ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

嘘と真実とフェイクとリアル

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最近描いた仕事の掲載誌が送られて来る度に、「うわあ!」と感じることが多い。
以前のその雑誌が元気だった時代に比べて、重さそのものがあまりに軽いのだ。
それは、「ほとんど半分か?」と感じるくらいのページ数の減少...多分そのほとんどは「広告ページ」の減少で、編集部の作る記事自体はそれほど減ってはいないと思うのだけど。
だが、その薄さは「内容の少なさ」と「その雑誌の衰退=創造エネルギーの衰退」を感じさせて、こういう媒体の消滅の近さが実感となって迫ってくる。

「紙の文化はデジタルの虚像文化に圧倒されて、今や風前の灯」というのが、紙文化で育ってきた我々の認めたくない真実なんだろう。

今や、世の中の出来事の9割以上は、嘘とも本当とも見分けのつかない「デジタル」の波に乗って我々の手元に届く。
そこには確かに様々な意見があって、どれかを見ようとすればちゃんと見ることは出来る。
だが、その色々な意見が、最近はどれも進化した「フェイク技術」に細工をされて、本物と偽物の見分けをつけるのが物凄く難しくなっている。

武漢肺炎の情報も、どんな意見でもお祭り騒ぎにしてしまうマスコミが関われば、「ああ言えばこう言う」「どっちを選んだって、次の日にはその反対意見で大騒ぎ」となる。
そもそも、「あれは大変な病気」だと言う意見と「ただの風邪なんだから大騒ぎするな」と言う基本意見がまだまだネット上には大量にあって、どちらもそれなりに「科学的」なデータがあって...相変わらず混沌としている。

その「なんでもない」派の、デジタル大好きの某大国の大統領は「立つ鳥 後は泥だらけ」って有様のてんやわんやの暴動を引き起こして...
その結果、デジタル上でその暴動を煽ったと言う理由で、大手IT企業がアカウントの永久停止なんて「言論弾圧」をやっちまった。
今や大権力を持つことになった一私企業が、「検閲」をして良いのか悪いのか?
そしてその前に、そもそも大国の代表者が深い考えもなくそういうものを個人的に利用して、誰かを攻撃したり個人の意見(国家の意見ではなく)を言い続ける事が、良いのか悪いのか?
思想や信仰によって、デジタル空間に過激に「他者否定」「他者攻撃」を書き続ける利用者には、どんな制限が必要か?

我々昭和の人間にとって、もともと「デジタル」なんてものは「虚像」であり「虚空に消えていく幻」に過ぎないものだった。
昔は微妙にたどたどしかった「デジタル」が進化して「リアル」に近くなった時、そこには「より真実に近づく」ではなく「より真実から遠ざける嘘」が割合を増して来た...ような気がする。

そもそも、俺はデジタルなんてのは嫌いなんだが、現実の仕事ではデジタルを使ってアナログのような絵を描いている。
デジタルの「嘘」を日頃の仕事に使っている俺に大きな事は言えないのだが...「デジタル空間」の上にある事柄なんて、初めは「みんなフェイクだ!」と覚悟してから参考にした方が良いと思う。

 

特に「美味しそうに見える意見」は、要注意。
嘘の上に甘いフェイクの衣を何重にも被っていると思って...すぐに食いつかずに、とりあえず中身をほじくって見ること...と身に染み込ませておきたい。