ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

諸行無常とは言え...

 

その人生の業績は、時間が評価してくれるだろう。
良いか悪いかなんぞ、真実は今はまだ誰にもわかりゃしない。

凶弾に倒れた政治家を、俺は好いていた。
勿論縁も所縁も会った事も、実際に見かけたことも無く、知っているのは映像を通した姿とマスコミを通した諸処の情報だけだったけど。
しかし、1度目は国指定難病のために1年で退場を余儀無くされ、2度目の首相就任で8年という連続在任を記録した...1度目の挫折後に「首相になったらやろうとした事が一つも出来なかった」事を深く反省し、「次にチャンスがあったら全力を尽くす」ことを肝に命じた、と聞く。

政策の良し悪しは今後の歴史が判定してくれるだろうが、「彼が首相の時代が悪かったか?」と言えば、「良くはなかったかが、それ程悪くはなかった」というのが俺の感想だ。
世界の大変化に対して、それなりに良くやったのではないか、と思う。

もともと裕福な政治家の家に育ち、政治家になるのも生活するにも苦労はなかったように見えた。
そうした環境で余計な苦労や屈折をせずに政治家になった彼には、かっての田中角栄のような「清濁併せ呑む」強さやスケールの大きさは感じなかったが、良いとこのボンボンのような「善良さ」と「誠実さ」が感じられた。
日本の「円」の裏付けのおかげとは言え、世界の国々との関係をうまくまとめ、約束を守らない無法国家にはきちんと「NO!」と言えた。
どの国とも卑屈にならずに、「対等」の関係を築きつつあるように見えた。
チャンスがあれば、「もう一回」の野望もあったろう。

それなのに、こういう最期が「彼」に「日本」にあった事が、気が塞いで心が収まらない。
「元」首相という立場とは言え、なんという警備の実態の微温さ。
(演説の妨害をする者を排除すると「言論の自由に反する」とかいう、なんともおかしな裁判の判決があった為に、厳重警備が出来なかったとか言われているが)

 


なんで? という疑問を考えて行くと、最近の日本の「無責任」と「失われた誇り」に行き着く。

最近のニュースで、専門職の人々の「プロ」らしからぬ行動がいろんな場面で目につくような気がする。
例えば、いじめの相談に来た者に対して、「今日はデートだから後にして」と言ったと言う担任の話、とか。
例えば、顔を打った生徒が目の前で吐いたりしても、「なんで目を打って吐くのよ」と怒って救急車を呼ばなかった養護教諭の話、とか。
例えば、虐待の情報を得ていながら、子供が死ぬまで何もしなかったとか言う「児童相談所」の話、とか。
...そんなニュースが日々増えているような気がする。

 

日本は「いい時代」に向かっているのか?

...それとも?