ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

全英オープン話...1  「掘っくり返し屋のノート...1」

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トム・モリス・シニアとウィリー・パーク・シニア

全英OPが1860年十月十七日に始まってから、150余年が経つが、元々この大会はこの前年に亡くなった“プロの始祖”アラン・ロバートソン(1815~1859)の後継者を決めるアマチュア抜きのプロ(当時はその言葉は無かったが)トーナメントであった。

会場はスコットランド西海岸のリンクスプレストウィック、主催も同地のプレストウィックGCの単独によるもので、試合方式は12Hのコース(3799ydで各ホール132~578ydと変化に富んでいた)を三回廻るメダルプレー、優勝者には大枚30ギニー(£31.10シリング)のチャンピオンベルトが用意され、三連勝者に永久贈呈される事が決められた。

 大会の参加者は八名で、主催であるプレストウィックの会員達は所属プロのトム・モリス(1821~1908)の優勝を信じて疑わなかった。
というのもモリスは参加者中最高のプレーヤーと見られていただけで無く、所属十年目で12Hのコースも彼が設計し、地の利があった上、彼と亡き師ロバートソンの最大のライバルであったマッスルバラの双子のダン兄弟はイングランドにいて参加しなかった為で、この大会も彼の売り出しの意味合いが有ったのだが…

蓋を開けてみると、意外な事にダン兄弟の後輩にあたるマッスルバラのウィリー・パーク(1834~1903)が174ストロークでモリスを二打押さえて優勝する大番狂わせが起きた。
 この大会以前にも二人は賞金マッチで戦いパークが二勝しているが、この大会から二人は宿命のライバルというべき戦いを繰り広げて行く。
これは大抵のゴルフ書籍に書かれている事なので少し掘り下げると

モリスは正確かつ堅実なプレーと長~中距離パットに定評が有ったのだが、なぜか60~45㎝程度のショートパットを余りにもミスする欠点があり(恐らくイップスだったのではないか)彼と親しかったR&Aメンバーが『プレストウィック在住ショートパット外し屋殿』と手紙を送ったら届いた話が残っている。
 一方パークは下馬評で冒険がちと低く見られたが、長身大躯のハードヒッターであると共に息子のウィリーJr.(1864~1925、全英OP二勝)の名声に隠れ気味だが息子同様『パットの神様』と称されたパッティング巧者であったのだ。

タイプの全く違う二人のプレーは人を引き付け、大会の方もお互いに獲ったり獲られたりを続け1・2フィニッシュが四回有り、第八回大会までの間、六回大会のアンドリュー・ストラス(1836~1968)の優勝を除き、全英OPはパーク・モリスの独壇場であった。
(パーク1860,63,66,74優勝、モリス1861~62,64,67優勝)
更に彼等の戦いの感の強かった大会にモリスの息子達(トムJr.、J.O.F)やパークの兄弟(ムンゴ、デヴィッド)等も加わって初期の大会を彩り、1860年代終盤にはトム・モリスJr.の伝説的な活躍へとシフトして行く。


・参考文献
摂津茂和コレクション?鵯ゴルフ史話       摂津茂和 1992ベースボールマガジン
摂津茂和コレクション?鵺ゴルフ千夜一夜     摂津茂和 1992 ベースボールマガジン
ゴルフ名勝負物語               摂津茂和 1975報知新聞
ゴルフ殿堂の人たち              ロス・グッドナー著 水谷準訳 1982ベースボールマガジン
セントアンドリュース物語           角田満弘・邸景一・三島叡共著 2001日経BP
ゴルフギネスワールド             ドナルド・スティール著 岩田貞夫訳 1982 講談社
Golf In The Making(二版改定版)        Ian Henderson&David Stirk共著 1986
Antique Golf Collectibles (第三版)       Chuck Furjanic 2004
・参考サイト
The Open Championship Official Site


(松村信吾さんへのコメントは、「松村博士へ」として書いて下さい)