ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

志村けん...「怒涛の空回り」からロールス・ロイスへの旅

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志村けんが、同じ学年だとは知らなかった。
俺が十一月生まれで、彼は翌年の二月生まれ...テレビでしか知らない彼は、もっとずっと若いような気がしていた。

俺のごく個人的な素人感想だけど、俺が十代から二十代の頃のテレビで人気があったものに、音楽バンド出身のグループのお笑いがあった。
まずは代表的なのがクレージー・キャッツ...全員がそれぞれの楽器では一流のミュージシャンで、お笑いをやらなくてもちゃんと食べて行ける人達だったとか...
そんなグループがテレビで人気になった原因は、植木等という才能のせいだと我々は感じていた。

その次の世代の代表が、ザ・ドリフターズというバンド。
俺としては「流れ」は同じ世代のドンキー・カルテットの方が好きだったけど、子供達にはいかりや長助と加藤茶のコントが受けた。
それはテレビでの時間・構成にもぴったりで、一時期は社会現象になるほどで、視聴率は恐ろしいほど高かった(最高視聴率は5割を越えていた!)。

俺は絵を描き始めてからはほとんどテレビを見る時間は無かったけれど(結婚当初の貧乏暮らしでは、何年もテレビ無い時代が続いた)、たまに見るテレビでの「8時だよ全員集合」はすごい騒ぎだった。
その番組で、時々「いかりやの若い付き人」というのが短い時間登場するようになった。
その若い男は、元のメンバーの荒井注が引退するのと交代に、レギュラーに昇格するのだが...
当初はあまりに酷い滑り具合に、痛々しい上にしらけてしまって見ていられなかった。
その男の名前が志村けんだと覚えたのは、だいぶ後になってからだ。

ドリフのコントというのは、全員が古い付き合いで気心が知れているせいか、まず20〜30キロのスピードのトロトロ運転で雰囲気を作って行き、それをいかりやがあーだこーだして無理やり80〜90キロまで引っ張っていく・・・そして「もうすぐやっと100キロになる」という瞬間に加藤茶がそれをみんなぶち壊す、というワンパターンだった。
でも、その安定のパターンが子供達中心の大人気となった理由だと思う...あの水戸黄門の印籠のようなもんだ。

そこに入ってきた志村けんのコントは、いきなり始めから80キロオーバーの全力演技だったから、それまでの緩いリズムと全然合わない。
彼の必死のコントは誰も受けきれなくて、滑りに滑って途方に暮れる...俺にはそんな風にしか見えなかった。

なのでしばらく見ることがなくなって、どのくらい時間が経ったのか...志村けんを見て「これは面白い!」と感じたのはあの「ヒゲダンス」からだった。
志村けんチャップリンバスター・キートンの映画が好きで、ああいう演技を目指していたと聞く。
彼には日本風のぬるい雰囲気からの変化ではなく、こうした始めからリズミカルで「これでもか!」というくらいのイケイケなコントが合っていたんだろう。
ザ・ドリフターズの一員」という制約を抜けてからは、彼のスピードは縦横自在、「バカ殿様」も「変なおじさん」も、もう「滑っている」と思わせる事は無かった。

お小遣いをやっと貰えるだけの「付き人」から、彼は運転手付きのロールス・ロイスで飲み歩くまでに成功した。
多分、終わるつもりなんて無かった、「歩いている最中の行き倒れ覚悟」のコメディアン人生だったろう。
見事だったし、悔いは無かったと思う。

 

...そんな歳なんだなあ、俺たちは。

 

合掌。