ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

便利になっても幸せにならない「進歩」...4

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「警戒と油断」の話だが...

ヤツらも(俺たちだって)、警戒しなかった訳が無いんだ。
油断なんかも、絶対にしていなかった。

ただ、自分達がこれまでアナログの世の中で鍛え上げてきた腕や技術には自信を持っていたし、「世の中はそんな仕事を認めてくれる」と信じていただけなのだ。

例えば昨年亡くなった、写植とともに滅びていったアイツは、「絶対に写植の文字の方が綺麗なんだ」「世間は安さに任せてデジタル物を使い始めても、結局綺麗な文字の良さを理解してまた戻って来ると信じてる」...そう言って、さらなる新型写植機に投資して失敗したのだ。
世間は比べれば写植の文字の方が綺麗だと言っても、決定的に安い方しか使うことを考えちゃいなかったのだ。
アートの世界ではない...商売・商品を作る世界にいるってことを、つい「職人」は忘れてしまうのだ。

もう一人の古い飲み仲間、アナログのレタッチの世界でプライド高く仕事していたヤツは、2年前に死ぬまでパソコンに触ることもケータイを持つことも無かった。
それなりの規模の印刷所の「レタッチ」部門で仕事して来たヤツは、自分の技術に絶対の自信を持っていた。
(俺は「アナログのレタッチ」というものが具体的にどれほど難しいものかわかっていないのだが)ヤツから聞いた話では、その仕事は原板のフィルムに直接繊細な筆で作業していくものらしかった。
分かりやすい例では、昔の全版のアイドルを使った水着ポスターなどの原板フィルムをルーペなどでよく見ると、水着からはみ出している「毛」が何本かはあるらしい。
それがそのまま印刷されてしまうと当時は問題になってしまうので、元のフィルム上で筆で修正したのだとか。 
それが印刷されて全版ポスターになっても、修正された部分は全くわからないほどの腕なんだとか...
やがてはその印刷所もパソコンが使われるようになって、デジタルソフトで修正は誰でも簡単に出来るようになって、ヤツは肩身の狭い思いをするようになったらしい。
(それでもその印刷会社はヤツのそれまでの貢献を認めてくれていて、ヤツは定年までその会社を追い出されることはなかった)
その為だろう...ヤツのパソコン嫌い・デジタル嫌いは徹底していて、とうとう死ぬまで俺のこんなホームページを見ることは無かった。

パソコンの進歩による仕事のデジタル化は、初めこそアナログの職人の相手にはならない幼稚なものだったが、時間が立つ程加速度的に進化して、「人間が長い時間をかけて得ることのできた職人の熟練技術」を完全に追い抜いてしまった。

まだ職人の使う技術の方が、細かな部分で「デジタルの技術」より完成度が高い仕事は多くあると思う。
しかし、一品制作のアートならそんな「こだわり」とも言える部分の「良さ」が認められ、生き残る部分はあるかもしれない。
しかし、「仕事」という商業上の技術であるなら、百パーセント「圧倒的に安い作業費」(つまり「経費」)が優先されてしまうのは現代の宿命だ。
結果、そうした「職人」の仕事は無くなり、デジタルを使える「素人」で十分になり、当然給与も安くて済み人員も少なくて済む。
「100点の職人仕事でなくても70点のデジタル仕事で十分」が世間の相場となり、その程度の仕事ならそれまで10人でやっていたものが、パソコンを使えば3人で出来るということになる。
つまり7人が失業し、残った3人はそれまで10人でやっていた仕事を3人でしなくてはならなくなる。
企業にとってはデジタル採用のメリットは「経費削減」なんだから、残った3人は高い金で仕入れたパソコンがあるからと、更に安い給料でパソコンを使って仕事を片付けなくてはならなくなる。
便利という触れ込みのパソコンも勝手に仕事をやってはくれないので(そうなったら、残る3人もクビになるだろう)、それを使うための仕事の絶対量は当然増える。
3人は疲弊し、行き詰まる...が、会社の外にはデジタル化で余ってしまった人たちが、彼らが辞めるのを待っている...企業はいつでも人員を安く使え、利益は一部に集中し、多くの人たちはより過重な労働と低収入に喘ぎ、疲れ果てる。

大きな津波のように、デジタル化は人を押し流して行く...本や新聞の紙文化は廃れ、コツコツと手作業で物を作る職人は濡れ手で粟の投資家からバカにされながら、底辺でその日暮らしで生きて行くしかなくなる。

一体誰が「幸せ」になったのか?

それに、本当に「便利」になったのか?

電車の中で、ほぼ全員がスマホを見てゲームをしたりメールをしたり...こんな光景、俺には不気味で気持ち悪いだけなんだけど。