ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

アイアンの番手

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これは、以前「天下の暴論」でも書いた事だけど、今のゴルフの試合中継の視聴率が上がらない隠れた原因じゃないか、と。
と言うより、一般のアマチュアゴルファーがプロの試合に興味を無くしつつある原因じゃないかと思うのだ。

先日、ゴルフ業界に関係のある人間と3人で飲んだ。
その時の話題で一人が
「今のゴルフの試合なんて、見てもちっとも面白くないよ」
「だってなにあれ! 残り200ヤードを8番だとか、残り160ヤードをピッチングだとか!」
「もう、別に勝手にやってろよ!って感じだよ」
「ニクラスでもワトソンでもバレステロスでも、俺たちと1番手かせいぜい2番手しか違わなかったのに...」

確かにそう思う。
今のプロの試合と言うものが、あまりに手にする番手が違い過ぎるために、見ている人間が(普通のゴルファーが)全く共感できない、ただのショーになってしまっている。
その番手の違いは、今のプロゴルファーがアスリートになって体力が違いすぎるのが原因と言うだけではないだろう。

自分は、前に「天下の暴論」で書いたように、番手に意味が無くなって来ている事が大きいと思う。
例えば7番アイアンで言えば
60年前のロフト...40度
40年前のロフト・・・38度
20年前のロフト...36度
現在のロフト・・・・・32度

つまり現在の7番アイアンは、60年前の5番アイアンのロフトであり、20年前の6番アイアンのロフトであると言う事。
それだけでなく、現在はもっとロフトが立っている7番アイアンも多数存在している。
そして、プロにとってはそれぞれが自分に合うように、あるいはメーカーの希望するようにロフトを変えているから、「7番で打ちました」と言ってもなんにも情報としては役に立たないのだ。
(KUROさんの情報に寄ると、MP800の7番は28度! しかし、今はこれが普通なんだそうです・・・これは20年前の5番のロフト!)

元々は、同じ距離を同伴競技者より長いアイアンで打ちたくない(つまり、飛ばないと思われたくない)と言う見栄が原因で登場した「同じ番手でロフトの立ったアイアン」だが、それがこんな風に秩序のないメチャクチャな番手表現になってしまった。

しかし、本当はこんな番手の違いにはなんの意味もない。
ある「芝の専門家」から聞いた話では、競技などで「芝の速さ」を決める時には、例えばピンから160ヤードと言う距離を考える。
その時、160ヤードのフェアウェイから打った場合はピン手前に落ちてグリーンに止まる。
ラフから打った場合は、160ヤード飛んでもグリーンには止まらない、と言う具合に調整するそうだ。
特別に変則的な技術でも使わない限り、160ヤード打つクラブが7番であろうと9番であろうとその止まり方に違いは出ないのだとか...
それは結局番手が違っても、160ヤード飛ばすロフトが同じようなものだから。
つまり番号に意味は無く、ロフトが決める事だからと言う訳だ。

実際にはシャフトや、クラブヘッドの形状でボールの飛び方止まり方は多少違うらしいが、本質的な事は変わらないらしい。
だったら、やっぱりロフトで番手の番号は統一するべきだと思うのだ。
例えば7番アイアンのロフトは36度、ピッチングウェッジは48度、5番アイアンは28度、3番アイアンは22度とか。
ピッチングは10番アイアンにして、その後は11番12番にしても良いし、間のロフトが良ければ7・5番とか4・5番とかがあっても良い。

ともかくそういう事を決めてしまって、それに反するものは違反クラブにする。
そんな風にすれば、「ああ、あのプロはここで8番のフルスイングか」とか、「お!あの距離を6番でクォーターショットか」なんて事だって想像できるし、「あのプロはちょうど自分より1番手飛ぶのか」とか、「あのプロのアイアンは自分と同じだ」とかで、よりプロの試合に親近感が湧くだろう、と思うんだけど。

これだけ沢山の道具を使うゲームに、統一基準がないのはおかしいと思わないか?