ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

気をつけなくちゃいけない、と。

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最近いろんな事に「おかしいんじゃないか?」なんて感じる事がある。

世の中、というより日本が誰かの意図である方向に引っ張られているような...
その「誰か」は、よく判らないんだけど。

その流れを作っているのが大手のマスコミ。
思うに、以前は(本当はそんな時代は無かったのかもしれないけど)新聞などは、真実の追究のために強い使命感と高尚な理想を持った機関であり、世の過ちを指摘し修正する事を託された事を世間に知られた媒体であった。
そのため、企業にとってその新聞に広告を載せる事は、その企業が社会的に認められる存在となった証拠であったのではなかったか。
それがいつの間にか、高額な広告費を頂くために、新聞の方が企業に媚を売って広告を出して頂く関係になってしまった...
新聞はそんな事で変わって行ったのかもしれないなあ。

例えば政治の話。
小沢という政治家は好きではない...特に外国人参政権には反対だし、彼の政治手法も好きではない。
...が、このところの殆ど全マスコミの反小沢の流れには、大いに疑問を感じている。
政治資金問題からの起訴、そして裁判、そして明るみに出た検察の不正...
どのマスコミも小沢氏を極悪人のように決めつけて報道している。
自分は、こういう殆どのマスコミが一致して大きな流れを作る時こそ、その流れから一歩離れてその反対の意見を知らなければいけないと思う。
幸い、今のネットの世界には、探せば沢山の反対の意見が見つかる。
こうした意見を読んで、自分が今までマスコミから受けた印象を見直す必要があるのではないか?
その結果自分の意見がマスコミのいう事と同じならそれでいいし、違ってくればそれもいい。
マスコミがみんな一緒の意見、そしてそれが正しい意見という常識に不審を感じるのだ。

こんな事を改めて言わなければいけないと思うのは、あの原発反対の静かなデモが官邸を包囲した時...ツィッターやブログで呼びかけて行われたこの静かな大衆行動は、映像としてテレビなどで伝えられた...その数は数万人とも20万人とも言われた沢山の参加者がいたのを、我々は見た。
しかし、そのデモは翌日の読売新聞では全く書かれていなかった。
その日に他に大きな事件があった訳でもないのに...何かの意志が働いたとしか思えない。

こういう事は、今では新聞が真実を知るには役に立たない事を示している。

政治の話では、かって鈴木宗男氏は「悪のデパート」とまでマスコミに言われ、田中角栄氏はロッキード事件で鬼の首を取ったようにマスコミに叩かれ、極悪人のように書かれて失脚した。
後年、それについて多くの疑問が噴出したのに。

原発が夏の電力不足が心配だからと、再稼働した。
そうしたら、火力発電所をいくつか停止したと言う...本当に電力不足だったのか?
震災瓦礫の受けれを拒否したあの辺の人達は、自分たちは絶対に放射能は関係ないと信じているんだろうか。

いじめの話が問題になっている。
自殺までさせたいじめの犯人に、少年法の保護は必要ない。
恐喝、傷害、殺人の罪を当てはめるのは当たり前...もしくは、親の仇討ちを認めさせるべき。
何ヶ月も動いてくれなかった警察が動いたのも、卑怯者の教育委員会が認めたのも、ネットで「祭り」になったから、とか。

ネットの意見が全て正しい訳じゃないのは当たり前。
ただ玉石混淆の意見の中に、現状の変な流れを感じたら探す価値のある意見は沢山ある。
どの意見が正しいのか判断するのは難しいけれど、少なくともいろんな意見を比べて見る事が出来るのが素晴らしい。
新聞が愚民(ときっと思っている)を導く先が、誰かの怪しげな思惑の中かもしれない今、我々はみんなと違う意見にも耳を傾ける必要があると思う。

天の邪鬼、あるいは変人・偏屈な人間になる事が、変な所に流されない大事なポイントかも。