ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

オリンピック,,,ではなく??....続き

英国チーム(BENTOLEY &THIRSK 合計562、優勝
・BWNTLEYことアーノルド・ベントレー(73・74・70・75=292)は、摂津先生の本では1935年のヨークシャーAM勝者とあるが、年間では1935ー36年のランナーUPと記されている他、1938年度フレンチオープンAMのランナーUPでもある。彼の同世代の親族かH・G・BENTLEYという選手はヨークシャーAM3勝、ドイツオープンAM4勝(1933ー37ー39)、フレンチオープンAM2勝(1931ー32)を始め、1934ー36年度ウォーカーカップ代表と成ったトッププレーヤーであった(顔が似ているような...)
・THIRSK事トーマス・サースク(70・70・65・65=270)は、摂津先生の記述通り1934年度ランカシャーAM勝者である事を確認。

仏チーム(CARHIAN&LEGLISE 合計566、2位
・CARHIAN(72・71・68・66=277)、彼は一文字多いのだが1936年度フレンチオープンAMであのマイケル・スコット卿(最年長全英AM勝者)を破り優勝した、M・CARLHIANと同一人物だろうか? 彼は50年に同大会ランナーUPとなっている他、フレンチネイティブAMで5勝(1932.34ー36)ランナーUP3回(1937.47、50)を遂げている。
・LEGLISE(75・72・76・71=289)彼は1939年度フレンチオープンAM優勝、ランナーUP2回(1937、47)、同ネイティブアマ1勝(1937)、ランナーUP3回(1935、38、49)のJ・LEGLISEか。

独チーム(BECKERRATH&HELLMERS 合計574 3位)
・BECKRATH(68・67・72・71=278)彼は1938年ドイツクローズドAM勝者で(52年ランナーUP)、37年には同オープンAMランナーUPのL・VON・BECKEREATHと同一人物だろうか。
・HLLEMERS(75・72・76・73=296)、彼はドイツクローズドAMに1924年優勝、翌25年にはランナーUPとなったC・A・HELLMERか。

伊チーム(LUZZATTO&FRASCHINI 合計587 4位T)
・LUZZATTO(73・73・66・72=284)この性のチャンピオンは当時二人おり、一人は1937年イタリアオープンAM、36ー38年同ネイティブAM、36年スイスAMオープン勝者のL・LUZZATTO、もう一人は34年イタリアネイティブAM勝者のG・LUZZATTOであるが、どちらだろうか、または第三者か?
・FRASCHINI(72・82・74・75=303)、彼は1935年のイタリアオープンAM(50年ランナーUP)、32ー33年ネイティブAMを獲ったTOTI・FRASCHINIか。

和蘭チーム(SCHILL&LIMMEN 合計587 4位T)
・SCHILL(74・71・76・73=294)とLNMMEN(75・69・74・75=293)は自国トーナメントの優勝及びランナーUP記録に名前が記載されていなかった(他のトーナメントは検索中)

チェコスロバキアチーム(TONFER&SCHUBER 合計602 6位)
・TONFER(76・70・68・74=288)はチェコスロバキアOPAM2勝をしたH・TONFERか。
・SCHUBER(83・76・74・81=314)は、1932年チェコスロバキアOPAMランナーUPのS・SCHUBERか。

ハンガリーチーム(LAUBER&LAUYI NR 最下位)
・LAUBER(88・79・NR)は、ハンガリーOPAM8勝(1923-24、26、30-34、38)のD・LAUBERか。
・LAUYI(90・94・97・NR)彼については優勝及びランナーUP記録は見つからなかった。(他トーナメントは検索中)
といった具合であるが、出場者達が私の推測通りこのチャンピオン達と同一人物であったとするならば、侘しいとか面白くなかったと言われたこの大会も、ヨーロッパのゴルフ競技史において重要なモノであったという見方が出来るのではなかろうか!?

私の報告書は以上だが、このバーデン・バーデンの大会が本当にオリンピック競技と記された物と同一か、という疑問については次の事
・会場がバーデン・バーデンである事。
・競技方法が各国二名による72Hメダルである事。
ヒトラーから大会の為にトロフィ(定義として盾も含まれる)が寄贈されていた事(大会では件のお盆の他に銀の?お皿に二つのコップを組み合わせたトロフィも贈られた)
・優勝者の苗字がベントレーとサークスである事。

と合致している事が多く、何より
・オリンピックの公式記録で最後の開催は1904年大会と報じられている事。
この事から私は摂津先生がお書きになられたベルリンオリンピック、ゴルフ競技は、このDGV主催国際トーナメントの事であったと断定出来るのでは、と考えている。
あとは参加者のフルネームを調べるべく、海外の圧死の調査やドイツの協会に訪ねなければならないが、ドイツ語が出来ないのが..
同国に住んでいた方に代筆を頼むべきか!?

主な参考資料
Golf Dom           1936年4ー12月号合本より
*偉大なるゴルフ        摂津茂和 ベースボールマガジン社 1985
ナイスボギー(文庫版)    夏坂健 講談社 2000
Golfer`s Hand Book     1936、40、56年版

*はJGA資料室にて閲覧 他は所蔵本

2013年5月7日
松村信吾


(この著作権は全て松村信吾博士に所属します。)

(2013年6月5日 大叩き男タイプ...疲れた...タイプミスがあればお知らせください)


2014年追加補足
1「CHOICE」2011年3月号のコラム,3分教養でゴルフ史家久保田誠一氏が、オリンピックとゴルフをめぐる関係についての分を寄稿し、その中で1936年ベルリン大会に合わせて、バーデン・バーデンで国際競技が開かれて7ヶ国が参加した話を紹介されている。

2 「Golfer`s Hand Book」1937年版をメインに国際競技出場者を当たってみた所、英チームのサースク,ベントレー,フランスチームメンバーと推測されるM.Carhanのプロフィールが載っていた。

・トーマス・ジェームス・サースクは1900円8月5日ポックリントン生まれ,1920年代後半から大戦までイングランドを代表したアマチュアで、全英AMベスト16(1929)や、イングリッシュネイティヴAM準決勝・準々決勝を経験しており、対アイルランドスコットランドウェールズの各対抗戦代表を何度も勤めている。

・アーノルド・リューイス・ベントレーは1911年6月11日サウスポート生まれ、ジュニア時代からイングランド代表になるなどしている。彼が優勝したのは1939年のイングリッシュAMで、この大会では3回(1936・1937・1949)準々決勝まで進んでおり、フレンチAMでも2度2位に入っている(1939・1949)。

・M・Carhanはシャンティの所属で、フランスのオープン・ネイティヴ両AM勝者で、英仏対抗戦(インターナショナル)代表を1934~36年に勤めている、とある。

(完全に断定出来ないCarhanも含め)彼等は「どことも知れぬ」と言う訳でもなく、それなりに名の知れたプレーヤーであった訳である。

・なぜ英チームはサースク・ベントレーという組み合わせになったのか。これは推測になるが、二人が友人であるか第三者のとりなし。があったのだと思う。
先に本文で書いたハリー・ゴッドフリー(HG)ベントレー(1907・10・13~?)は、1930~50年代に英国・ヨーロッパを叉にかけたプレーヤーらしく,各地のクラブに所属しているのだが、そのうちの一つヘスキスGCはアーノルド・ベントレーの所属地である。
この事から、H・Gはアーノルドの兄か従兄ではないだろうか。
更に彼はウォーカーカップをはじめとする各対抗戦の代表を勤めているが、対スコットランド戦でサースクとチームメイトになった事があるので、その縁で二人が知り合い、チームを組んだと私は考察する。(イングリッシュAMで顔を合わせて、という事も在るか?)

・そしてサースク・ベントレーのプロフィール欄に「1936年、バーデンバーデンでの国際トーナメント優勝」とも書かれている。
これで、この大会は海外でもオリンピックとは別物と見なされていた事を証明してくれる。
ただ、惜しむらくはこの文の或る37年版Golfer`s Hand Bookの競技記録を何度読んでも、この競技については出て来ない。見落としているのか、本当に無いのか...
出場者のフルネームと内容を探すのは、まだ続きそうだ。