ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

葉書

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漫画家コンペから帰ると、うちの奥さんが一枚の葉書を差し出した。
「喪中につき」で始まる葉書には、今年の7月16日にあいつが亡くなっていたことが書いてあった。

あいつのことは、このブログでも何回か書いた。
俺と同じような運動神経を持ち(足は奴が圧倒的に速かったが)、「いつかゴルフを始めるから」と俺からフルセットのクラブを受け取りながら、ついにゴルフを始めなかった男。
俺を「お前が一番のツレだ」といつも言い、九州に一人帰って親の面倒を見ながら芋焼酎を朝から飲んでいた男。

そもそもは東京のデザイン学校で、俺が浪人した末にやっと親の期待した道からドロップアウトして、自分でものを作ることを始めようとした時に出会った。
奴もちゃんと有名私大に入りながら「この道は俺の道じゃない」と、親の期待を裏切って中退した末に、「ものづくりをしたい」とデザイン学校に入ってきた。
笑ってしまうのは、お互いそういう気持ちを持ちながらも「実際に絵を描いたことも、何かを作ったこともない」という「ど素人」だったこと。
デッサンの仕方も知らないので、「パンを持ってくること」という知らせに二人とも「昼食の事」だと思ってサンドイッチやフランスパンを持って行った事...二人してクラス中から笑われて、知り合った。

そこは陶器などを習う「工芸科」だったが、最初のクロッキーの授業で俺のクロッキーを後ろでずっと見ていた教師が、「君はクロッキーを描いたことがあるのか?」と聞いてきた。
「生まれて初めてです」と答えると「ちょっと後で残って」と言われた。
授業の後、その教師の言う通りに色々描いてみると「君はここにいちゃいけない」「すぐにグラフィック科に移るべきだ」と言われ、勝手に手続きをしてしまった。
まあ、こっちは特に何がやりたいのかも決まっていなかったので、どこに行っても同じだろうと移ることを了承したのだが、それが終わって教室の外に出ると奴が待っていた。
「何の話だった?」と聞かれ、「ああ、俺はグラフィックの方が才能があるんだって」「だから、明日からグラフィック科に移るわ」と答えると、何と奴は「それなら俺も一緒に移る」と、強引に一緒に科を移ってしまった...それからが、「ツレ」としての付き合いのはじまりだった。

俺が絵を描くことを生涯の目標にすると決めて、そこを中退したのは1年後...その後は、ドタバタしながらも今までずっとフリーでイラストレーターで食って来た。
しかし、俺にくっついて移った奴はそこをきちんと卒業し、大阪に移ってデザイン学校の先生になり、その後写植の会社を立ち上げ、一時は大手スーパーの写植を一手に引き受けて社員数15人以上の会社にした。
が、時代の変化は「写植」という業種を不要のものとしてしまった。
そして、業績悪化と離婚、一家離散へと流れて行って、彼一人が郷里の鹿児島に戻ることになる。

彼が大阪時代には、しょっちゅう東京に来てはウチに泊まり、一緒に飲んだり草野球のチームに入って一緒に野球をやったり、カラオケをしたりという付き合いが続いていた。
九州に帰った後も、年に何度かバイクで訪ねて来て家に泊まって、一緒に飲んだりカラオケに行ったりしていた。

俺がゴルフイラストの仕事を始めてゴルフに熱中してからは、俺は運動神経の良い奴が鹿児島でゴルフを始めてくれたら一緒にゴルフを楽しめる...同じフェアウェイを話しながら歩けたら面白い時間を過ごせると、何度もゴルフを始めることを誘った。
どうしても野球にこだわっていた奴が「ゴルフをやってみようか」と言い出した時には、当時あるクラブで長く使えそうな「いいもの」を選んで、フルセットにして送った。
「後は靴やボールや手袋だから、それは自分でサイズを合わせて揃えろ」と。

が、1~2度はラウンドしてみたようだが、ついに本格的に始める位事は無かった...奴の事だから、野球のようにうまくいかない「カッコ悪い」自分が許せなかったんだろう。

そうしているうちに脳梗塞で倒れ、今に至った。
俺は都合4回鹿児島に行った...1度目は倒れる前だったけど。
やはり鹿児島は遠く、そう頻繁にも行ける場所じゃなかったけれど、入院してからの見舞いには2~3年の期間を置いて3回行った。
見舞いに行く度に動けなくなって行く様子の奴の姿は、見るに忍びなかった。

俺も長年苦しめられて来た不整脈の発作が原因で、昨年カテーテルアブレーションの手術に踏み切った。
それから一年が経って、その治療が成功として終了し、今は鹿児島に行く資金を貯めている途中だった。
でも、もっと何回もお前に会いに行くべきだったよな。
「いつかは」という覚悟はしていたけど、「まだ」という甘えが俺にあったんだよな。

家族は、お前が生きているうちに見舞いに来たのか?
俺に何か話すことはなかったのか?
5年前に見舞った別れの時に、お前は「今度は俺がそっちに行く」と言っていた...そんなお前を、俺は待っていたんだぞ。


去年は修三が、今年はお前が...
飲む相手がいなくなるのは、本当に寂しいもんだ。