ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉔『ケセラ・セラ』

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1890年代末期から1920年代初頭に活躍したアメリカのプロにアレックス・スミス(1874~1930)という人物がいた

彼はスコットランド・カーヌスティのグリーンキーパーの五人兄弟の長男(実際には他に夭折した兄弟姉妹が5人いた)として生まれた。そのような環境からキャディやクラブ職人としてゴルフに親しみ、1890年代半ばから労働者ゴルファーとして地元で知られた存在になり、当時の英国のゴルフ週刊誌の地方ニュースや、ゴルフ年鑑掲載の所属倶楽部の情報欄にすぐ下の弟のウィリー(1899年度全米OP勝者)と共にコースレコード達成や競技参加者として度々名前が出てくる。

短期間に2つの倶楽部でプロ活動をした後、1898年にロバート・フォーガン工房の斡旋でグリーンキーパーとして渡米し、この仕事が嫌なので所属プロのフレッド・ハード(全英OP勝者サンディ・ハードの弟)に掛け合ったところ、クラブ造りの腕からプロ助手に昇格し、更にこの年の全米OPでハードに次いで2位に入った事により、カーヌスティの移民プロのパイオニアとして、また全米OP4勝のウィリー・アンダーソンと共にアメリカプロの双璧としての道を歩み、彼の弟と義弟達や友人・ライバル達がアメリカへと移住するきっかけとなったのである。

戦績を見ると全米OP2勝、ウェスタンOP2勝、メトロポリタンOP4勝、イースタンPGA3勝、フロリダOP2勝、サザンOP1勝、サザンカリフォルニアOP3勝、他倶楽部主催トーナメント各種。
USPGA発足の少し前までは、全米選手権とそれに近い日時に行われる大競技、あるいは南部や西海岸で行われる冬季の大会を除くと、所属する地区や州以外のトーナメントには出れなかった時代であることを考えると素晴らしいものである。
加えてジェリー・トラヴァースやグレナ・コレット等全米チャンピオンを育てたこと、コース設計の実績などからUSPGAの殿堂入りをしており、世界ゴルフ殿堂に入ってもおかしくないプロで、そのまま書き物になるだけの各種逸話を備えている。

彼のフォームはスタイリストで知られた弟達や義弟のメイデン兄弟達とは違い、パームグリップで握った長尺クラブを、シャフトが肩に乗るくらいフラットに引き上げ、横から右の手首と腕を使ってぶっ叩くという非オーソドックスなカーヌスティスウィングであった。
1909年末に英国PGA訪問団員として渡英した際に、J.H・テイラーの弟ジョシュ・テイラーから『横から叩く前時代的なスウィング』と評され、後年ボビー・ジョーンズの伝記作家O.B・キーラーからも『もし一般のゴルファーが彼のスウィングを真似したら壊滅的なフックを連発するだろう』と雑誌で書かれ、更に一世代後のジーンサラゼンは『彼が不安定だったのはバックスウィング始動で手首を折り始めていたからだ』と回想記で書いているからかなり特徴的であったのだろう。
(事実弟たちやライバルのアンダーソンに比べるとプレーにムラがある)

しかし、青年期にクラブ造りや、鍛冶業で培った腕っぷしの強さでフックをコントロールして長打を放ち、そのスプーンやマッシーの巧さは折り紙付きで、あのハリー・ヴァードンから『美しいアイアンショットと必殺のパットを持っている』と評されており。ウォルター・ヘーゲンも彼のチップショットとパッティングの巧みさを回想記に記している。

この名手達が評価するパッティング技術には彼の気質とモットー『Miss em quick(早くミスせよ)』が影響していたようだ。
※日本では全英OP勝者ジョージ・ダンカンの言葉とされているが、彼より活動期間の早いスミスが先に使っていたとみるべきである。

ライン上のゴミも退かさずに打つ事に対しO.B・キーラーが『それではボールがラインから弾かれるのでは?』と訊くと
『ラインから外れたボールがそいつで戻ってくる事もあるじゃぁないか』と答えたというから度胸と自信があったのだろう。
また彼は“陽気な楽天家”として知られ、ショットについて思い悩むことがなく、ベン・ホーガン的なウィリー・アンダーソン(ホーガンがアンダーソン的というべきか)や繊細で紳士的であった弟達に比べるとある種の強みを持っていた。

一例として挙げると、彼がアンダーソンとカナダの名アマチュア、ジョージ・ライオンと参加した1905年の全英OP。
会場のSt.アンドリュースは大会に合わせて、グリーンを狙うのに避けようのない“全か無か”的バンカーが多数増設され、参加者の批判を買った。
予選落ちしたアンダーソンは後でプレーしたロンドンのコースの方が公平だ。と憤懣を漏らし、アレックスもアメリカの雑誌で“全か無か的プレー”になり困ってしまった事を述べている。実際彼はバンカーを行ったり来たりする目にあったそうだ。
普通であればプッツンしてしまうところであるが、ハラハラするギャラリーに向かって
『ま、こンなのはホンの練習だから心配すんない』と笑って見せ16位Tに入っている。

この『サッサとプレー』と『クヨクヨしない』の精神の極致がフィラデルフィアクリケットCで行われた1910年の全米オープン最終ラウンド最終ホールでのパットだろう。
この大会ではアレックスは優勝候補の一人に数えられ、練習ラウンドでは67(-6)というスコアを出して大いに注目されていた。

しかし、蓋を開けてみたら大混戦、最終ラウンドでトップから4打差に旧チャンピオンや新進プレーヤーが団子状に並ぶ状況で、トップに立ったのは二人の若者、地元の少年プロ、ジョニー・マクダーモットと、アレックスの弟でカリフォルニアから三番目の兄と共に遠路参加したマクドナルド・スミス。両者とも前年に大きな競技で2位に入り、その筋から注目されていた。
前者は安定したゴルフ(74・74・75・75)で、後者は中盤の遅れを最終ラウンドのアンダーパーで取り返し(74・78・75・71)合計298で上がっていた。

 アレックスは前半をパープレー(73・73)で回っていたが、2日目の第三ラウンドで崩れ+6の79、そんな中迎えた最終ラウンド、先に上がった二人のスコアを追いかけながら出入りの激しいプレーをしており、後の無くなった彼は240yd・パー4の最終ホールで直接グリーンを狙いに行った。
このホールはある程度の距離と正確さが出せるプレーヤーであればティショットを乗せることが出来た様で、1908年度勝者のフレディ・マクロードはここで10ftのイーグルパットを沈める事が出来ていればプレーオフに残れたのだ。

アレックスのティショットは素晴しい当たりでグリーンに一打で乗り、其処からカップの上側、難しい15ftのパットを18inまで上手く寄せて勝利は確実と成る。
スタスタと歩み寄ったアレックスはいつもの様に直ぐアドレスに入り、ウィニングパットに取り掛かったのだが…次の瞬間ギャラリーのどよめきが広がった。

そう、彼はパットを外してしまったのだ。
皆が呆気にとられている中、当のアレックスは何が可笑しいのか、ケラケラ笑いホールアウト、合計298で勝敗は翌日のプレーオフに持ち込まれた。
この一部始終を見ていた教え子のジェリー・トラヴァース(全米OP・Am勝者)が、23年後に雑誌でこの時の様子を回想しているが、彼はグリーンを離れたアレックスに詰め寄り
『何であんな不注意極まりないパットをしたんだい?』と不快感を交え尋ねた。
其れに対してアレックスは
『あー、あれこれ考えてミスしちまうのが嫌でね、さっさとパットに取り掛かったってワケさ』
と返したのでトラヴァースは憤懣やる方無く
『それで外しちゃったら本末転倒でしょうに、バカなのか貴方は!?』
とぶちまけるのだが、当のアレックスは飄々と
『そりゃぁどういたしまして、まあ明日のプレーオフで皆やっつけるから心配すんなィ』と返したのである。

実際プレーオフは負けん気の塊で飛び掛かるマクダーモット、重度のプレッシャーによってショットとパットが乱れる末弟のマクドナルドに対し、アレックスは悠々とプレーし前半をリード。(アレックス37・マクダーモット38・マクドナルド41)
後半もマクダーモットは奮戦するが、ショットは良いものの肝心のパットが外れ追いつけず75、マクドナルドは当りを取り戻したが前半の崩れが響き77という中、ペースを守ったアレックスはさらに加速して34でまとめ71で上がり、二度目の優勝を果たしている。

世に陽気な、或いは楽天家と呼ばれるプレーヤーは数多在れど、一国のメジャー競技の大事な局面の軽率なミスも気にせず。酷いプレッシャーに成るはずの自身のミスにより起きたプレーオフにも悠々優勝するというのは、アレックス・スミスという人間がそれらの者達を遥かに突き抜けたゴルフ史上有数かつ実力の伴った楽天家として、世のプレッシャーに悩むゴルファーの為に長く語り継がれるべきだろう。 

                         ―了―
                       2021年2月16日記
                       

 

 

 

 

主な参考資料
・Golf Journal 1994年10月号掲載 Howard Rabinowiz『Alex Smith and The Early Days of American Golf』 USGA機関紙
・The Fifty years of American Golf H.B Martin 1966復刻版
・ゴルフ殿堂の人たち ロス・グッドナー著 水谷準訳 ベースボールマガジン 1982
以上JGA資料室より閲覧および、筆者蔵書

以下LA84 Foundation デジタルライブラリーコレクションより閲覧
・The American Golfer 1910年7月号『The Open Championship of The United States』
・The American Golfer 1923年6月18日号 O.B. Keeler 『Studying the Styles of Champions No.8-Alec Smith, Former Open and Metropolitan Champion』
・The American Golfer 1933年 7月号 Jerome D. Traverse 『A Former Champion’s Reflections Recalling the Late Alex Smith and His Philosophy the Game』
他USGA HP Segl Electric Golf Libraryより閲覧雑誌『Golf Bulletin』『The Golfer』等から各種記事閲覧
※LA84~、USGA共にThe American Golferは2010年代前半まで1934乃至35年分までアップされており、筆者は1923,33年の記事は2008~12年間に閲覧したのだが、国内戦前資料に注目している数年の間に著作権の問題か両HPで閲覧できるのは1923年以前の物のみに変更されているのを近年確認したので、資料検索をされる方はそれをご留意されてほしい

 

 


(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します)