ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

そりゃあ残念だし、悔しいよ....

どうやら、俺の今年の前半戦はこれで終わりになりそうだ。
予定では、なんとか9〜10ラウンドだったけど...現実は6ラウンドがやっとだった。
それも、今年は3月25日の1回目のラウンドで左足ふくらはぎの肉離れをやってしまい、それが4月半ばまでは激痛で歩くのもやっと、5月にやっとラウンドが出来るようになったけど、痛みは5月中かかっても治らなかった。

それでも、さあ暑くなるまでに出来るだけのラウンドを、と思っていた5月28日...朝起きたら脈拍が異常に早くなり、乱れてもいる。
特に前日に思い当たる事もなく、普通に晩酌して寝たんだけど。
普段は53〜58くらいの脈拍が、異常に速い110〜120で乱れてもいる。
すぐにタンボコール100mgとリクシアナを飲み、終日安静にしていたが...乱れは治ったものの脈拍は多いままで戻らない。
その80〜100の頻脈は、薬を飲み続けてもずっと高いまま続いている。

ネットで調べると、カテーテルアブレーション手術は術後5年経過で約3割に再発する傾向があると言う。
5年前に手術をして頂いたN先生にメールをして相談した結果、明日詳しい診察と相談となった。

現在の俺の「脈拍が今までの倍」の状態でゴルフをする訳にもいかず、今週はキャンセル...そして、未練の残る来週と再来週のラウンド予定も、多分キャンセルとなるだろう。

それでなくても残り少ない時間なのに、足を痛めたり不整脈が再発したり...戦争や疫病に比べたらずっと小さな出来事なんだけど、亡くなっちまった古い友人よりはずっとマシなんだけど...色々と、本当に人生ってのは予定通りにゃいかないもんだ。

...秋にはゴルフ出来るかなあ。

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・16

 

駒澤でゴルフクラブが造られ出したのは1920年。この年の初夏から夏にかけてSt.アンドリュース出身のトム・ニコルが当時米領のフィリピンからやって来て、同地に短期所属した際の事だ。
アメリカの新聞にはニコルはコース設計(軽井沢GCの事だろう)でも呼ばれたとある。また、ボール等の用具提供をしていた初代キャディマスターの山田某や、最初の来日プロ、S・グリーンも(所属の上海GCでクラブを造っているので)クラブの修理などを行っていたのでは。と推察されるが、明確な記録がないので1920年起源説を取る。

当時キャディマスターであった安田幸吉曰く、ニコルはクラブのパーツや工具も持ち込んでいたので、レッスンが無い時や雨天の際などはクラブ製作を行っており、その際には安田を呼んでシャフトの磨き上げなどを手伝わせた。 
(筆者はヒッコリーゴルファー所有のニコル発注アイアンの組み立て直しを行ったがあるが、国内で入手された物だったので、駒澤時代の品かもしれない)

安田も最初は半強制的にやらされていたが、次第にニコルの技術や手際の良さに魅入られて、彼から修理製作技術を手取り足取り教えてもらい、ニコルが駒澤を離れる時には工具一式を譲り受け、クラブの修理製作を始める事となった。

が、最初は作業場が無かったそうで、クラブハウスの一角に作業台を置いて安田やアシスタントとなる浅見緑蔵がクラブを弄っており、造ったウッドも糸でグルグル巻いたような仕上がりであったと。と1937年初頭に『Golf(目黒書店)』の企画で行われた国内クラブ・ボール両メーカーの座談会(2~3月号掲載、安田・浅見と中村兼吉らプロも参加)で述べられている。
それが1925年の赤星六郎の帰朝と入会に端を発するゴルフ全般の最新知識啓蒙から、東京GCに於けるプロの立場が明確化された事により、敷地にプロショップが建てられ仕事がし易くなり製作にも弾みがついた。

同時にクラブの修理製作が出来る者が登場した事により、東京一円の百貨店や1925年からマグレガーの東洋総代理店をしていたイシイカジマヤの様なゴルフ用品取り扱いのスポーツショップ等が、クラブの日本人向け調整や修理依頼に応える様になるべく、安田の許を訪れてその技術を学び、中にはイシイカジマヤ従業員で後にマツダゴルフを興す松田久一の様に安田と事業を行うなど公私において長い付き合いをする者も現れている。
※1910年前後から東京の運動用具製造販売業者たちがゴルフ用具に興味を示し、研究開発をしているが、直接のつながりは無かったようだ。

また安田は1927年に相馬孟胤からの依頼で昭和天皇の為のドライバーを製作しているが、この事は日本のゴルフ史・クラブ製造史上に於いて注目すべきことだろう。
(J.H・テイラーを始め海外のプロやクラブメーカーが昭和天皇や皇族の為にクラブを造った話は色々残っているが、国内プロで天皇の為に造った記録がハッキリ在るのは彼くらいだ)
安田は戦前期の関東のクラブメーカー達に影響をあたえており、関西クラブメーカーの祖である福井覚治や佐藤満と共にゴルフ用具製造史上のキーパーソンであるが、その始まりが“異人さんのプロ”から半強制的にやらされたシャフト磨きである事は物語的でもある。

と、ここまでは国内クラブ製造史関東編の1ページであるが、リアルタイムの出来事としては、こうクラブを色々と出来る者が倶楽部にいれば当然駒澤雀達は放っておかない。
当時主流であったヒッコリークラブはシャフトの反り・曲がり、ネック糸やグリップの緩み、アイアンヘッドの錆及びウッド・アイアンのホーゼルガタ付き等々ガタが出ることが在るので、安田が回想記で語る様にそれらの手入れや修理で中々忙しかったというが、それと同時にクラブを『ああしてくれ』、『こうしてくれ』調整を持ち込む熱心者がショップとクラブハウスを行き来する様になった。

日本郵船の林民雄はコースに来るたびにウッドの重量調節を求め、安田は鉛を叩いて造った板を張り付けたり外したりを繰り返した(当時ウッドは鉛をバックフェースに入れるのが一般的であったので、それを変にいじらない様にする為だったのだろう)。
名手赤星四郎も1920年代後半にはクラブフェースのトウやヒールをどう削るか(ウッドならばバルジの付け方で在り、アイアンならエッヂラインの流れだろう)の調節などを熱心に行い、安田が『赤星様程弄る方は在りません』と語っていたと1931年12月に雑誌『Golf(目黒書店)』の企画で行われた関東の第一人者らの座談会で相馬孟胤が述べている。

※筆者も先日アメリカ議会図書館HPの新聞アーカイヴで発見したのだが、1921年3月に赤星四郎・六郎兄弟が冬季フロリダ選手権に参加した際、彼らのゴルフを報じた記事の中にゴルフ全般を学ぶため会場のSt.オーガスチンGCのアシスタントプロ兼クラブ職人の下でクラブの修理製作を学んでいた事が書かれている。
赤星兄弟が後に国内クラブメーカー等に製作のアドバイスをしている事を考えると色々こだわりがあったのだろうし、ただ注文するのではなく一緒に作業場に籠っていたのだろうか?

云われた赤星は『それがモッと酷くなったのが相馬さんで一日の中でどれだけ直されるか判らないそうだ』
とやり返しているが、この類で特に酷かったのが駒澤の仲間、徳川誠(徳川慶喜九男、男爵)だそうで、彼はシャフトの調節に夢中になったらしく、
一本のクラブの長さを詰めてくれ、径を細くしてくれ、太くしてくれ(!?)とひっきりなしに持ち込むので安田も音を上げて、ある時嫌になってしまった彼は何もせずに『徳川様、ご注文通りに仕上げました』と渡したのだが、徳川は『ああ安田、ご苦労様』と気付かずに持ち帰ったという。
こういった話は安田のアシスタントから名古屋GC初代プロとなった大木鏡三や、関東クラブメーカーのパイオニア有賀英雄の甥で有賀ゴルフを支えた斎藤今朝雄等が実体験として書き残しているが、ゴルファーの心理状況を表す事例でもある。

 

 

 


主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)

5月の終わり...予定は続いていたんだけど...

予定では、今年前半のシーズンに後2〜3回のラウンドを予定していたんだけれど...どうも俺の前半シーズンは、終了したっぽい。

問題は...色々あって、今週の土曜日に方針は決定する。
もう俺も、親父の死んだ年を2年も超えてるんだもの(正直自分じゃ信じられない)、何があってもおかしくは無い。

何が何してどうなるか...
仕事は日々描いてるし、燃えすぎる太陽を避けて日陰を選んで生きている。

まだヒッコリーゴルフ には満足してないし、集めた糸巻きボールも15ダースはある。
ま、秋のシーズンまで4ヶ月くらい夏休み...それからだ。
あ〜あ。

今年6ラウンド目・茨城のロックヒルGCに旅ゴルフ

「ちょっと日帰りじゃ遠いよなあ」と言われるコースへの「旅ゴルフ」。
奥さんの希望は広くて気持ちの良いコース。
運が良いのか悪いのか...昭和庶民ゴルファーの悲劇だった「会員権バブル」の崩壊の結果、東京からは「日帰りじゃあちょっと遠い」という場所に、ちゃんとした設計家の「まとも」で豪華なコースが安価でプレーできると言う、「もう二度と無いであろう好ゴルフ環境」が、今一時的に存在している。
この「勿体無いような良いコースで安くプレー出来る」ゴルフ環境は、我々世代がゴルフから離れるとともに崩壊してしまう「時代の徒花」だ。
だけど、それはみんな俺の人生より後の話...だから「そんなの関係無え!」と、残り少ない自分のゴルフ人生を我儘勝手に楽しむ不良老年グレゴルファーを、俺は全うしたい。

で、今回は口コミで評判わりと良い「ロックヒルゴルフクラブ」。
オープンコンペもやっていたんだけど、今回は奥さんの希望で普通の「練習ラウンド」(俺にとって、ね)。

 

 

コースはレイクコースのインスタート。
まあ...評判通り広々ゆったりの綺麗なコース。
奥さんは「安心して打てる」と、ノープレッシャーでショット...気持ちの良い当たりが多いので機嫌が良い。

ただ、実際にラウンドしてみると、前回の風月ほどではないが打ち上げホール(登りホール)が結構多い。
俺はまだ痛めた左ふくらはぎが完治してなくて、足を伸ばす時にふくらはぎの付け根(特に膝の裏側)の部分が特に痛むので、左足に体重をかけないようにして歩くのがしんどかった。

 

 

ティーショットのドライバーは、悪くてもソコソコの当たりとなり、まずまず満足(飛距離はあまり出ていない...200いくかどうか?)。
セカンドは今までの結果を学習して、フェアウェイウッドは一切使わず、2アインかドライビングアイアンで打つ。
流石にフェアウェイからのドライビングアイアンは難しく、なかなかいいショットは打てないが、2アイアンは当たりの差によって飛距離がかなりばらつくものの、概ね3打目を100y以内に運んでくれる。

今回の問題は、この残った100y以内だった。
ナビや距離表示計は持っていないが、「100y以内は感性の問題」と思っている俺の感覚に自信が無くなる。
結論から言うと、普通のショットは予想通りだったのに、100ヤード以内のコントロールショットがほとんどショート気味の落第点。
乗ればパーやボギーを普通に取れるが、良いライから大ショートしてグリーンを外すことが殆ど...そして、同じニブリックではアプローチが殆ど寄らないし、ついでにパットが入らない。
ハーフでパーを3つ4つ取っても、他のボギーオンしなかったホールがトリやダブルパーの大叩きホールになる。
今まで使っていたニブリックが、今回は「全然」距離が合わなかった...これは結構ショックが大きい。
...ホント、俺のヒッコリーゴルフ は進歩しねえや。

そして、今回短い距離用と考えて持って行ったマッシーが、軽くてアップライトすぎるので左にしか行かない...まっすぐ行くようにすると、他のクラブと全く違う構えやスイングになるために...レギュラークラブとしては、完全ボツ。

 

曇りの予報だったのが、「晴れ」に変わって...木陰に吹く風以外はほとんど夏ゴルフだった。
まだ風が心地良いけど、酷暑の夏ゴルフの前にあと何回ラウンド出来るのか。
自分の予定では、あと2回か3回...それで多分季節は「梅雨」に入り「夏」に続くゴルフ休眠期間になる。
そのあとは9月の終わりか10月の涼しい風が吹く日に、今年後半のゴルフを再開する。

 

もう一回旅ゴルフ練習ラウンドして、それからオープンコンペが期末テスト、かな。

また一つ星が...

昨日、パソコンに向かって仕事をしている時に電話があった。

以前、と言うより大昔、「俺がゴルフイラストを週刊GDで書き始めた当初」の担当編集者だったK氏が、急な病気で亡くなった...と。
年齢は少し上で、当時の編集長の命令でゴルフを始めた後、このK氏と一緒に組んで仕事をすることが多かった。
当時はプロの取材に編集者とカメラマンとイラストレーターがついて行って、一緒にラウンドしながら仕事を進めることが多かった。
だから、(後から考えると実にラッキーな事に)俺はゴルフを始めた当初から、当時一流のゴルファーとラウンドする事になり、その技術や心情を学び知る事が出た。
取材対象のプロはツアープロが中心で、少し前のツアー優勝者や日本オープン優勝者や、売り出し中の新人や、日本アマの優勝者などの強豪たちのゴルフに数多く接してしまうと、その後プライベートのゴルフで一緒になるアマの「自称上級者」のゴルフにビビることは全く無かった。
そんな俺の「ゴルフ、仕事もプレーもやり始め時代」に一番多く一緒に回ったのが、このK氏だった。

その後、俺が大ファンだった(今も、だ)挿絵画家の山野辺進氏を紹介してくれたのもK氏だったし、その山野辺さんとの泊りがけ宴会ゴルフを楽しんだのもK氏がセッティングしてくれたものだった。

その後、k氏が担当を変わり、編集部を変わり、俺が他誌や新聞イラストに軸足を移すと伴に付き合いは薄くなって...長い時間が過ぎた。

それがいろいろな事があって、去年から数十年ぶりに日刊ゲンダイ誌上で一緒に仕事をし始めた。
電話で何回か話した限りでは、「今も元気にツアーの取材も続けている」という事だったのに...

急に体調を崩し、連載も休載して...あっという間だった。
コロナ騒ぎのおかげで「久しぶりの一杯」をする事も無く、一緒にラウンドをする事も無く...
コロナのおかげで「家族で静かに」ということで、別れに顔を見る事も無く。

 

だけど、生きてる限りの俺の勝手なお祭り騒ぎは...全米プロなんかよりもずっと面白い自分のゴルフを遊び続ける。
そう...フェアウェイウッドが当たらなくなったのは、年のせいで老化のせいで、70肩のせいで・・・俺のせいではない。

この前多かった「アイアンのどダフリ」は、ふくらはぎ痛で無理してスイングしてる為左足重心に出来難かったからで...俺のせいではない。

今後、少しずつクラブを入れ替えて、レギュラー10本前後で糸巻きボールで。

 

なあ、久保田さん、あなたに俺のこの「ヒッコリーゴルフ」 を見せたかったなあ...

初心者だった頃の俺の世話、どうもありがとうございました。

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・15

 

唄の題材にもなった大正12年9月1日の関東大震災は京浜を中心に甚大な被害をもたらし駒澤も被害からは逃れられなかった。
当時職業ゴルファーとなっていた安田幸吉によると、午前中は雨が降っていて、クラブの手入れをしながら“お客も来ないから午後にプレーをしようかな”と考えていた矢先に起こったという。


敷地の被害は駒澤村の建物同様にクラブハウスが傾いたのと壁土が落ちた程度で済んだが、問題は会員たる駒澤雀達であった。彼らは日本の政財界の重要人物で在るゆえに被害の酷い京浜間に居住していた為だ。


幸い、軽井沢(及び軽井沢GC)で夏休みを過ごしている者が多く居たので直接的な被害を受ける者は少なかったが、中上川次郎吉・子爵井上勝純・松方義輔らは邸宅が全焼、赤坂に住んでいた川崎肇は邸宅の煙突倒壊で夫人を喪い、森村市左衛門は邸宅の延焼で井上準之助から預かっていた東京GC創立からの出資帳を焼失し、倶楽部初期の詳細な記録は歴史の彼方へと消えてしまった。

 

佐賀の鍋島直映は永田町の邸宅が延焼した際、前年優勝した摂政宮(昭和天皇)台賜の摂政杯を御真影や各国公使からの贈り物とともに避難させるのに三人の家令共々非常に難儀した。何しろカップの直径が45㎝越えで更に両サイドに大きな取手が付いており、重さが6.75㎏、加えてそれを収めるケースは紫檀製の立派な物であったのだから非常な重さに成り、車に乗せるのも一苦労で渋谷松濤の別邸まで命からがら運んでいる。

 

中上川勇五郎や伊地知虎彦は歩き詰めで関西へ避難(前者は京都に定住)、大谷光明は西本願寺の『浄如上人』として震災当日から築地本願寺で各種慰問事業の指揮に奔走していたようである。

 

横濱は建物の倒壊と大火災に見舞われ市街地が壊滅状態になり、同地に住んでいた1921年度日本Am勝者の駒澤雀、田中善三郎は無事が確認されたものの、名誉会員であった根岸のG.G・ブレディはその有様にショックを受け(加えて根岸の会員達にも複数人死者が出た)、墓も買い骨を埋める気でいた日本から去り(後スイスに定住したという)、同じく名誉会員のF.E・コルチェスターもこの為か同様に日本から去ってしまった。


また当時駒澤に出入りをし、夏には茨木CC設計の為に関西出張をしていた来日プロのデヴィッド・フードも同地に住んでいたが、彼は傍にいた人が倒壊した柱の下敷きになる様な死地を潜り抜けた事が、命からがら横浜から(フードが長年働いていた)ニュージーランドへ脱出した英字新聞の広報部長によって『彼から訊いた話』として、現地やオーストラリアの新聞で掲載されたフードの日本での活動記事の中で紹介されている。

 

 

閑話休題
東京GC50年史に『井上準之助が震災翌日に駒澤を訪れプレーをした』という話が掲載されている。これは『Golf Dom』1923年の10月号の巻末コラム『19Th HOLE.』に載っている話が元であろうと考えられるが。その内容というのが、
『東京倶楽部で、震災に對する遠慮も遠慮だがrecreationも大に必要だと云ふことになつて、翌日揃つて駒澤に行つて見ると、井上藏相の顔が見へた。藏相が大地震大火災の中で日銀の防火を挺身指揮し、續いて非常時に於ける金融財界に對する處置に多忙であることを知るものは其餘裕綽々たる様子を一層賴もしく思つたとのことである。(原文ママ)』
というものであるが、ごらんの通り日時がはっきりしていない。

もし本当に翌日に出かけていたとするならば、被害確認に来たのが誇張されて伝わったのか。と考察している史家の方が居るが、
筆者としては、もしこの話が本当に9月2日として、南関東一円の惨状とクラブハウスが傾いた事などを考えると、プレーをしたとしても状況確認で敷地を歩き回るついでにボールを打った程度ではなかろうかと考えていたが、1943年に太平洋戦争の悪化で駒澤が閉鎖となった際『Golf Dom』10月号に掲載された特集に帝国ホテル支配人の犬丸徹三が寄稿した『駒澤回顧』の中に
『當時、大藏大臣だつた井上準之助さんが、あの大正十二年の大震災の直後、駒澤ゴルフ場に姿を現はし、獨りで、コツコツ、ゴルフをやつて居られた時だ。『こんな時には、ゴルフに限るよ』とのことだつた。其の心境は、ゴルフアーでなくてはわからぬと思ふ。(原文ママ)』
という、犬丸がプレーをしていた井上と出会い、彼が語った事を書き残しているのを発見した。

この事を鑑みると井上が訪れたのは9月2日ではなく被害状況がはっきりとし、復旧対策を始めた頃ではなかろうか。と思うのだが、どの様なモノか。
現在では井上の行動は震災から1カ月も経たない時分であれば『不謹慎だ』と猛バッシングに遭うであろう事だが、挫けそうな災害の対応に追われる中、殆ど人が来ない駒澤で静かにボールを打って英気を養おうとした彼の気持ちは犬丸の云う様にゴルファーとして理解はするが、しかし…

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)

俺の今年5ラウンド目...風月CCのオープンコンペ

 

今回は俺一人でオープンコンペ参加。
本当は昨日別なコースで参加予定だったんだが、奥さんの大事な予定を忘れていて急遽この日の風月Ccのオープンコンペに参加となった。

不思議なことにこのコースの周囲のコースはほとんど全部回っているし、隣の烏山城CCや千成とかジュンクラなんか複数回行っているのに、この風月を回ろうという話は1回も出なかった。
なので、残り少ないゴルフ人生に悔いを残さぬように一度は回ってみるか...なんでも「お昼はステーキサービス」だし、総経費も安いし、ネットの口コミもそう悪いことは書いてないし。

奥さんは毎週は疲れると言うので今週はお休み、俺一人の旅ゴルフでもあるのだが...1万円を超えるのが普通の千葉房総方面に比べると、コース内容が良い割にこの近辺のコースは安いので助かる(ほぼ半額)。

さて、自分じゃ真面目にこのコンペ用のハーフでスコアを作りに行くつもりだった。
なので、今までトラブルの主な原因だったフェアウェイウッドのスプーンとクリークを外し、ドライビングアイアンとアプローチクリークを(フルショット)用に入れた。

 

だが....
1番・パー4・375y...1打目ドライバー・グッドー2打目(なんと今までミスの無かった8番ウッドが、ど先っぽで右へ大ミスー3打目マッシー・ダフリショートーマッシーニブリック4オン〜2パットでダボ...6

2番・パー3・184y...ティーショット・アプローチクリーク・グリーン右−2打目ニブリック・オンー3pでダボ...5

3番・パー4・390y...1打目ドライバー・グッド−2打目マッシー・グリーン手前50yー3打目二ブリック・3オンー2パットでボギー...5

4番・パー5・542y...1打目ドライバー・まあまあー2打目・2アイアン・まあまあー3打目・8番ウッド・また大ミス右−4打目・8番ウッドまたまた大ミス・トップー5打目ニブリック・オンー2パットでダボ...7

5番・パー4・389y...1打目ドライバー・当たり損ね・ー2打目マッシー・そこそこー3打目ニブリック・ショートー4打目マッシーニブリックー2パットでダボ...6

6番・パー4・336y...1打目ドライバー・まあまあー2打目マッシー・トップー3打目ニブリック・ドダフリー4打目ニブリック・どダフリー5打目マッシーニブリック・1ピン・2パットでトリ...7

7番・パー3・148y...1打目マッシーダフリショート・2打目ニブリック・だフリー3打目ニブリックオン・2パットでダボ...5

8番・パー5・543y...1打目ドライバーまあまあ−2打目2アイアン・グッドー3打目2アイアン・まあまあー4打目マッシー・左ー5打目二ブリック・オン−2パットダボ...7

9番・パー4・352y...1打目ドライバー・まあまあー2打目マッシー・だフリー3打目ニブリックおんー2パットボギー...5

で...トータル53(泣)。

 


やっぱりこれが実力だなあ...とは言え、あえて言い訳を書かせてもらうと「距離が長すぎる!」。
とてもヒッコリーゴルフで楽しめる距離ではなく、悪いけど言わせてもらえば「ティーショットで打ち下ろして、グリーンに打ち上げる」の「昔風の作りのホール」が基本なんだけど、周りのコースに比べてもその「打ち上げ」が厳しすぎる...まずグリーン面は見えず、その傾斜はジジーゴロシの「登山」のようだ。
なんでも追加の金を払えばコース内走行の出来るカートがあるというから、足腰に自信の無い人はそれを利用したほうがいいと断言する。

 

俺はいつ左足がダメになるか戦々恐々...できるだけ歩かないでカートに乗る作戦で、なんとかハーフをもたせることが出来た。

 

 

 

コース内はきれいに整備されていて、昼にはステーキがサービス。
コースとして精一杯の経営努力をしていて、良い評判は口コミ通り。

午後のラウンドはシニアティーからプレーして、いきなりバーディー逃しのパー・パー発進から余裕を持って楽しめた。
スコアはつけないつもりだったけど、これなら40台は楽に行けるな、という手応えがあって色々と今後のゴルフの実験をしてみた。
百年もののウッドクラブを使ってみると、やはりシャフトがシナリ過ぎて左に巻くボールばかり出る。
アプローチクリークでは、普通のショットで100y前後を打つ時の加減の仕方が難しい。
今回必要と感じたのが120から130yを安定して打てるマッシー。
今のマッシーは普通に打って130〜150y、マッシーニブリックが80〜100y...シャフトがみんな違うので、加減したショットが難しい(本当は練習すれば解決するんだけど、百年生きてきたクラブの寿命を縮めそうなのでそれができない)。
なので、手持ちのマッシーからちょうど良いものを探したい。

フェアウェイウッドは本当に打てなくなった。
大トラブルの元凶だった3wと5wを外しても、博士の作ってくれた8wはミスが少なく大丈夫だったのでバッグに入れていた。
...今回はその8wが大ミスばかりで1回も当たらない。
頭がクラクラするが...まあ、当分はウッド1本で行くとしよう。

で、オープンコンペの結果だ。
去年は本当に賞に絡まなかった...優勝だの準優勝だのは論外としても、5飛びの「飛び賞」も絡むことが無かった...ことごとく1番外れという情け無さ。
それが久しぶりの35位入賞!
上位入賞では無いのでそんなに高価なものがある筈はないが、みんなの噂では「賞品は結構良くて肉が中心」というから期待も膨らむ。
もらった段ボールは思ったよりもずっと重く、片手では持てないほど。
「今日の賞品はサービスだそうです」という係の女性の言葉にも期待が膨らむ。

開けたいのを我慢して帰宅して、奥さんと二人でワクワクしながら箱を開ける。
と、...出て来たのは「ハンバーグ」
それも、なんと凍った奴が80個!!!
「こんなの入れる冷凍庫は無いよ!」という奥さんの悲鳴。
「じゃあ、今から近所の人から奥さんや娘の友達に全部配っちまえ!」という俺の号令で、すぐに10個くらいを残して残り全部を「凍っているうちに」と配り尽くした。

「なあ、同じハンバーグを80個なんてあんまりだよな」
「ハムとか生肉とか色々と種類があればねえ...」
なんなんだろねこの賞品...

 

...晴れると日差しが痛いものの、まだまだゴルフを楽しめるシーズン内...本格的な夏が来る前に、本格的な梅雨の雨が来る前に、出来る限り毎週1回のゴルフを続けたいと思う。

で、天気予報見て来週も行くぞ、旅ゴルフか一人参加のオープンコンペ。