敷にも連れて行ってくれた。
腕前はすぐにO監督といい勝負をするようなり、「若いってのはいいなあ」なんてぼやかれる事が多くなった。

そして32になった頃、本社に栄転するような辞令が出て、Uさんは大阪に帰る事になった。
チームの送別会の時に、O監督に「東京に来る事があったら、絶対にゴルフの勝負しような」と約束させられた。

それから20年あまり、責任ある仕事を任されて時間に追われる生活が続き、何度か東京に出張する機会があっても、O監督のいる町でゆっくりする時間はとれず、素通りする事が続いた。

それが、一週間の時間のある今回の出張で、懐かしい町で時間を過ごす事を考えた。
...駅を出て以前住んでいた地区に向かう...しかし、記憶にあるような風景に行き当たらない。
家が殆ど新しくなっている、道路が広くなっている、見覚えのない大きな店が出来て見しらぬ道がある。
当然以前住んでいた貸家の姿はなく、アパートが建ち並び...O監督の家だった場所には知らない名前の新しい家が建っていた。

まるで浦島太郎のような心境で、やっと以前プレーした野球場にたどり着き、そこですっかり大きくなった立ち木に囲まれた見覚えのある風景に出会う事が出来た。
同じチームだった人達の半分以上は、あの頃貸家やアパートに住んでいたが、それらは殆ど立て替えられたようだ。
見知った顔に出会えない。
...諦めて帰ろうとした時に、声をかけられた。
やっと出会えた見覚えのある顔、同じチームのコーチをしていたNさんだった。

聞いた話は、O監督は3年前に亡くなったこと。
Uさんが大阪に帰ったあとの、O監督の波瀾万丈の人生。

会社の倒産。
奥さんとの離婚。
家族の離散。
トラック運転手としての一人暮らし。
酒を飲み続ける生活。
酒に飲まれる生活。
身体の不調。
そして、独りの死。

最後までO監督と付き合いのあったNさんの話は、まるで安っぽい小説のように現実味が無く...
あの陽気で世話好きで、男気に溢れ、酒を飲むと口癖のように「みんなが俺に頼ってくれるのが嬉しい」と言っていた優しい男。
O監督がいたから、逃げ出しそうだった関東暮らしが続けて行けたのに。

「Uさんの話もよく出ていたよ」
「東京に来たらゴルフを一緒にやる約束していたんだって?」

遅かった。
いつでもやれると思っていた。
...言い訳は次から次へと浮かんでくるけど、約束を守らなかった事実は変わらない。

「俺は、最低だ」
その言葉が、頭を回って離れない。