ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート⑰『堅実か挑戦か』

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神戸GCの18番ホールはドラマチックな展開を生み出す様な造りになっている。
このホールは昔から250yd台(現在バックティ258ydフロントティ223yd)の短いパー4なのだが、ティとグリーンを結ぶ位置にOBとなる谷間(正確には崖と斜面)があり、フェアウェイはそれに沿って右側に迂回するような緩い左ドッグレッグのレイアウトで、普通に迂回すればミドルアイアンとショートアイアンの二回で届くのだが、一定以上のヒッターならばグリーンを狙えそうな直線距離。しかもクラブハウスのテラスの真下がこのホールのグリーンである為、ギャラリーたちの注目を集めるという『堅実か挑戦か』を求めるホールだ。

※大谷光明による戦前期の回想記事では迂回ルートでは50yd以上表示ヤーデージより伸びる事が書かれており。フロントティからではあるが二度の日本ヒッコリーOPで同地をプレーした筆者の感想としても、迂回する角度にもよるが、確かに表示ヤーデージよりも30~60yd位程距離が延びる様だ
 一方、ショートカットをしてグリーンに乗せるには、フロントティならば200~210yd以上、バックティならば230yd以上のキャリーが確実になければ谷に落ちてしまう。
(古くは右サイドのクラブハウス側の土手にぶつける方法があったが、現在はバンカーやツツジの植え込みにより出来ない)
フェアウェイ180~200yd(200~220yd)地点に置くと後のアプローチがし易いのだが、崖が食い込んで一番狭い場所なので、良いスコアを出そうとするには攻略方法を考えさせられる。

この堅実か挑戦かの戦いは1907年の第一回神戸横浜対抗戦(インターポートマッチ)で神戸GC代表のJ.A・マックギルが当時254ydのこのホールで谷越えを狙い、グリーンエッヂに運んで(グリーンに乗ったとも)以降、初期の外国人・邦人トップアマチュアや若き日の宮本留吉など様々なプレーヤーが1オンに挑戦し、ヒッコリー~初期スチールシャフト時代の日本Am、関西Am、倶楽部対抗戦、倶楽部選手権等、様々な場面でドラマを生んでいった。

筆者も第二回日本ヒッコリーOPで、前日このホールの歴史の話から支配人と1オンを狙う約束をしたものの、当日は五里霧中そのものの濃霧に加え、昼過ぎには神戸と有馬からの雨雲が合体する悪コンディションで、遅い組は皆ずぶ濡れのプレーとなった。
筆者はその遅い組で13~14番あたりから何が何やらの状態になって迎えた18番、濃霧の中グリーンを狙ったショットは行方不明に…同じ組の方たち曰く『引っ掛けて谷側に行った、こんな状況下では無謀だよ…』と呆れられてしまったのは良い?思い出だ。

筆者の失敗談はさて置き、このホールにおける『堅実か挑戦か』が大選手権で明暗を分けてしまった話を紹介したい
この話の主人公は以前の書き物で紹介したカーヌスティ仕込みの謎の名手A.T・ホワイト、舞台は同地で行われた1913年度日本Am(36Hストロークプレー)。
 この大会は前年優勝者の横浜の小柄なスウィンガー、アルフレッド・ラッゲとホワイトの戦いであった。

第一ラウンド、ホワイトはベストスコアタイの80を出して横浜のC・バイロンと並んだ。3位に81を出した神戸のJ.P・アーサー、続いてラッゲと神戸のA.R.W・メンジーが共に83で4位T、神戸の健脚J.P・ウォーレンが84、85の横浜のK・ハードマンが続き優勝争いは彼等に絞られた。
 午後の最終ラウンド大抵のプレーヤーは午前よりも良いスコアであったが、上位陣の動き以外に大きな変動はなかった。
 その上位陣は午前三位であったアーサーが93を打って圏外に去り、ハードマンが78で浮上、ウォーレンは81、で伸ばしきれず。という中、ラッゲが76というベストスコアを出し159。78を出して161で纏めたメンジーに2打差、82のバイロンに3打差をつけトップに立った。
遅い組のホワイトもホームコースの有利さか着実にスコアを纏め、途中先行のラッゲが78で上がり159となった事も耳に入ったが、乱れることもなく最終ホールのティに立った。ここまでのスコアは71、ラッゲのスコアを破るには7で充分と勝負はほぼ決したかに見られた。

この状況ならばアイアンでフェアウェイに置き2打で乗せ4を出すのが確実であろう。しかしロングヒッターのホワイトにとって、この254ydのホールは1オン出来る距離で平時もそうプレーして成功している為、この大事な局面でもショートカットを選択し、現在一位のラッゲを始めクラブハウスの観客達が見守る中果敢に狙いにいった。
 しかし彼のショットは谷に落ち、次も、更にその次も、また次も谷に落ち、五回目に漸く対岸に届いたが、時既に遅く、スコアは13、84で総計164ラッゲに5打差の五位に終わり長蛇を逸した。
(筆者注=ホワイトのこのホールのスコアは資料に残っていないが、換算するとこの数字になる。またこの時代OBの処置に関しては、現在の距離と打数の罰のほか、距離のみの場合もあるので若しかしたらOBの数はさらに多いかもしれない)

1923年の『Golf Dom』3月号『ゴルフ界無駄話』でPN. “ある東京の住人“(大谷光明が同じ話を1936年に『Golf(目黒書店)』記しているので同人と見られる)が最初に邦人ゴルファーにこの話を紹介しているが、平時と違うプレーをできなかったホワイトについて『彼をスポーツマンだと称賛する者と好漢兵法を知らずと笑う者がいるだろう。いずれにしてもこれは強者の悲哀である。』と評している。
英文だとそれ以前1921年発刊の『INAKA第14巻』掲載のH.E・ドーントによる神戸GCの攻略方法についての文中で、メダルプレーでは勇気よりも慎重さが良い結果をもたらすとして、18番において、『長打者がギャラリーにそれを誇示しようとして敗れた選手権を少なくとも一つ知っている』と名指しをしてはいないがホワイトの一件を事例として挙げている

この出来事については、ドーントの言う様にホワイトが自分の技量を過信して自爆した見栄坊と取れもするし、大谷の言う様に自分の持てるスキルを最大限に使って挑戦した、今は無きいにしえのスポーツマンシップ精神の発露とも取れる。あるいはギャラリーの目が気になって他の選択肢を選べなく成る事や、平時の事が出来なくなってしまう選手権のプレッシャーの恐ろしさを表しているのやもしれない。

尤も筆者のような、大会でスコアも関係ないような順位に居ながら、この18番でOBを打った後すぐショートウッドでフェアウェイに置く凡骨に、他者の内なる戦いについて訳知り顔でとやかく云う資格があるや否や。

 

―了―

※『INAKA第14巻』の記述について同書の翻訳版『霧の中のささやき』では『ギャラリーに見せびらかそうとして、ドライバーを打って負けたチャンピオンを少なくとも一人は知っている(P211 原文ママ)』
とありますが原文は『I know of at least one championship that was lost by a long driver trying to show off to the gallery.(P29)』
のため本文内の翻訳としました。良い表現の翻訳が有りましたらご教示ください

                            松村信吾

 参考資料
神戸ゴルフ倶楽部史 1966 神戸ゴルフ倶楽部
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1995 復刻第二版
日本ゴルフ協会七十年史 1994 日本ゴルフ協会
・霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1989 ※『INAKA』全18巻のゴルフ項目の訳書
・『Golf Dom』3月号P18~20 “ある東京の住人“(大谷光明?)『ゴルフ界無駄話』
・『Golf(目黒書店)』1936年1~3月号 大谷光明 『日本アマチュア選手権物語㈠~㈢』
・『INAKA』第三巻 『The Golf of Rokkosan』
・『INAKA』第十四巻 『The Golf of Rokkosan The shots of that pay』

※、JGA本部資料室国立国会図書館で閲覧料及び筆者所蔵史料より

(この記事の著作権は、すべて松村信吾氏にあります。)