ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

オリンピック,,,ではなく??...1 「掘っくり返し屋のノート3」

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2016年度夏季オリンピックで、ゴルフが112年ぶりに正式種目に復活した事は皆さん雑誌等からご存知であろう。
一回目の1900年パリ大会、04年stルイス大会、そしてR&Aのクレームで中絶した08年のロンドン大会については国内でも摂津茂和先生の『偉大なるゴルフ』、小鷹信光氏の『気分はいつもシングル』、夏坂健氏の『ナイスボギー』、大塚和徳氏の『世界ゴルフ見聞録』等で紹介されて来たし(一通り書かれているのは一番新しい大塚氏の著書だろう)、英字版ウィキペディアでパリ・stルイス大会の競技記録が掲載されているのでご覧になった方も居るだろう。

さて、ここに来て『1936年のベルリン大会はどうしたの? 行われたと本で読んだ事が在るよ』と疑問を呈する方が出てくるハズだ。私も最近まで一番新しい大塚氏の記述やウィキペディアの競技記録が、1904年まで(08年の予定も)しか載っていない事を疑問に思っていた。
このベルリン大会の話が国内で紹介されたのは、先記の摂津先生の『偉大なるゴルフ』36章、『ヒトラーのゴルフ秘話』が最初であろう。
それによると氏が創立会員であったゴルフ収集家協会(GCS)の会報で、1951年ロンドンの画廊で行われた英国国内の各スポーツ団体による優勝トロフィ展示会で、イングランドGUが1936年度ベルリンオリンピックヒトラーが寄贈した銀のトロフィを出品した話を紹介している。

そこには競技はドイツの保養地バーデン・バーデン(1911ー12、30年ドイツOP会場)で、各国二名ずつのチームによる72Hメダルプレーで行われ、第三ラウンド終了時にドイツチームが優勝しそうだと言う報を聞いたヒトラーは喜び、直接トロフィを渡す為バーデン・バーデンへ赴こうとしたが、途中で英国のトーマス・サースク、アーノルド・ベントリーのチームが奮戦し逆転優勝を遂げた一報を聞き、彼は機嫌を損ねバーデン・バーデンへ向かう列車をベルリンへと引き返させたという。この話を読んだ摂津先生はイングランドGUに、そのトロフィの写真をJGAミュージアムの為に頂けないか、と連絡を取ったが返事が来ない、としている。

その次には夏坂氏が『ナイスボギー』8番ホール(章)で、『ヒトラーの大ダフリ』という題でこの話を書いているが、そこには22カ国からの参加が在り、ヒトラーの用意したトロフィは準銀の重厚華麗な物で後年展示された時には非常な高値での購入希望があった程だと『タイム』紙が書いたという。

競技の方は二人の72H合計スコアで競い、ドイツチームの二人はハンス・リッターとクルズ・ロハという名で二人とも英国留学で腕を磨いたといい、第三ラウンドのスコアが前者78・81・75、後者は77・74・78で英国チームに5打差をつけていたが、63Hで同点、終わってみたら3打差で逆転負けをしたとある。
この二人の書き物(摂津1985編、夏坂1996ー97年執筆)以降、この件は最近発売された漫画の一編に出ている位で、忘れられたのか話題に出てこない。
先記の通り私はこの大会についてある種の疑問を持っていたが、今年になってこの大会をリアルタイムで報じた記事を発見した。こういった事は私に時々起きるモノで、今回は別件で当時最大のゴルフ誌『Golf-Dom』1936年4ー12月号の合本をJGAで読んでいた所、見付けたのだ。
当時国内の各ゴルフ誌に欧米の在留邦人ゴルファーが情報を寄稿しており、この話もそれに当たるのだ。

内容を追って行くと、バーデン・バーデンでの競技はオリンピックと直接の関係はないが、間接的には在り、しかも大会前から話題となっていた。
まず5月号の記事によると、ドイツゴルフ連盟会長カール・フォン・ヘンケルが8月のオリンピック直後に各国二人のチームによる72Hメダルプレーの国際大会を開くと発表した、とある。
次に7月号では大会の準備が完了し、世界各国に呼びかけを行った所、英国・カナダ・オーストリア・スイス・チェコスロバキア・イタリア・メキシコの七カ国が参加表明、DGVはもっと多くの国が参加するように勧誘を続けている、とあり会場はバーデン・バーデン、期日は8月26ー27日に決まったと報告している。
9月号になるとこの話題の寄稿文が二つ載っており、一つ目の岡本隆司氏のコラム『オリンピックとゴルフ』ではこのトーナメントについての紹介文と、ナチスのスポーツと国防および1940年度東京オリンピックに反対する(軍部)への批判とその際にドイツ以上の招待トーナメントをしようではないか、という訴えで〆ている。
二つ目は中島信次氏の『欧州通信』にヒトラー寄贈の賞牌の写真が掲載されており、それが直径45cmで中央が銀、外周が金で造られたお盆で、金の部分には細葉のレリーフに8個の大きな琥珀の多角球が実を表す形で取り付けられている。
中島氏はオリンピックの日本選手達がベルリンに集合しているのに触れ、今回の国際競技にも日本からの参加者があったらどんなに素晴らしい事であろうか、とも書いている。

さて、いよいよ大会の詳細に入るが、これは11月号の『欧州通信(2)』(中島氏著)に書かれているので、それを追って行こう。

競技期間は8月20-27日間に改められた。これは72Hメダルの他に六人チームによるフォアサム・シングルスマッチが加えられた為だろう。
参加国は新たな参加と取り下げが重なり、結局英・伊・仏・和蘭チェコスロバキアハンガリー・そして主宰のドイツのヨーロッパ七カ国と成り、六人チーム戦は独・仏・和の三か国で行われた。
さて、会場のバーデン・バーデンについて触れると、山間に造られた起伏の激しいショートコースで、1910年に英国の有名なライター、ロバート・ブラウニングが日本の神戸GCについて書いた際に引き合いに出すくらいだったから、過去三度のドイツOPの優勝スコアが278・277・266という低スコアであった事をご理解いただけるか。
大会のヤーデージはメートルから換算すると4854Y強、パーはアウト32・イン33の65であった。
規模からすると物足りなく見えるが、大会にはヒトラーからの賞牌に加えスポーツ大臣がチーム戦の為に19世紀の会場の町並みが描かれた陶製のカップが寄贈された事から盛り上がりを見せ、コースからドイツチームの主将(メダルではプレーせず)がラジオ放送で挨拶した位で、寄稿者の中島氏は騒ぎは相当なモノであったと記している。

そして始まったチーム二人でのメダル競技は第一ラウンド、英国組(ベントレーとサースク)が73・70(スコアは名前順)の143で独組(BEKERATHとHELLMERS)の68・75と並び、三位に伊チームの73・72ー145、仏148、和蘭149と続き、チェコ159、ハンガリー178と大きく出遅れた。
第二ラウンド、英144で287、仏も144で回り292、和蘭71・69で189と浮上する一方、伊は73・82で300と差が開き、チェコは315、ハンガリーは351で圏外、そんな中で独が67・72で182と英国に五打差を付けてトップに立った。
このラウンドからチーム合計方式の特徴、あっという間に差が開いたり追い付いたり、ベストボールと違って一人の崩れがパートナーの足を大きく引っ張る面が表に出て来ている。
第三ラウンド、圏外に居たハンガリーチームは88・79で来ていたLAYBERが棄権し、相方で一番スコアの悪かった(90・94)LAUYIもラウンド終了後(97)に棄権をしている。
残る面々、和蘭チームも76・74と不調で大きく後退、チェコも457で圏外のまま、独も72・76とこれも芳しくなく430、その一方で英国はサースクの65が効いて135の422で逆転、仏も68・69の137で429と浮上、勝負がこの三チームに絞られた。
最終ラウンド、独チームはBEKERATH・HLLMERS共に70を割れず71・73の144で合計566、仏チームはCARHIAN・LEGLISEが66・71=137とベストスコアを出して566、そして英チームはベントレーが75と崩れかかったがサースクがもう一度65を出し(本文ではベンテレーが65を、と在る)140と踏み止まり合計562で仏チームの追撃をかわして優勝を遂げた。
そして六人チーム戦の方は仏が二戦全勝により優勝をしている(二位独一勝一敗、三位和蘭二戦全敗)。

かくして大会は終了したのだが、寄稿者の中島氏はスコアの悪さ、アンダーパーを出した者が一人も居ない事から、わびしいモノであったとし、要因はコースだけの所為ではなく参加者全員がオリンピックの余興的な催しという(気負いに欠く)気持ちでプレーをしていたのでは、と考察しながら『大した選手が出場した訳ではないので大きなモノを臨む方が無理かもしれないが、大山鳴動して鼠一匹の感が亡いでもない』と評し、チーム戦もなんだか泥試合の連続で面白くなかった、という総評も報じている。

こうは書かれているモノの、この名字のみ記載されている参加者達は母国のトーナメントで何らかの成績を出しているのでは、と気になりもう一度JGAで英国のゴルフ年間『Golfer`s Hand Book』1936・40・56年版を開いて調べてみた所「これは!」というような記録が出て来た。
が、参加者達はベントレーとサースクを除いて名前が判らない為推測という形に成ってしまった。しかし、下の調査結果をお読みいただければ幸いである。

(5000字制限にかかった為に、次に続きます)
(写真は賞牌・Glolf Dom1936年9月号P53、英チーム・同11月号P35、トロフィ・同P36より引用)