ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

便利になっても幸せにならない「進歩」...3

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「産業の消滅」と言われる現象だった。
ある一時期どこの制作現場でも使われていた技術が、パソコンというものの一般化と進化によって物の見事に消滅した。

俺は「絵を描く」という部分に興味を持ってイラストの世界に入り、職業としての「イラストレーター」として生きて来た。
初めはある中堅のデザイン事務所に入ったのだが、そこの制作部門では「デザイナー」と呼ばれた者たちが印刷用の版下を作っていた。
その原稿用の文字は「写植」と呼ばれ、写植屋の営業達がしょっちゅう出入りして注文を受けたり、出来上がったものを納入していた。
それを切り離してピンセットでコンマ何ミリの精度で貼り付けて、印刷原稿を仕上げていくわけだ。

写植とは「写真植字」...つまり「写植機」でフィルムにある文字を写真のように印画紙に焼き付けて文字原稿を作ることだ。  
出来上がりは非常に綺麗で、何百万もする高額で複雑な機械を専門のオペレーターが扱って作り上げる「精密製品」でもあった。
中小のデザイン会社では、機械もオペレーターも自前で用意するには結構な費用がかかるので、その写植は皆外注になり、街に「写植屋」がたくさんあった。

昨年亡くなった俺の古い親友「ゴルフを始めなかった男」は、「俺は絵が描けないから」と大阪で写植屋を始め、やがて大手のスーパーの仕事を一手に引き受け、社員10人以上の「写植工房」を経営するようになった。
一時は年商もかなりのもので、非常に羽振りが良かった。

その頃、俺は仕事仲間からマックの中古(Power Mac6500)を買うことになった。
そいつが買い替える為に要らなくなったものだが、結構高く買う代わりにそいつが使っていたソフト(主フォトショ)を入れたままにしてもらい、俺がそれを使えるようになるまで質問に答え続けることを条件に。
(フォトショは使えるめどがついた後、ちゃんと正規のものを購入した)
他にモニターやペンタブレット、スキャナーやプリンターなどを揃えるとかなりのお金がかかったが(新品で揃えると数百万はかかる計算だったので)、これを「きっかけ」にデジタル化に踏み切れた。

それはやがてPower Mac8500、G3、G4、G5、そして今のiMACまで続いていくが、8500の時代だったか...俺が感じたのは「大丈夫なのか、写植は?」ということ。
だって、パソコンソフトで普通に文字が打てて印刷も出来るのだ。
それを遊びにきたヤツに聞くと、「大丈夫 大丈夫。写植の文字はパソコンのギザギザ文字なんかよりずっと綺麗だから勝負にならない」という。
確かに当時のパソコン出力の文字はドットが荒くて、ちょっと拡大するとラインはギザギザで写植の文字には敵わない...が、「パソコンの進歩は凄いぞ。本当に大丈夫なのか?」「すぐに綺麗になりそうな気がするぞ」
「大丈夫、今度すごく高い機械を入れるし、MacDTPも考えてる」


...そういうレベルではなかったのだ。
何年かでパソコンはそういった問題は全て解決し、企業はちょっとしたものなら内部でDTPをこなすようになった...大した費用もかからずに、だ。

後から思えば、既に写植に生き残る道は全く無かったのだ。

あっという間に町の全ての「写植屋」の看板は無くなった。
(当時、中学の同窓会や高校の同窓会が重なり、かっての同じクラブ活動の友人や同級生に久しぶりに会うと、「写植・版下制作」なんて書いてある名刺を出す人が多かったのに。)
...「俺は年取ったら写植機一台置いて、町の写植屋でのんびりやって行くつもりだよ」なんて言っていたヤツの声が耳に残っている。

ヤツはその新型写植機の導入で多額の借金をしたらしく、間も無く会社を追われ、離婚し、一家離散、そして一人で九州の郷里に帰り酒を飲む生活になった。

世の中がアナログからデジタルへとまさに移り変わる時代、アナログで常識とまでなっていたデザイン関連産業のあっという間の完全なる消滅は、まるで「進歩」という名の「恐ろしい大虐殺」を見ているような印象しか残らなかった。