関西邦人ゴルフのパイオニアに久保正助という人物が居た。
彼は神戸ガスの重役で、1914年に鳴尾GAが出来た頃に英国仕込みのパイオニア伊地知虎彦(1927年度日本Am2位)の勧めで始めたという、国内生え抜きでは最古参のプレーヤーで、南郷三郎らとともに舞子CCを組織するなど、関西ゴルフの発展に関与している。
久保はレートビギナーかつずんぐりとした体形であったが、熱心なゴルファーで早くに上達し、舞子CCを代表するプレーヤーとして神戸や鳴尾との対抗戦や、初期の『Golf Dom』の倶楽部競技レポートに上位ないし優勝者として名前が出てくる。
彼は仕事の関係で海外を回ることがあったが、その際にゴルフも楽しんでおり、筆者の知る限りではSt.アンドリュースでプレーした記録に残る最初期の日本からの訪問者でもある。(彼が『Golf Dom』へ送った1924年2月6日付書簡に『今朝』とある)
そんな彼が1923年の春頃中国へ旅行に出かけた時の話。行き先にゴルフ場があることから念のため荷物にマッシーを一本入れていった。
当時の中国の各都市には在留外国人が作ったコースがあり、特に上海と香港のゴルフ熱は有名で、上海では日本人商社マン達により組織された日本人倶楽部の面々が、自分たち及び同地のゴルフ界動静を『阪神ゴルフ』や『Golf Dom』で紹介している時代であった。
この時の久保は北部を回ったらしく、道中国際的クラブで知られた青島の競馬場コースや北京でボールを打って見たが、飛びが日本とは違うのでウッドクラブを打ってみたいという欲求が湧き、ゴルフ倶楽部のある天津の街でゴルフ用品を扱うショップに寄ることにした。
ショップを覗いてみるも中々満足する品がないので、もう少し良いものは無いかしら?と尋ねると、注文の多いずんぐりとした日本人のオジサンに対する侮りもあったのか、番頭ドン『ゴルフは腕前だよ、俺は昨日このカップを獲ったのだよ』とソレを引っ張り出してきて見せてくる。
それをみて久保が『君のハンディは?』と尋ねると『6さ、そういうお前さんは?』との切り替えし、
筆者の調べでは、当時久保はホームコースの舞子でハンディキャップが1922年11月~23年1月時に10から7になっている。
1つ負けているからそのまま答えたら侮られると思ったのか、久保さんとっさに『3』と答えた。
ナニっと目をむく番頭ドン『ドコで??』
久保『Yokoyaだ』
番頭『Yokoyaってドコのコースさね』
久保『神戸近郊のシーサイドコースだよ』
と云うと、番頭ドン今までの威勢が失せたのか『それならば簡単に俺をヤッツケられるだろうな、でもここにある品は悪いハズは無いのだけれども…』とすっかり萎れてしまった。
このYokoyaとは、お気づきの方もいるであろう。神戸の貿易商W.J・ロビンソンが冬季でもゴルフができるように、と1904年に設立した横屋GAで、久保が話した当時は甲南GCとして運営されていた6ホール1196ydのショートコースの事である。
相手がコースを知らないであろうと踏んでの切り返しであろうが、この話が掲載された『Golf Dom』6月号では『それにしても当意即妙うまく覚えて居たものである』と評されている。
これは見栄と言ってしまえば見栄であろうが、久保と番頭の互いのプライドのぶつかり合いと、とっさの返す刀での一転攻勢がこの話に味をつけているのだろう。
続けて、同時代に久保は真逆のプライドを発露させたゴルファーの話があるので紹介をしたい。
その主人公は同じ関西で活躍したゴルファーで西村貫一という。
彼は近代日本史の重要人物たちが数多く投宿している神戸の西村旅館の三代目で、お坊ちゃんとして育った為かエキセントリックとも採れる言動をしながらも、その鋭敏な観察眼や率直な批評精神で様々な階級の人たちに一目置かれた神戸の奇才として有名であった。
ゴルフ方面でも強烈な個性を放ち、『Golf Dom』創刊者の伊藤長蔵と共に本邦ゴルフ界における博覧強記であり、『日本のゴルフ史』著者。世界的なゴルフ書籍収集家として知られるが、プレーヤーとしても生来のやるならトコトンの精神から、これもまた日本女子競技ゴルファーのパイオニアとなる妻のマサ夫人に
『共にシングルハンディ(日本一とも)になるまではベッドを共にしない』
と言って3年間実行したという話や、外国人ゴルファーに追いつけ追い越せと必死にスコアを気にする仲間たちが多い中、プレーの結果だけでなく過程も楽しむことを説き。(当時多かった)言い訳をベラベラしゃべる事に警句を鳴らし。綺麗な、雄大なフォームでよいショットを出せるように目指そう。と、天才赤星六郎が後年雑誌に書いたのと同じ事を10年ほど早くから訴えるなど、並のゴルファーではなかった。
その腕前も抜きんでており、本格的に始めた翌年の1923年8月には神戸GCで5、鳴尾GC(コース拡張改造に尽力)や舞子CCでも入会2~3年目でトップクラスの腕前となったのだが、マサ夫人と次男の雅司の回想によると彼はプレーの際ハンディキャップを付けることを好まなかった。
実際筆者が彼の現役時代の『Golf Dom』掲載の各クラブ競技記録を調べてみると、西村はハンディキャップの付いたクラブ競技には全くと言っていいほど出ずに、クラブ選手権などスクラッチ競技のみに参加しているのが確認できる。
そんな西村が神戸GCで初めて顔を合わせた外国人プレーヤーと一緒にプレーをしたある日のこと、スタート前に相手が西村にハンディキャップを訊ねてきた。
西村はいつも通りのスクラッチ精神から、『ハンディなんてないよ』と答えると彼は新米プレーヤーと思ったのか『じゃぁ君は下手なんだね』とのお言葉。
その言葉に対し西村『下手かどうかはやってみれば判るさ』と返し、それでは。と二人はコースに乗り出した。
そこでこの外国人プレーヤーは西村の距離は出ないが正確かつ綿密なプレーの一部始終を目撃することになり、プレー後態度を改め『君はシングルハンディ以上だ』と脱帽した。
と神戸ゴルフ倶楽部史にマサ夫人らの話として掲載されているが、これは『風変わりな』と評された西村の面目躍如というべき逸話であろう。
西村はゴルフを止める事に就いてもある種の美学を持っていて、自分より巧い者達が増えてきた事と(大病等で)自身の腕前が落ちたことにより1931年に所属倶楽部を退会し、ゴルフをスパリと止めて、番頭任せであった家業の改革に取り掛かっている。
プレーを止めた後は生来のやるならトコトンの精神により、この旅館業に愉しさを見出し数々の逸話を作っているが、大好きであったゴルフとは縁は切れず、ライフワークであった西村旅館史編纂と共にゴルフ蔵書収集と目録編纂を生涯に渡って続けている。
プレーヤーとして負けん気で相手に切り返した久保に、独自の美学を貫いた西村。どちらが優劣ではなく初期の熱心者達のプライド二態として読者諸兄に紹介させていただきました次第。
―了―
2019年11月23日記
主な参考史料
『Golf Dom』1922~30年分各クラブ競技記録
『Golf Dom』1923年6月号P28 『19th HOLE.』
『Golf Dom』1923年8月号P18~20 C.I(伊藤長蔵)『六甲山顚のゴルフ』
『Golf Dom』1923年9月号P24~25 西村貫一 『偶感』
『Golf Dom』1924年3月号P20『久保正助氏より』
・神戸ゴルフ俱楽部史 神戸ゴルフ倶楽部 日本写真印刷 1966
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松社 1976復刻初版
・『西村旅館年譜』
・『歴史と神戸』1970年3月号 P4~11芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一 やりたいことを徹底的にやりとげたリベラリスト』神戸史学会
・写真帳『初期の日本人ゴルファー達』より1919年鳴尾GAにおける久保正助 西村蔵書
資料はJGA本部資料室、国立国会図書館にて閲覧および筆者蔵書より
(この記事の著作権は全て松村信吾に所属します)