ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

クラブへの「愛着」、または「愛情」、または「しょうがない」

「今時のクラブ」は、何か「故障」があった時に修理してまで使うゴルファーは殆どいないだろ。
手を入れるのはせいぜい「グリップ交換」か「塗装ハゲのペイント」くらいじゃないか?

気に入らなかったら、「もっと飛ぶ」か「もっと正確」とかいう宣伝文句のクラブに買い替えるのが普通だろう(あるいは予算的にシャフト交換とか中古クラブで我慢するとか)。
俺もそうだったからその気持ちは分かるんだけど、偶然ヒッコリーゴルフをはじめちまってからはそういう気持ちが無くなった。
何しろ100年前のものなんて、残っている数が少ない上にプレーに使えるクラブが少なすぎて、「自分に合うクラブを探す」なんて事はとんでもない事で、基本「クラブに自分を合わせる」しかない。

昔、ゴルフをするような人たちは松村博士の記事にも出てくるが、皆大変な大金持ちばかりで、ゴルフがやりたくなればどんなに高額なクラブであっても買う事に躊躇はしなかった。
庶民の暮らしに比べれば、ほぼ「トンデモ」の世界の話だった。

ただ、金を出せば手に入る物でも、当時の英国や米国で作られているヒッコリークラブを手に入れるには、手に入るまでに膨大な時間がかかった。
そして、基本「金に糸目をつけない人たち」が世界から買い求めたヒッコリークラブは、クラブの出来としてはかなり上質なものが多く、ちょっと壊れたと言っても簡単に代わりを手に入れられない...ならば修理して使うしかない、というのが自然な流れだろう。

 

これは、打ってみたくて手に入れたセミロングノーズのようなウッド。
現物が届いた時に、見た瞬間「うわー!」と声が出た。
ネックからほぼグリップまで、めちゃくちゃ丁寧に糸が巻いてある。
「これはシャフトにヒビを入れてしまったクラブだな」...この時点でボールを打つことは諦めた。

以前、こうした補修してあるクラブを練習場で試打した時、ほんのアプローチ程度のショットでシャフトがバラバラになったことがあった。
いつ壊れたかはわからないが、修理をしてからも何十年(少なくても60年以上)も経っているのだから、糸はもう強さなんか無く、接着剤を使用していても当時の接着剤の性能と、それからの劣化の程度はほぼ「ボールを打つ衝撃には耐えられない」レベルだと断言できる。

「合わないから」と軽い気持ちで(もちろんお金のある時だけだけど)どんどんクラブを買い替えていた若い時代(40代ね)、スコアはそれなりに良くなったしよく飛んだけど...60になる頃にはそれが虚しくなった。
スコアでいうなら上には上がいるし、飛距離も世界一の飛ばし屋にはボロ負けするし、ゴルフプレーは人間形成に役立たず、ミスすれば怒り言い訳する卑怯で人間性の悪い俺は変わらずに居続ける。
「なんとかなんねえのか、馬鹿な俺」で出会ったのがヒッコリークラブ。
これで、飛距離を諦め、パーオンを諦め、思うようにならない方向性と難しさを改めて思い知り...あれから俺は少しは謙虚になった、と思う(笑)。
いいゴルファーになったかどうかはわからないが、「不自由で他人より難しくて飛ばないクラブで戦う」M的快感が、最近病みつきになる(笑)。
それは、まるで石斧で大砲に勝つような、竹槍で戦車に勝つような醍醐味とやり甲斐がある。
過去の遺物で最新兵器に勝つのは、俺的には実に楽しい(今の所ほとんど負けだけど)。


丁寧に気持ちを込めて修理されたヒッコリークラブを、俺のゴルフは見習わなくちゃ...昔のパワーゴルフじゃない、「丁寧で諦めない、謙虚に楽しむ」ゴルフを俺は目指す。

 

...ついでに、「今年こそ、オープンコンペで牛肉を」が今年の目標。


足が一ヶ月経っても痛くて治らないけど、ハーフならなんとか持つだろう。
明日は雨は降らない...ガンバンベ。

 

(追記)
過去の修理後のクラブも美しいが、ここに記事を書いてくれている松村博士の手がけた修理もまた、確かな知識と愛情と技術が纏まって非常に美しい。
何本かは変えに無理を言って修理してもらったアイアンも、その素材の美しさとともに一つ二つ紹介する。