ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

個人的な「遊び」としてのゴルフ

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完全に押さえ込めなかった花粉症の症状がコースで出ることを想像しただけで、この時期にコースでゴルフをプレーする情熱は完全になくなってしまう。
本当は、もうゴルフシーズンは始まっているはずなのに、それが主な原因で心がゴルフをプレーする情熱に満たされない。
...マスターズが開かれる4月がもうすぐそこなのに。

プレーするなら、自分にとってはヒッコリークラブに糸巻きボールの変態ゴルフしか考えられないんだが、なんだかそれも今ひとつ。
先日の嵐の中の漫画家コンペで、久しぶりの現代クラブでの「ドライバーでのぶっ飛ばし」と「ピンを指すパンチショット」の手応えは感じたものの、それで月例なんかに行ってガツガツとしたゴルフをしたいという気も無い。

ゴルフをする予定があるのは定期的に開かれる漫画家コンペだけなのだが、それ以外の予定を立てる気にならない。
奥さんとツーサムで、遠くても安くて知らないコースを回る「旅ゴルフ」も、奥さんが右肩の古傷を痛めてしまい、当分ゴルフが出来そうに無い。

オープンコンペでも良いんだが、ハイシーズンのオープンコンペはプレーフィが高い。
仕事を続けているとは言え、収入の少なくなった身には1回のプレーフィが1万円を超えるものには参加しない。
大体しばらく前から、一切の土・日・祝祭日のプレーには参加していない(出来ない)し、平日のプレーでも1万円を切るコース以外は知り合いからのお誘いも全て遠慮させて頂いているくらいだから。

やはり、我々レベルの生活ではゴルフというものは、身に釣り合わない贅沢遊びだということをしみじみ思い知る。
今我々が楽しんでいる「ゴルフ」は、確かに本当に我々の退場とともに滅びるだろう。
私が子供の頃の娘たちに触れさせた「ゴルフ」も、「あれは贅沢すぎる」と結局二人ともその後やることがなかったように、我々庶民レベルの生活にはゴルフは今後根付くことは無いだろう。

ゴルフというものは、その遊び代を負担と思わない人達にだけ、昔と同じように生活の一部として淡々と続いていくだろう。
それはあの「スキー」と同じだ。
そういう遊びをやったことのなかった我々には、それが「手の届く」ところに来たと感じた時に、(心の中に密かに持ち続けていた憧れととも)喜び夢中になったのだ。
それは我々の年代のみが(団塊世代というやつだ)、感じていた「豊かになっていく(筈の)未来」への象徴でもあった。
「ゴルフ」にも、同じような「反発と裏腹な憧れ」が多分にあった。
「手の届くはずのなかった上流階級の遊びが、手の届くところに来た」という...いわば「プチブルメガ!」といかにも軽蔑したように吐き捨てながら、結局自分は憧れの「外車」を買う「カイキュートーソーノサヨク」のような...

俺も「あんな金持ちの棒振り遊びを、誰がやるか!」なんて思っていながら、仕事で止むを得ずやってみたら「こんなおもしろいものはない!」と即ハマった人間だ。
俺が始めた当時の周りの知り合いはほぼ全員このパターンだった。

そんな時代が終わるのだ。
俺は、もう名門と呼ばれるコースや高額なプレーフィの高級コースで遊ぶことは無いし、ガツガツとスコアにこだわることも無い。
うちの子供も、今ゴルフを共に遊ぶ知り合い達の子供の大部分もその子孫たちも、もう我々のようにゴルフに触れることは多分無いだろう。

生活の豊かな人達の競技ゴルフや名門世界のゴルフや、プロたちのゴルフは廃れて無くなることは無いけれど、庶民のビンボーゴルフが滅びて消えて行く息遣いを俺は感じている。


残念だ。
多くの人が生活にほんの少しの余裕を持てれば、もっと安くゴルフを経験できる場が多ければ...
ゴルフって奴は、誰もが長い時間(ひょっとすると一生?)楽しめて、かつ最高の友人に出会える機会の多い、最高の大人のゲームなのに。


...今日、医者から出してもらった花粉症用の飲み薬・目薬・点鼻薬が全くなくなったので、第2回目の花粉症用の薬を貰ってきた。
(スギが終わって、今度はヒノキ用と言うことだ。)