ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

今年前半のハイライトの5月だよ

寒過ぎず、暑過ぎず、風も心地よい最高の季節...長くしつこかった花粉症もやっと治り始め、緑は濃くなりツツジや山フジが咲き乱れ、このゴールデンウィーク中に済ませてしまおうと田んぼには水が入り、カエルの合唱が聞こえ出す。

以前なら暑くなる前の旅ゴルフ最高の季節として、色々遠出もしたものだったけど....

世の中はまだまだ武漢肺炎が収まらず、プーチンが起こした自滅戦争はまだすぐには終わるはずもなく、ザワザワとした雰囲気のきな臭さ・落ち着きの無い燻った空気は世界中に漂っているように感じる。

爽やかな五月の風の中に、どこか「焦げ臭い」2022年の春だ。

それでも、五体が元気なら多少無理をしても残り少ない人生を楽しみに出かけたいもんだけど...まだ左足のふくらはぎの痛みが全然取れない。
もう一ヶ月と一週間も前の、今年初ラウンド中にだんだんと痛くなったものだけど、今でもふくらはぎを伸ばすような歩き方をすると激痛が走る。
階段を降りるときにふくらはぎが伸びると強烈に痛むので、やむをえない場合は一歩一歩右足に体重をかけて降りている。

ただ、この前のようになるべく左足を使わないよう意識して動けば、なんとかラウンドは出来そうなのが微妙...また行きたいんだけど、大丈夫かね?...俺。


そんなことを考えているのが、「もう5月」なのが恐い。
2022年になって、「俺は一体何歳になったんだ?」なんて唯でさえ数えるのが恐い年齢になって行くのに、それがもう5月だなんて!


人生、間違えて特急券も持たずに猛スピードの「超・特急列車」に乗っているみたいだ。

自分じゃ、昔からのんびり「各駅停車」の人生で、特急券なんて買ったことも無いのにさ。

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・14

駒澤に雀たちが集まり出した頃の事。彼らはプレーに試行錯誤し、用語なども判らないのと同様に、ルールの方も解らない状況が暫くあった様だ。
何しろコースに芝張りをしてそれほど経ってない時に、兎角ノータッチにせねば成らない。と張り合わせの隙間に挟まったボールをせっかく植えた芝ごと打ち飛ばしていた様な話が残っているのだから。

ルールが充分解っていないという事は、内輪でのプレー―ならば御目溢しが在ろうが、他の倶楽部に出かけて競技に出たり、対抗戦で戦うとなると当然厄介な状況を巻き起こす。

 横浜根岸で行われた1916年の日本Amで初めて日本人が参加した。プレーヤーの名は一色虎児。
商社マンとしてアメリカ滞在中にゴルフを覚え、前年帰国した際に駒澤雀の一員と成った人物で、この挑戦では川崎肇や高木喜寛などが応援に会場へ同行している。
 結果は98・102の200で優勝した上海のバレット大尉に43打差のビリから2番目というモノであった。この理由として、試合が台風直撃下に予選が行われた1931年大会まで最悪のコンディションと云われる土砂降りの中で行われていた為と見るべきであろうが、それだけでなく他の外国人プレーヤー達から『球が動いた』とか『スコアが違う』等、嫌がらせ的クレームを度々受けた為実力を発揮できなかった。という話も伝わっている。

アメリカ仕込みで、俱楽部の主要選手で在った彼がそういう目に遭ったというのならば、他のプレーヤーではどんな事になったか。駒澤雀側のルール認識の甘さと外国人プレーヤー(特に横浜の面々)らの差別心が混じった侮りが化学反応を起こしトラブルも度々起きたらしい。
この日本Amの後、会場であった横浜根岸のNRCGAでキャプテンカップが行われた際の事、掛け持ち会員であった駒澤雀の高木喜寛はハンディ15ながら調子が良くトントン拍子で決勝まで進み、縁深いG.G・ブレディと当たった。
丁度これを報じていた『The Bunker』は準決勝の結果を記した所で廃刊してしまい、勝負の内容は判らなくなってしまったが、決勝の日に行われた東京GCの在英大使歓迎イベントの記事の中で優勝した高木がそのまま駒澤に駆けつけている事が『Japan Times』の記事に掲載され、それが『The Bunker』最終号である1916年11月号に転載されている。

試合について高木が1930年2月にパイオニア座談会(この部分は『Golf Dom』1931年1月号掲載)、1931年に雑誌『Golf(目黒書店)』(同年11月号掲載)で語った所によると
試合中ラフから打った際に『ボールが動いてたよ』とクレームがあり、ペナルティを取られてそのホールを落としてしまう。それでも好調をキープし遂に優勝するのだが、最終ホールでのパットが決まった際、クラブハウスに居た輩がそれを見るやグリーンの方へやって来て『お前はパットする時にボールを動かしただろ、アゲインストルールだ!』と難癖を付けてきた。
“そんな事してないのにコイツは何を言ってるのだ”とアタマに来た高木は『動くワケ有るか‼』と抗議の声を上げた。
幸いそれでその場は収まり、自身の優勝も変わらねども、彼にとってこの日は勝利を喜ぶと同時に、ゴルフ規則の面倒さと喧しさを実感する一日と成ったのである。

この話は『Golf(目黒書店)』の編集記者でJGA事務局長を務めた史家の小笠原勇八によって後年『週刊パーゴルフ』における長期連載『真相日本のゴルフ史』第三話(1979年11月13日号)で、これは1916年の東横対抗戦に於ける出来事で、外国人ゴルファーの横暴に日本人ゴルファーが耐え忍び、こういった所からJGA創立へと繋がって行った。と書き、JGAや東京GCの年史などに引用されてきたが、当の高木本人は
『然しインポータントの競技で日本人が勝つたのは此時が始めてゞ西洋人も機嫌が悪いので祿々グッド バイもする事も出来ず歸つた事がある。(笑聲)』(原文ママ
とパイオニア座談会で語っている事から、小笠原が云う様な『屈辱に憤慨する』というよりも『厄介だったが懐かしき思い出』といった感じだ。

とはいえこのようなトラブルが続くのは今後の為に成らない。当然ルール研究が始まり、特に熱心に行っていたのは大谷光明で、鍋島直泰(日本Am3勝)によると『よくイギリスのゴルフ雑誌などを読んで勉強されていた。まるで仏学者が、仏典の解釈するのに似たひたむきなところがあり『それは何条の何項だ』と即座に答えが返ってきたものです』とのことで、
大谷本人もR&Aに数えきれないほど質問状を送ったことを述べており、松本虎吉の国内最初のルールブックの翻訳校正の協力に始まり、大競技における競技委員としてルール解説や、日本のルール研究の大著『ゴルフ規則と判例』刊行、JGAの公式ルールブック制定委員の一人として日本人ゴルファーが判り易い表現をどうするか議論と練り上げを行うなど『ルールの神様』として、亡くなる直前まで日本ゴルフ界に欠かすべからざる存在として頼られていた。

そんな彼が第一線の競技者からルール研究者へと移行していた頃に『Golf(目黒書店)』の取材で『僕はルールの無知なるが故に競技に破れるといふ事は嫌だから随分勉強もし、又非常に興味を持ってゐる(1933年3月号)』と語っている所から、やはり当時の駒澤で色々あったのは間違いなさそうだ。

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)

2022年3ラウンド目ーーーオープンコンペ1回目・後半練習ラウンド

今回のラウンドは、全く練習はしていなかったのと(百年もののヒッコリークラブでは普通に現代ボールを打てば絶対に寿命が縮まるため)、1ヶ月前に痛めた左ふくらはぎの痛みが一向に引かなかったために、最低何とか9ホール回ること、18ホール回れれば大成功、という状況だった。
ただ、絶対にパーオン出来ない状況でも、ある程度ヒッコリークラブを「謙虚」に打つことに慣れては来たので、頭を使えばボギーペースではまとめられると言う(責任持てない)「自信」はあった。

スタート前、左足のふくらはぎ周りに湿布をベッタリと貼った上に、しっかり締め付けるアンダーウェアを履いて、さらに痛む時にはサポーターで締め付ける気で用意していた。
軽く素振りを繰り返して、クラブヘッドの遠心力を生かした振り方を探し、足が痛くならないスイングを心がけた。
グリップを極力柔らかく、手首も極力柔らかく、絶対に足腰で踏ん張らないスイングだ。

 

 

使ったボールはこれ。
本当はスモールボールの方が感触が良いのだけど、以前コンペでスモールボールを使ったプレーに文句が出た事があったので、スコアを正式につける時にはラージボールだけを使う事にしている。
自分のプレースタイルは完全ノータッチ、ワングリップのみOKあり、後ろが詰まってなければOBは打ち直しで基本前進ティーは使わない。
ただ、コンペ中のローカルルールで「前進ティー使用」と決まっていたら従う。

 

 

しかし、後半は基本練習なのでなくしても良い「一度は使ったボール」とクラブへのダメージを小さくするためにも、古びて黄色になったスモールボールも使う。
(この腐った色のスモールボール、飛ばないけれども打感は非常に良い。)

基本後半ハーフは前半で失敗したことの検討ラウンドだが、一番問題のフェアウェイウッドでの「トンデモミスショット」の自分なりの解析はイラストの通り。
それを再現したり、違う感覚で振ったりで...結局後半はボール4つをOBでなくすことになった。

 

 

 

例えば、つま先下がりの斜面から思い切りフックをクリークで狙ったら、本当のトウの先っぽに当たってボールは真右に飛んでOB。
打ち直しでまっすぐ叩き込んだら、まあまあの当たりでフェアウェイへ。

例えば良いライからスプーンで低いドローボールを打つつもりが、ナイスショットで左OB(これはまっすぐならよく飛んだ)。
で、同じライからフェードイメージで打ったら、思ったより距離が出てパー5の2打目だったらグリーンエッジのイーグルチャンス(ほぼ2オン)(笑)。

今回ミスの多かったアプローチは、色々とクラブを変えて「転がし」の練習。
結果、ピン大オーバーが多くてうまくいかない。
本当は上げて止めたいのだが、腐った糸巻ボールは驚く程スピンがかからないので、バンカーや池越え以外は「転がし一辺倒」としているんだけれど...検討の余地あり、だなあ。

アイアンショット(基本150y以内)は、かなりマッシーやマッシーニブリックの「距離」が分かってきた。
これ以上の距離のクラブの良いのが、まだ見つからない。

足の方も、痛いは痛いが悪化することも無く、次のゴルフもできそうだ、という自信がついた。

練習したハーフは4OB(全て打ち直しで前進ティー使用無し)と、OKパットを多めに貰ったのでとても正式なスコアとは言えないが...ティーショット順番決め用のメモでは、パー1・ボギー3・ダボ2・トリ2・ダブルパー1..で53。
この4OBは、フェアウェイウッドでのミス承知の実験だったので、ダメージは無し(打ち直しショットは全て良かった。)。

歳をとった今の俺の体での、「昔の感覚でのドローやフック」はとんでもない大ミスになるということはよく分かった。
ただ、「あるいは原因の一つかも」と考えている「ヒッコリーシャフトのトウダウン」は、どのくらい影響があったのかまだ確信無し。


この調子で暑くなるまでに出来るだけラウンドしたい。
光は見えてきた...いい感覚がある。

2022年3ラウンド目ーーーオープンコンペ1回目

確かに狭いし、高低差があるし、グリーンも速くはない...が、昨年何度か回って、ヒッコリークラブで遊ぶゴルフにはちょうど良い・.面白いと感じたコース、「うぐいすの森ゴルフクラブ水戸」のオープンコンペに参加してきた。
前半9ホールのコンペなので、この9ホールを真面目にヒッコリークラブと糸巻きボールでスコアをつける。
で、後半の9ホールは前半9ホールの結果を見ての練習とする...そんなつもり。
コンペ自体は「ペリア」なので、まず上位入賞は無理...だけどここの5飛び賞は牛肉なので、一度はとってみたいもの。
何しろ去年一年は、どこでも全部「ハズレ」だったんだから。

 

それと、今の季節はこの辺りはツツジヤマフジが咲き始めて、非常に美しい。
プラス、先着39人に差額無しで注文できるステーキ定食が嬉しい。

 

天気は曇り時々晴れで、気温は15度くらいから20度くらいとまさにゴルフ日和。
時折吹く強めの風は北風っぽくて、ちょっと寒いくらい。

同伴競技者には写真のMさん・84歳がいて、なんとも見事にボールを引っ叩く...前半は43で回って、エイジシュートも見えてくる腕前。

で、俺の9ホールのヒッコリーゴルフを書いておく。
ボールは30年以上前の(もう糸ゴムが腐った)ラージの糸巻きボール、MaxfliDDHを使用。
ティーはシニアティーを使用で、パー3とパー5のホールではレギュラーティーより結構前だが、パー4ではほとんどが同じティーグランドの前と後ろの違い程度なので、距離はレギュラーティーの距離を書いておく。

インスタート
10番パー4・403y ...7
  1w〜まあまあ クリーク(5w)〜OB 打ち直し・クリーク〜まあまあ  残り100Yーマッシーニブリック〜1ピン 2パット 「トリ」

11番パー3・シニアティーは100Yくらい...4
  マッシーニブリック〜1オン 3パット 「ボギー」

12番パー4・325Y...4
  1w〜グッド マッシー〜グリーンわずかに手前 マッシーニブリック〜1ピン 1パット 「パー」

13番パー5・466Y...5
  1w〜グッド クリーク〜グッド マッシーニブリック〜5m 2パット 「パー」

14番パー4・360y...5
  1w〜グッド 8w〜小ミス(トップ) マッシーブリックアプローチ〜ショート 2パット 「ボギー」

15番パー4・352Y...5
  1w〜小ミス クリーク〜ミス(ダフリ) マッシーニブリック〜1ピン 2パット 「ボギー」

16番パー4・302y...5
  1w〜グッド マッシー〜大ミス(ダフリ) ニブリック〜ピンオーバー(左) 2パット 「ボギー」


17番パー3・90Yくらい...5
  マッシーニブリック〜ミス(引っ掛け) マッシーニブリック〜ミス(アプローチオーバー・トップ) 3パット  「ダボ」

18番パー5・529y...7
  1w〜グッド クリーク〜左OB 打ち直し8w〜グッド マッシー〜グッド 2パット 「ダボ」

上がり17番18番のダボが情けない。
17番はグリーン脇からマッシーニブリックのアプローチが、トップしてグリーンオーバーしたもの。
そこからの返しもトップしてオーバー...これは午後の練習課題。

クリークの2発のOBは、いずれも距離を出そうとドロー目のショットを打とうとして左に行ってしまったもの。
良いライから本当に勿体無いOBだった。
ここにきて、5wの成功率がどんどん下がっているのをなんとかしなければ...これも午後の練習課題。

トータルは47...45を切るのは当然というゴルフをしていたのに、上がり2ホールでぶち壊してしまった。

でも、50を切るのは問題ないゴルフをしている手応えはあった。

入賞は望めないが、昼にはステーキを食べて、後半は課題の克服を目指して、色々と試してみる。

とりあえず、自分のヒッコリーゴルフとしては合格だが、今年の目標は85前後を狙って出す事。


(後半ハーフへ続く)

 

クラブへの「愛着」、または「愛情」、または「しょうがない」

「今時のクラブ」は、何か「故障」があった時に修理してまで使うゴルファーは殆どいないだろ。
手を入れるのはせいぜい「グリップ交換」か「塗装ハゲのペイント」くらいじゃないか?

気に入らなかったら、「もっと飛ぶ」か「もっと正確」とかいう宣伝文句のクラブに買い替えるのが普通だろう(あるいは予算的にシャフト交換とか中古クラブで我慢するとか)。
俺もそうだったからその気持ちは分かるんだけど、偶然ヒッコリーゴルフをはじめちまってからはそういう気持ちが無くなった。
何しろ100年前のものなんて、残っている数が少ない上にプレーに使えるクラブが少なすぎて、「自分に合うクラブを探す」なんて事はとんでもない事で、基本「クラブに自分を合わせる」しかない。

昔、ゴルフをするような人たちは松村博士の記事にも出てくるが、皆大変な大金持ちばかりで、ゴルフがやりたくなればどんなに高額なクラブであっても買う事に躊躇はしなかった。
庶民の暮らしに比べれば、ほぼ「トンデモ」の世界の話だった。

ただ、金を出せば手に入る物でも、当時の英国や米国で作られているヒッコリークラブを手に入れるには、手に入るまでに膨大な時間がかかった。
そして、基本「金に糸目をつけない人たち」が世界から買い求めたヒッコリークラブは、クラブの出来としてはかなり上質なものが多く、ちょっと壊れたと言っても簡単に代わりを手に入れられない...ならば修理して使うしかない、というのが自然な流れだろう。

 

これは、打ってみたくて手に入れたセミロングノーズのようなウッド。
現物が届いた時に、見た瞬間「うわー!」と声が出た。
ネックからほぼグリップまで、めちゃくちゃ丁寧に糸が巻いてある。
「これはシャフトにヒビを入れてしまったクラブだな」...この時点でボールを打つことは諦めた。

以前、こうした補修してあるクラブを練習場で試打した時、ほんのアプローチ程度のショットでシャフトがバラバラになったことがあった。
いつ壊れたかはわからないが、修理をしてからも何十年(少なくても60年以上)も経っているのだから、糸はもう強さなんか無く、接着剤を使用していても当時の接着剤の性能と、それからの劣化の程度はほぼ「ボールを打つ衝撃には耐えられない」レベルだと断言できる。

「合わないから」と軽い気持ちで(もちろんお金のある時だけだけど)どんどんクラブを買い替えていた若い時代(40代ね)、スコアはそれなりに良くなったしよく飛んだけど...60になる頃にはそれが虚しくなった。
スコアでいうなら上には上がいるし、飛距離も世界一の飛ばし屋にはボロ負けするし、ゴルフプレーは人間形成に役立たず、ミスすれば怒り言い訳する卑怯で人間性の悪い俺は変わらずに居続ける。
「なんとかなんねえのか、馬鹿な俺」で出会ったのがヒッコリークラブ。
これで、飛距離を諦め、パーオンを諦め、思うようにならない方向性と難しさを改めて思い知り...あれから俺は少しは謙虚になった、と思う(笑)。
いいゴルファーになったかどうかはわからないが、「不自由で他人より難しくて飛ばないクラブで戦う」M的快感が、最近病みつきになる(笑)。
それは、まるで石斧で大砲に勝つような、竹槍で戦車に勝つような醍醐味とやり甲斐がある。
過去の遺物で最新兵器に勝つのは、俺的には実に楽しい(今の所ほとんど負けだけど)。


丁寧に気持ちを込めて修理されたヒッコリークラブを、俺のゴルフは見習わなくちゃ...昔のパワーゴルフじゃない、「丁寧で諦めない、謙虚に楽しむ」ゴルフを俺は目指す。

 

...ついでに、「今年こそ、オープンコンペで牛肉を」が今年の目標。


足が一ヶ月経っても痛くて治らないけど、ハーフならなんとか持つだろう。
明日は雨は降らない...ガンバンベ。

 

(追記)
過去の修理後のクラブも美しいが、ここに記事を書いてくれている松村博士の手がけた修理もまた、確かな知識と愛情と技術が纏まって非常に美しい。
何本かは変えに無理を言って修理してもらったアイアンも、その素材の美しさとともに一つ二つ紹介する。

 

 

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・13

東京GCは女性ゴルファーのプレーも早かった。先輩倶楽部で、外国人が主体であった神戸GCや根岸のNRCGAは女性のゴルフを早くから行っていたし、後者は『NRCGAの』と云うべきだろうが、女子ゴルフ協会を造っていた位である。

外国人女性達もゴルフを行いリベラルな地域とみられていた関西は、日本人女性のゴルフとなると何故か排他的で、名ピアニストとなった小倉末子が1907年に女性プレーヤーの先鞭をつけた後は1918年の住友孝子が二人目とされており、続く名手西村マサが始める時には(夫が“神戸の名物男”と言われる奇才であったことも関係して)街中の噂に成ったり、一緒にプレーしてもらう際に男性ゴルファー達から反感が在ったりと、色々大変であった話を語り残している。
一方東京GCは会員たちにニューヨークの日本人会でゴルフを覚えた者が多いためか、関西よりも理解が早かったようだ。

駒澤雀となった女性の一番最初が西園寺八郎夫人の西園寺新(新子)、次いで赤星鉄馬夫人の赤星文子だったそうで(1930年のパイオニア座談会で川崎肇談)、1919年に『野球界』12月号のゴルフ紹介記事でも両人が紹介されている。
彼女らの夫は創立メンバーなので関西の住友孝子よりも早くに行っていた可能性が高い。
そしてこの二人に続いた白石多士良夫人の白石嵯峨子、古沢仗作夫人、門野九重郎夫人の門野理代子らが関東女子ゴルフのパイオニアであろう。

この初期の女性ゴルファー達についてニューヨーク在住の邦人ゴルファーの間で次のような話が伝わっていた、『東京GCに来る女性たちは着物袴に襷掛けでゴルフをしているらしいよ』と。
大河ドラマ『いだてん』でご覧になった読者諸兄もおられるだろうが、大正初頭~半ばの当時は、女学生などが着物に袴ブーツ姿でテニス等の“運動”をしていた時代であるから取り立てておかしくはない。
 ただ、1922年暮れにアメリカから帰国の途に就いていた、後に西村マサと共に日本の女子ゴルフ界の双璧として活躍する三井栄子(さきこ、岸和田藩主の家の出で、三井物産役員三井弁蔵夫人)は客船上でその話を聞いて『日本のゴルフは変わっているな』と思う事に成った。

三井はアメリカ滞在中テニスを行っていたが、友人から『いつまでも出来るわけでないから』ゴルフを勧められこの年に開始。初めて廻った際にハーフ60を出しプロから才能があると褒められ、帰国までの間熱心にプレーをしていた。
そんなことも有り、三井夫妻は帰国後直ぐ東京GCに入会をしたが、いざコースに出てみると集まっている女性ゴルファー達の姿は着物ではなくアメリカのゴルフ場同様洋装であった為『あら?』と気抜けがした。

何でそんな噂が立ったのかというと、関東の邦人女性ゴルフパイオニアの西園寺新が駒澤でプレーを始めたときに袴に襷掛けでやって居たのだが、これを見た者がアメリカに行った(もしくは戻った)際に輪に輪をかけて吹聴したのが真相らしい。
が、異説として三井の娘で、戦後女子ゴルフ界で活躍した小坂旦子が母から聞いた話として倶楽部創立者である井上準之助の夫人が着物でプレーをしていたと回想している。

なお、このころの駒澤雀のご婦人連の格好というのは長袖にブラウス、冬場はカーディガンやセーター、初期のころはスカートの丈が長いが1920年代半ば~後半には膝丈のものを履き、帽子はクローシェ帽やボンネット(大黒帽)を被っている。
因みに袴ゴルフの噂を訝しんだ三井がゴルフを始める際、慣れ親しんだテニスウェアを転用したという話を、筆者は彼女から話を伺った福島靖氏(東京ゴルフ倶楽部資料室顧問)からご教示頂いたことがある。

三井が東京GCでプレーを始めた少し後に摂政宮(昭和天皇)と英皇太子(エドワード八世)の親善マッチが行われたのだが、これに触発され、加えて関東大震災後の“旧弊を廃するモダンガール”の登場という世相も合わさり会員の夫人達が『ゴルフを真剣にしようではないか』と駒澤に集まり、鮮やかな群雀となって行った。
そして女性ゴルファー達の数と技術が上ってきたことから、1926年に三井が前年結成された関西婦人ゴルフ倶楽部の主要メンバーである西村マサに対抗戦を行う事を申し込み、5月に東西婦人対抗戦が行われる事となった。
これが契機でゴルフの宮様として知られた朝香宮鳩彦王と共にゴルフを愉しまれていた朝香宮妃充子内親王が総裁となって同年9月東京婦人ゴルフ倶楽部を結成し、駒澤の婦人ゴルフ熱は上がっていく。

なお先の駒澤に集ったパイオニア五名の足跡について記すと、西園寺は風邪気味の際に無理を押してプレーをしたことが要因でスペイン風邪に罹り(息子の西園寺公一記述)1920年に34歳の若さで早逝し、赤星は夫の応援(関東大震災後に建てた邸宅の庭にグリーンとバンカーを設置してくれた)もあり、関東を代表するゴルファーとして東西対抗戦に活躍したほか、後に自分で車を運転しコースに通っていた事から駒澤村の人々に『ゴルフの奥様』として良く知られる様になっている。
白石も東西対抗戦のメンバーとして活躍しているが、門野は1920年代後半に箱根の仙石ゴルフ場の支配人的ポジションかつ国内女性初のゴルフ場キャプテンに就き、同地のゴルフ発展に大きな貢献をしている事が当時の『Golf Dom』で窺い知ることが出来、古澤は余り記録が無いが、1929年10月に仙石のリニューアルオープン時に行われた女性のみの開場競技会で朝香宮妃殿下をプレーオフで破り優勝した事でゴルフ史に名前を残している。

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)

肉離れと足の攣り

久しぶりの今年2回目のラウンドの翌朝の事。

一昨日のゴルフは、雨には少し降られたけど気温は暑くも寒くも無く、気持ちの良い風が吹いていた。
幸運にも、もう見逃してしまったと諦めていた「散り桜」も楽しめ、本当に久しぶりのヒッコリークラブも、飛距離こそ全く出なくてもそれほど酷いミスは無かった。
その飛距離の無さは、やっと治りかけてきた左足ふくらはぎの肉離れを再発させないように、出来るだけ「そっとスムーズに」スイングすることを心がけた結果だから、自分なりに納得できる。

前半ハーフはほとんど問題なくゴルフが出来たが、後半はやはり痛みが出た...が、痛めた時のような「刺すような激しい痛み」は無く、ただの筋肉痛の強いやつ程度の痛みで済んだ。
「これなら、来週はスコアをまとめるゴルフを出来そう」という甘い夢が、急に頭をもたげて来た。

その後、温泉でも帰って来てからも湿布薬を貼り、マッサージをして足を休める。

ところが昨日の朝、目が覚めて布団の中で「伸び」をした途端...まずスネ側の筋肉が「つる」感覚。
「ヤバい!」と慌てて体勢を変えると、今度はふくらはぎに緊張感!
「オイオイ!」と足を曲げてふくらはぎを伸ばそうとすると、今度は太もも前側のっ筋肉が急につる....思わず焦って足を伸ばそうとしたら、今度はふともも内側の筋肉ががっちりつってしまった!!

これは...激痛・激痛...本当に痛い。
思わず口から出るうめき声を抑えられず、「痛い痛い!」と唸りながら枕元に用意してある命の綱の「芍薬甘草湯」をペットボトルのお茶で飲む。
この薬の袋を破く間も、ペットボトルの蓋を回す時間もギリギリと太もも内側の筋肉が痛みを増して行く。
やっと口の中に袋の中の薬を放り込み、唸りながらお茶をグビグビ飲むが...その間も痛みは激痛から激痛でどんどん強くなる...すでに下着が汗でビッショリだ。
「速く効いてくれ!!」って頭の中で繰り返しているが、今日に限って効くのが遅い...って気がする。
が、ありがたいことにこの薬の効き目は決して裏切らず、「激痛」がだんだんただの「痛い」に変わって行くのが感じられて、やっと深々と深呼吸ができるようになる。
ずいぶん長い時間、ジジーが一人で悶え苦しみ続けたように感じるけれど、実際は短い時間だった、と思う。

ただ、あまりにかっちり「攣って」しまったためか、筋肉の強張りが無くなって足が動くようになっても、結構な痛みが筋肉に残った。
立てるし、足も動かせるが...太ももの攣った部分の筋肉に残った痛みが、何かの拍子にまたすぐ攣るようなヤバさを感じさせる。
「嫌だよ、あんな痛みをもう一度、なんて」と、慌てて湿布薬を盛大に貼り、左足は太ももから指まで湿布薬だらけとなる。

肉離れが3月25日、それから3週間大人しくして来て完治せず...そっと再開した2度目のゴルフの後で太ももまで攣りまくり、なんて。
これで来週スコアつけのゴルフが出来るんか?

 

天気予報では、しばらくは天気の悪い日が続き、晴れれば夏日になるんだと。